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読み誤る漱石論者たち 阿刀田高⑦ 「小説の技法において巧みな人ではなかった」だと?

 〈道草〉はつらい、つらい、楽しみにくい作品だ。漱石の健康状態とも関わっているのかもしれない。胃病に苦しみ、死の一年あまり前の執筆だった。(阿刀田高『漱石を知っていますか』新潮社、2017年)

 これは評価ではなく個人の感想なので云々しない。しかし無理にそう読まなくてもいいんじゃないかという与太話を一つ。

 極めてざっくりまとめると『道草』は健三があちこちから金の無心をされる話だ。この一つ前の『こころ』との関係で言うと、働かなくても暮らしていけて、話者の帰省費用でもすっと出してくれる先生を見て、漱石に金の無心にくる弟子たちが沢山いた筈だ。時期は色々あるが、実際何人もの弟子が漱石から借金をしている。『こころ』を読み話者に嫉妬して、漱石に甘えたくて無理でも借金しようという弟子がわっと押し寄せたところで、流石に閉口した漱石が「お前ら、金くれ、金くれってうるさいんだよ」という気持ちで『道草』を書いたのだとしたら、これは面白いのではなかろうか。

 ただ『道草』は漱石の生涯をなぞっていても私小説ではないという阿刀田高の見立ては間違いではないので、細かい読み飛ばしは今回は指摘しない。

 そして『明暗』である。これも結末が解らないからと評価していないのでスルーしようかと思ったが、なんと「小説の技法において巧みな人ではなかった」と書いているので少し文句を書いておく。

 まず津田の病気を痔としているが、結核性を疑うなら痔瘻だろう。

 が、その実、津田は去年、肺臓のあたりに激しい痛みを感じており、医院からの帰り道、電車の中でそれを思い出してしまう。(阿刀田高『漱石を知っていますか』新潮社、2017年)

 と、阿刀田高は痔瘻とは別の灰の病気があつたように読んでいるが、

 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛がありありと記憶の舞台に上った。白いベッドの上に横えられた無残な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸り声が判然聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾り出だすような恐ろしい力の圧迫と、圧された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇しい苦痛とが彼の記憶を襲った。(夏目漱石『明暗』)

 これは「前回の手術の際にはメスの痛みで唸り、息が吸いこめないほどの声が出た(または息を吐いた)」ということで、肺そのものに痛みを感じるような病気があったということではないのではなかろうか。ちなみに診療所と医院は別のものである。

 また阿刀田高は津田と吉川夫人の会話が「息苦しく、楽しめない」そうだが、

だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳と少しになります」
「早いものね、ついこの間だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉しいところは通り越しちまったの。嘘をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊とおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」(夏目漱石『明暗』)

 いや、現代人ならばこそ、上司の奥さんとのこのセクハラまがいの会話こそ楽しいのではなかろうか。仕事関係の新婚さんの夫婦仲を聞くことは現在ではタブーであろうが、とても息苦しいものとは思えない。そしてこうした会話を交わす二人の関係性と云うものがミステリーになっていることを見なくてはならない。この会話がなければ、次の文章を理解することも難しい筈だ。

 四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂いを至る所に嗅いだ。甘い空想に充ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然鮮やかな焔に変化した自己の感情の前に抃舞したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯があったから、ぱっと火が点いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧るとその時からもう半年以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいは極めて現実化され悪いものらしくなって来た。お延の胸の中には微かな溜息さえ宿った。(夏目漱石『明暗』)

 こう言った場面がきちんと読めていないからではなかろうか。ここにはおそらく初夜とその後のセックスレス、子供ができないことが書かれている。え? と感じた方います? 初夜はあった。処女ではないからだ。「瓦斯があったから、ぱっと火が点いた」が初夜だろう。半年経過して妊娠の気配がないことから、子供が出来ない事を「現実化されない」と表現している。

 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢に倚りかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃のがれたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊った自覚がぼんやり働らいていた。(夏目漱石『明暗』)

 津田は読書するふりで夜の営みを避けている。お延は物足らない。津田がお延との夜の営みを嬉しく思わない理由は明らかではないものの、津田と吉川夫人の会話には、津田をして清子に向かわせる理由の一部があるように見える。ストレートに説明するのではなく仄めかすのだ。「参禅をする」は「家を空ける」と読む、「勉強をする」は「夜の営みをしない」と読む、そうして直接説明されないところを読んでいくのでなければ、夏目漱石作品を読むことはできないだろう。津田の年齢確認も何かの前振りであろう。(私は『草枕』『三四郎』『坊っちゃん』との関係で考えても面白いと考えている。)

「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あっても宜しいじゃございませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」(夏目漱石『明暗』)

 こんな会話を阿刀田高は「読み手までがいらいらしてしまう会話が続いていく」と批判してしまう。この「読み手までが」というのは「お延ばかりではなく」という意味なのだろうが、それこそ『彼岸過迄』のように結果として賺しに終わったのなら文句を言っても良いが、未完だから評価しないというのであれば、『明暗』の落ちを見て文句を言うべきだろう。『こころ』も二度読むと、ああこういう話かと全体の構成が掴めるような作品なので、ふりはかなり長い。頭からふりなのだから。しかしそこをいらいらするのであれば、やはり夏目漱石作品を読むのに向いていないということなのではなかろうか。

 例えば『行人』について物語構造が掴めず、長くて退屈だ、と嘆いている人が読書メーターにいたので、思わず、ここをこう読んだらどうでしょうとコメントしそうになった。いや、この人には基本的な読解力がないとして、そこを指導するのは教育者の役割だと思いなおして止めたが、阿刀田高にも同じことを云わねばならないだろうか。

「姉さん」
 嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。
「何よ」
 彼女の答は何だか蒼蠅そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘だと思うならここへ来て手で障って御覧なさい」
 自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」と嫂が答えた。
 自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに持って来た。そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔がちらちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井はもちろん、灯の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。ことさら床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影響を受けた自分は手拭いを持って、また汗を流しに風呂へ行った。風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。(夏目漱石『行人』)

 これは物凄い描写だ。二郎の視線は嫂に向けられないようでいて「灯の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。」の解釈によっては、まだ浴衣に着替え終わらない嫂に蝋燭の明かりが届いたので「どよめいた」のではないかとも考えられる。だから柱や天井、軸や花と視線が泳ぎ、汗をかいた二郎は風呂に逃げたのだとも。
 説明するのではなく、こうして読者に想像させるのが漱石の作法なので、何が起きているのか考えようとしない人には何が起きているのかということさえ解らないだろう。

「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
 お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
 小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳み皺が幾筋もお延の眼に入いった。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆に行った。
「ちょうど好いようですね」
 彼女は誰も自分の傍にいないので、せっかく出来上った滑稽な後姿も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
 すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐をかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
 お延は急に口元を締めた。(夏目漱石『明暗』)

 果たして小林は何故この場で外套を着たのか。畳み皴ができていることには気が付いていなかったのか。お延が「ちょうど好いようですね」と云ったのに「変な着物」と小林が言ったのは何故なのか。無論ここには分かりやすい落ちはないが、細かいふりをどんどん拾っていくこと自体は、落ちへの期待を高める読書の楽しみそのものではないのだろうか。この「変な着物」や「どよめいて」に気が付かなければ、それは退屈なのかもしれない。しかしこれは巧みな小説の技巧である。

 少しは読者も巧みにならなくてはならない。




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