これは評価ではなく個人の感想なので云々しない。しかし無理にそう読まなくてもいいんじゃないかという与太話を一つ。
極めてざっくりまとめると『道草』は健三があちこちから金の無心をされる話だ。この一つ前の『こころ』との関係で言うと、働かなくても暮らしていけて、話者の帰省費用でもすっと出してくれる先生を見て、漱石に金の無心にくる弟子たちが沢山いた筈だ。時期は色々あるが、実際何人もの弟子が漱石から借金をしている。『こころ』を読み話者に嫉妬して、漱石に甘えたくて無理でも借金しようという弟子がわっと押し寄せたところで、流石に閉口した漱石が「お前ら、金くれ、金くれってうるさいんだよ」という気持ちで『道草』を書いたのだとしたら、これは面白いのではなかろうか。
ただ『道草』は漱石の生涯をなぞっていても私小説ではないという阿刀田高の見立ては間違いではないので、細かい読み飛ばしは今回は指摘しない。
そして『明暗』である。これも結末が解らないからと評価していないのでスルーしようかと思ったが、なんと「小説の技法において巧みな人ではなかった」と書いているので少し文句を書いておく。
まず津田の病気を痔としているが、結核性を疑うなら痔瘻だろう。
と、阿刀田高は痔瘻とは別の灰の病気があつたように読んでいるが、
これは「前回の手術の際にはメスの痛みで唸り、息が吸いこめないほどの声が出た(または息を吐いた)」ということで、肺そのものに痛みを感じるような病気があったということではないのではなかろうか。ちなみに診療所と医院は別のものである。
また阿刀田高は津田と吉川夫人の会話が「息苦しく、楽しめない」そうだが、
いや、現代人ならばこそ、上司の奥さんとのこのセクハラまがいの会話こそ楽しいのではなかろうか。仕事関係の新婚さんの夫婦仲を聞くことは現在ではタブーであろうが、とても息苦しいものとは思えない。そしてこうした会話を交わす二人の関係性と云うものがミステリーになっていることを見なくてはならない。この会話がなければ、次の文章を理解することも難しい筈だ。
こう言った場面がきちんと読めていないからではなかろうか。ここにはおそらく初夜とその後のセックスレス、子供ができないことが書かれている。え? と感じた方います? 初夜はあった。処女ではないからだ。「瓦斯があったから、ぱっと火が点いた」が初夜だろう。半年経過して妊娠の気配がないことから、子供が出来ない事を「現実化されない」と表現している。
津田は読書するふりで夜の営みを避けている。お延は物足らない。津田がお延との夜の営みを嬉しく思わない理由は明らかではないものの、津田と吉川夫人の会話には、津田をして清子に向かわせる理由の一部があるように見える。ストレートに説明するのではなく仄めかすのだ。「参禅をする」は「家を空ける」と読む、「勉強をする」は「夜の営みをしない」と読む、そうして直接説明されないところを読んでいくのでなければ、夏目漱石作品を読むことはできないだろう。津田の年齢確認も何かの前振りであろう。(私は『草枕』『三四郎』『坊っちゃん』との関係で考えても面白いと考えている。)
こんな会話を阿刀田高は「読み手までがいらいらしてしまう会話が続いていく」と批判してしまう。この「読み手までが」というのは「お延ばかりではなく」という意味なのだろうが、それこそ『彼岸過迄』のように結果として賺しに終わったのなら文句を言っても良いが、未完だから評価しないというのであれば、『明暗』の落ちを見て文句を言うべきだろう。『こころ』も二度読むと、ああこういう話かと全体の構成が掴めるような作品なので、ふりはかなり長い。頭からふりなのだから。しかしそこをいらいらするのであれば、やはり夏目漱石作品を読むのに向いていないということなのではなかろうか。
例えば『行人』について物語構造が掴めず、長くて退屈だ、と嘆いている人が読書メーターにいたので、思わず、ここをこう読んだらどうでしょうとコメントしそうになった。いや、この人には基本的な読解力がないとして、そこを指導するのは教育者の役割だと思いなおして止めたが、阿刀田高にも同じことを云わねばならないだろうか。
これは物凄い描写だ。二郎の視線は嫂に向けられないようでいて「灯の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。」の解釈によっては、まだ浴衣に着替え終わらない嫂に蝋燭の明かりが届いたので「どよめいた」のではないかとも考えられる。だから柱や天井、軸や花と視線が泳ぎ、汗をかいた二郎は風呂に逃げたのだとも。
説明するのではなく、こうして読者に想像させるのが漱石の作法なので、何が起きているのか考えようとしない人には何が起きているのかということさえ解らないだろう。
果たして小林は何故この場で外套を着たのか。畳み皴ができていることには気が付いていなかったのか。お延が「ちょうど好いようですね」と云ったのに「変な着物」と小林が言ったのは何故なのか。無論ここには分かりやすい落ちはないが、細かいふりをどんどん拾っていくこと自体は、落ちへの期待を高める読書の楽しみそのものではないのだろうか。この「変な着物」や「どよめいて」に気が付かなければ、それは退屈なのかもしれない。しかしこれは巧みな小説の技巧である。
少しは読者も巧みにならなくてはならない。