#卒業論文マニュアル
何故芥川龍之介作品は誰にも読まれなかったのか① 吉田精一を永久追放しないと駄目だ
まだまだ芥川龍之介については書きかけですが、これまでのまとめとして、何故芥川龍之介作品は誰にも読まれないのか、という点に関して、まずは「読まれていない」という事実を具体的に確認しながら振り返っていきたいと思います。
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まず驚いたのは、この点でした。
これがいささか質の悪い冗談でないとしたら、仮にも小説を書こうとする人に指南しようという立場の人間が、芥川の『藪の中』や
芥川龍之介の『葱』をどう読むか② 虚構と現実の区別はできない
嬌嗔とは美人のなまめかしい怒りである。お君さんの親切はスマートだ。しかしこういう縄張り争いのようなものは男女を問わず、どこの世界にでもあることなのだろう。しかしこうしたいかにもさりげない親切というプロットを拾い出し、展開を作り出すところ、その親切のさりげなさが尋常ではない。落ちたものを拾うとか、そういうことでは駄目なのだ。ただ「足を止めた」というところが見事だ。
出た。
省略法。
お松さ
芥川龍之介の『東北・北海道・新潟』をどう読むか
昭和二年五月、改造社により企画された講演旅行で、芥川龍之介は日本を北上する。何故北上なのか、何故南進しないのかは分からない。この時期芥川は確かにクルシイクルシイ状態であったのだろう。この講演で太宰治は初めて芥川龍之介の実物に接する。
これが昭和二年の事なので、流石にここで芥川龍之介は少しおかしくなっているのではないかと思う人もいないとも限らないので断っておくと、芥川龍之介の口語文は自然にすら
芥川龍之介の『骨董羹』をどう読むか② 「誤訳」
この芥川の文章は大正九年に書かれた。明治三十九年夏目漱石が『坊っちゃん』で持ち出したのは、飽くまでラファエロ・サンティの聖母マリア像である。
この「マドンナ」の意味が作中次第に、別嬪さんに変わる。
現在の我々の位置から眺めると『坊っちゃん』一作の中でマドンナの意味が聖母マリアから別嬪さんに変化したかのようだが、実際には支那経由の俗語で別嬪さんをマドンナと呼ぶならわしが既にあり、明治二十八
芥川龍之介の『隣室』をどう読むか
この『卒業論文マニュアル』は芥川龍之介の『あばばばば』を例に卒業論文のだらしない書き方を指南している。害悪であるデッドコピーを拵える手引きをしている。ではこのおバカ本の執筆者たちは『隣室』をどう読んだだろうか。
大正九年に書かれたこの作品は『あばばばば』が一連の体験記などではなく、さまざまなプロットやモチーフを煮詰めて鋳めた小説なのだという傍証として意味を持つだけではなく、少し奇妙なスタイル
芥川龍之介の『一人の無名作家』をどう解釈するか 無名作家は二人いる
この話の味噌は言わずもがな「霧不断の香を焚き」には「甍破れては霧不断の香を焼き」とし、「枢落ちては月常住」に対して「扉落ちては月常住の灯をかゝぐ」とする異本があり、それぞれが教科書に載り、それぞれが繰り返し試験で問われており、現実そのものがパラレルワールドとなっている点を突いていることにある。
また、作者はインスピレイションで書き、註釈者はその「ない」典拠が解らないと嘆き、現代の国語教師は「
ひつじ書房の『卒業論文マニュアル』について
ひつじ書房の『卒業論文マニュアル』を読んでみた。目的は芥川龍之介の『あばばばば』がどの程度理解されているのかを確認する為だった。
結果として執筆者たちが芥川龍之介の『あばばばば』を理解しているとは言い難いということが解った。シンプルに
①妊娠時期
②津波
……に気が付いていない。
そしてもっと大きな問題に気が付いた。吉田精一の「知的なひねりが目立たない」という程度の読み飛ばしを先行研