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「毎日投稿」という罠

こんにちは。最近毎日投稿をやめた小針です。

あなたは何の目的でnoteを書いていますか?

僕は最初から、何かの目的があってnoteを書き始めたわけではありませんでした。しかし何故か「毎日投稿しなければ......!」という使命感に突き動かされて、毎日毎日スタバでカフェラテを飲みながら一生懸命テーマを絞り出していたのでした。

しかしその日々があったからこそ、見えてくるものがありました。自分の書き方や思考のクセ、語彙力のなさ、表現力の限界、書きたいテーマの方向性。「毎日の素振り」的な感覚で、ライターとしての地力が上がった気がしますし、何より自分の限界を知ることで逆に自分にしか書けないテーマが仄かに見えてきました。

それにしても、僕は何故「毎日投稿」にこだわっていたのでしょう。

先日、以下のような記事を執筆しました。
勢いに任せて書いたのに、僕のフォロワー数では考えられないぐらいの伸びを見せました。

また、先日YouTuberをやってる知人のチャンネルを何気なしに見てみました。動画投稿頻度は1ヶ月に1本程度。総動画投稿数は3本のみ。それなのにも関わらず、チャンネル登録者数が150人ほどいました。

それらの出来事に僕はびっくり仰天。noteにしろYouTubeにしろコンテンツを見てもらうためにはフォロワー(チャンネル登録者数)を増やさなければならないと思っていたし、そのためには高頻度で更新して、どんどんコンテンツを量産しないといけないと思い込んでいたからです。

受け手にコンテンツが届くメカニズムはnoteとYouTubeで同じではないはずですからひとくくりには出来ないのかもしれませんが、僕は上記の2つの出来事から「毎日投稿にこだわらなくても良いんじゃね?」という結論を導き出しました。

そして、ここで1つの気づきがありました。僕は自分の執筆したコンテンツたちを、より多くの人たちに届けたいと思っていたということ。そしてそのための作戦として「毎日投稿」をすれば、多くの人の目に触れる機会を増やせるんじゃないかと思っていたということ。

おそらくその作戦は間違ってはないでしょう。ですが「毎日投稿」を志すあまり、おざなりになっていたことがあります。それは「コンテンツの質」。

つい前のめりになってしまうほど誰かに伝えたいと思うテーマと、スタバでうんうん唸りながら絞り出したテーマとでは、文字通り「切実さ」が違います。多分その「切実さ」って文章にはっきりと現れると思うんです。

「ねぇねぇ!聞いて聞いて!この前こんな発見したんだけどさ!めっちゃすごくない!」

そんな感じの「伝えようとするエネルギー」って、読み手にははっきりと伝わってきます。自分が色々な人の記事を読んでいると、そのエネルギーに触発されるかのように「スキ」のボタンをタップしてしてしまっているのを感じます。僕らは決して、「上手い構成」とか「キレイな文章」に対してのみ「スキ」をするわけではないでしょう。

となると、大切なのは「構成」とか「文体」とか「テーマの重大さ」とかではなく、その大前提にあるもの——書き手についnoteの「つくる」ボタンを押させ、記事を書き上げさせてしまった何か——なのかもしれません。

だとしたら、そんなもの意図的には操作できません。「カラダが勝手に動いた」的なやつだとしたら、自分の意思で「カラダを勝手に動かす」ことってできません。じゃあ僕らは書くのをやめるのか、きっとそうではないでしょう。

何が言いたいのか。結論、僕らは自分の興味関心に突き動かされて書き続けることしかできないということです。大事なのは、「書く際の基点をどこに置くか」ということ。「自分の中」にある声に耳を傾けるのか、「自分の外」にある声に耳を傾けるのか、それだけの違いな気がします。そして「自分の中」に耳を傾け続ければその「切実さ」が読み手に伝わり、結果的に「スキ」に結びつく。そんな気がしました。

「自分の外」に目を向けて戦略的に、型通りに、テクニックだけで書くことも時には必要かもしれませんが、「自分は何のためにnoteを書き続けているのか」その問いを忘れたら、その記事は誰にも届かない空虚なものになってしまうような気がしました。

今日も読んで頂きありがとうございました!

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