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エンゲキ・デイズ -ある劇作家の話- その3

人生とは、意図せぬところからも広がるものなのか。

彼は、以前から役者の三上博史が好きだった。
二十代の頃に観た、野島伸司氏作のテレビドラマ「この世の果て」が大好きで、その時から注目していた。
しかし、三上を含めて、役者の生の演技を観たことはなかった。

――この世の果て。1994年に放送され、三上博史と鈴木保奈美が主演で、いわゆるトレンディドラマ全盛の中では、かなり重厚な印象を受ける作品だった。懐かしくもあり、救いのない重さが印象深い。

そんな三上が、久しぶりに芝居に出るという。
かつて三上は、巨匠 寺山修司氏が主宰する劇団「天井桟敷」に所属していたが、寺山氏から「お前は映像には向いているけれど、オレの舞台には必要ない」と言われ、それ以降、舞台に上がることをなかったといわれている。
その三上が天井桟敷のイベントで、久々に舞台に立つ。
これは、行かないわけにはいかない。

「いざ観に行ってみたら、三上さんが女装していたことに衝撃を受けました。
でも、それ以上に、このような演劇はどうやって創られるのか?、思いもよらぬ演劇への興味が湧いてきたんです。
よくテレビとかで見るように、ジャージやスウェットとか着て稽古してるのかなとか(笑)そんな些細なことから」

――芝居が創られるプロセスというのは、部分的にはテレビなどで観ることもできるが、その現場を生で観ることは、なかなか難しい。

この三上の芝居により、演劇への興味は増幅された。
個人差はあるだろうが、30歳そこそこで受けた衝撃というのは次の行動に影響を与えやすい。
まだまだ若いということもあるし、いろいろ思いをはせて行動したくなる時期でもあるからだ。

彼も例外ではなく、次に歩みを進める。
気づけば、演劇プロジェクト「よしもとザ・ブロードキャストショウ」の門をたたいてた。
いわゆる役者の養成所に入ったのだ。

そこでは、芝居とは何か?役者とは何を学べばできるようになるのか、など、舞台活動の基礎を実践的に学んだ。
ちょうど1年後の卒業公演を終えると、養成所の推薦で受講生の一部が関連の劇団に入ることができる仕組みがある。
彼も劇団に入ることができた。

劇団の活動に励んでいたある日、
劇団仲間の角田(男性)と入口(女性)がお笑い系のイベントに出演することを耳にする。
そのイベントで、舞台に上がっておもしろいことをやれというのが、イベント主催者からのオーダーだった。
しかも、その角田と入口から、彼にその脚本を書いてくれと依頼が入ったのだ。

「なんで俺?って、初めは思いましたね。自分は脚本なんて書いたこともないのに…。」
彼らは年齢は下だが、劇団では一応先輩。
書いた経験はないが、断る深い理由も思いつかなかったため、とりあえず、見よう見まね、ノリで書いてみることにした。
彼らが、とにかく楽しく面白いと思えること、それができればいいという一心で書いた。

イベントでは、そこそこウケた。彼らのキャラクターの強さも大きかった。
大成功とまでは言えないが、まずまずの出来で終えることができた。

その後、劇団での活動を続けるわけだが、
結局、入団して半年程度で、あっさり辞めてしまった。
やってる芝居内容が自分に合わなかったのだ。
…というか、率直に言って何が面白いのか、さっぱりわからなかった。
それに気づいてしまっては、もはや、そこに居続ける理由はない。

そんな残念な思いから、しばらく経ったある日、
またまた、角田から脚本の依頼が来る。
大阪鶴橋でのお祭りイベントでの仕事だった。

そこでは、ビールケースをひっくり返して並べた舞台で、15分ぐらいの時間が与えられた。
なかなか結構な尺がある。
そこで、コントの脚本を書いた。
尺もちゃんとある本格的なコントの執筆は、これが初めてだった。
思うがままに、自分が面白いと思うことを一から書き上げた。

「脚本の執筆は、こんな感じで始めたんです。誰かに師事したわけでもなく、すべて我流でやってきたので、今でも演出家とかいわれることに、すごく違和感を感じていますね」

そして、これらの経験を踏まえて、
ついに、演劇ユニットsecret7が結成される。

【つづきます】

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