見出し画像

初めてnoteで記事を販売して感じた、価格と価値の難しさ

先日、初めて自分の書いた記事を有料販売しました。「最もコンテンツを販売しやすく、購入しやすいプラットフォームは何か?」と考えたときに、最初に頭に浮かんだものがnoteでした。

記事の中身は、とあるソースコードとその解説です。価格は2980円。ソースコードはこれまで何度かQiita(エンジニアのコミュニティサイト)で公開したことはありましたが、有料化はしていませんでした。

急にお金に飢え始めたわけではないのですが、ちょっと試してみたくなり、実験的に販売した感じです。人々が「いち個人のソースコードにどれほどの価値を感じるのか」を知りたかったんです。

初めてnoteを販売してみて

公開翌月には、noteから「先月最も読まれた記事の1つです!」と通知が来たぐらいにはアクセスがあり、200名以上の方々に買ってもらえました。今や個人でもこんなにスムーズに商売が成り立つんですね。

販売したコンテンツ自体には割と需要があるとは思っていましたが、閲覧者が購入に至るには、販売プラットフォームの認知や信用がそれなりに必要です。その点でnoteはかなり力があるのを感じました。

これほど簡単に個人でコンテンツを販売でき、それを購入してくれる人が集まる場所があるというのは、世の中のクリエイターたちにとって凄く嬉しいことだと思います。

個人コンテンツの価格を決める難しさ

今回販売したのは、ディープラーニングと呼ばれるAIを使ったソースコードでした。AIによる予測結果を継続的に売ることもできたのですが、AIが広まればすぐに需要がなくなるだろうと思い、1番需要があるであろう今のタイミングでソースコード売り切りにしました。

そして、さぁこれから販売するぞって時に思ったんですが…

「価格の決め方」って難しい。

仕事なら、利益や他社との差別化などから決められますが、これはプライベートですし、特に目標額もなく、趣味なのでコストもありません。売上全てが利益とも言えます。ただ安すぎても無駄に価値が低く見えるし、個人的には5000円以上でもおかしくないと思う一方で、中身の見えないものですから、高すぎても買ってもらえません。

結局、感覚的に3000円ぐらいが1番買いやすい気がしたという雑な決め方で、ちょっと抑えて2980円にしてみました。もちろん感覚は人によって違うとは思いますが。

さて、これで価格は決まりました。でもこうして明確に価格を決めたことに対して、すごく違和感を覚えたんです。

適切な価格とは何か

というのも、「この2980円の記事の総売上が、この記事の価値になるのか?」そう考えると、どうもしっくりこない。

なぜなら、現実的には「もっと安くてもいい!」と感じる方もいるでしょうし、「もっと高くても買うよ!」と感じる方もいると思うんです。

前者だと、せっかく買ってくれたのに申し訳なくなるじゃないですか。例えばプログラミング未経験者が、「うへぇ〜これでひと儲けして一生遊んで暮らすぜぇぇ〜」とか思いながら僕の記事を買ったら、「まじで意味わからん\(^o^)/」ってなる。それは申し訳なさすぎる。

逆に後者だと、それはそれで悔しくなっちゃいます。せっかく1万円でも買ってくれる人がいるのに、2980円で売っているわけですから。

つまり、金銭感覚も期待値も人によって違うのに、2980円に固定することがおかしい。突き詰めれば、「売り手が決めた価格」ではなく、「買い手が感じた価値」を支払うのが自然です。

もちろん資本主義の世の中では大抵、その感じた価値が価格に反映されていくので、結果的には釣り合っていきます。でも、こうした趣味から派生したやり取りの規模では、なかなかそこまで綺麗にはなりません。

そういう意味で、個人のコンテンツの価格を決める難しさ、そして価値を測る難しさを感じました。というお話。

「感じた価値」を、払い合えたら

僕はこれまで、他の方のブログを読んで、心から感動したり、助けてもらったりしたことが何度かあります。でも、「いいね」やコメントぐらいでしか感謝の気持ちを表せないことがほとんどです。お金を直接払う手段がなかったからです。

「お金より心だ」という意見もあるでしょうし、僕も実際そう思うのですが、例えば500円貰ったら「アイスでも買って帰ろっかな」ってなるじゃないですか。ちょっと心も潤うじゃないですか。そんな潤いを還元したかった。なのに、その手段がなかった。

でも、今は違います。

noteでもサポート機能が付いたように、いわゆる「投げ銭」が広まっています。実際、僕の記事に3000円出して買ってくれた方数名が、「すごく楽しませてもらっています!ありがとうございます!」といったコメントと共に、追加でサポートしてくれたりもしました。

もうね、泣いちゃいますよ。まじで。アイス食べながら。

最近は、ダイナミックプライシングの流れが強くなっています。需要に合わせて価格を変動させるやつです。ホテルや航空券、ライブなど様々な領域で動いています。その延長線上、需要の先に、「感じた価値を払う」がある気がします。不透明さがなく、お互いが気持ちいい。

もちろん、ビジネスとして成り立たせるのは難しいです。結果が相手次第になるので不確定要素が大きすぎますし、ある程度の不透明さがある方が利益を出しやすいのは確かです。

一方で、特に趣味やプライベートでは、そうして感じた価値をお金で払い合うのもいいんじゃないかと。需要とか供給とか考えず、ただただ思いををお金に乗せるイメージ。

だって、個人同士で、感じた価値を形にして伝え合うことで経済が回ったら、めちゃめちゃ面白いじゃないですか。その感謝でお互いの心が潤ったら、めちゃめちゃ素敵じゃないですか。

以前、とある本に、こんなことが書いてありました。

「お金」という数字による取引が発生することによって、それまでのつながりや物語といった文脈が漂白されてしまう。文脈が切断されると有機物は無機的なものへと成り下がってしまう。それは、有機的な生命体である人間の身体には適さない。

単に「○○円の商品です」のように貨幣の単位で語られた瞬間、様々な思いや物語が漂白されてしまう。それこそがお金の持つ最大の弊害である。

これは正にそうだなと思います。文脈が切断されるからこそ便利でもあるし、弊害もある。

でも、感じた価値をお金に乗せることができれば、この弊害を緩和できるはず。「価値だけでなく、想いも伝えるもの」としてお金を使い合えるようになると、新しい発見があるかもしれません。

初めてnoteで記事を販売して、そんなことを感じました。

この記事が参加している募集

#お金について考える

37,721件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?