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いつもと違う場所で本を読みたい

 先日、友人に旅行に行かないかと誘われた。二つ返事で行く行くと答えていたが、結局友人の方に大事な仕事が入りその旅行は頓挫となったのだが、今回はその頓挫するずっと前の話。

 友人にどこに行って何をしたいかと聞かれた。何をしたいのか。これが非常に難しい。私は旅行に行き、その地を少しぶらぶらして本を読みたいといった。その地で買った本、その地に根ざした本ではなく、いつも読んでいる本を読みたい。何なら今読みかけの本でも良い。友人は怪訝な顔でこちらを睨み、面と向かって割と真面目そうに意味が分からない、と一言。――いいじゃないか、本を読んだって――なんでそんなどこでもできる様なことをわざわざ出向いた他所の地でやらなくちゃならないんだ――観光地でビール飲むみたいにそこで読むから面白い本だってあるんだ。――馬鹿を言え、冗談じゃない。ましてや人と旅行に行くって言うのに、その発想はどういう了見だい――とこういう会話がかち合う二人の目線の刹那にはあったとか、なかったとか。とはいえ、確かに一人旅ではなく、これはその人と楽しむ旅。私の主張が少々ゆがんでいたと反省。

 しかし、なんで他所の土地で小説を読みたいんだろうか。もっと敷衍すれば、なんで他所の土地でいつもと変わらないことをしたいのだろうか。この件について、少し文献をあたってみたがしっくりくるものは見つけられなかった。その土地の雰囲気を感じながら本を読んでみたいという感覚、これが意味するものとは。

 旅先の経験が――それは何もレジャーをしたとか、有名な観光地を訪れたとか、そういう特別なものでなくても――小説の内容と自然と混じりあうのではないかと思う。私は吹き込むように一気に小説を読むタイプの人間ではない。空いた時間に差し込むように、以前読んだ内容を思い出しながら本を読み進めることの方が多い。読みつ戻りつ休みつつ。そして、本を読んでない間にも、本の内容をふと思い出されたりする。自分が見ている景色なんかが小説の内容と重なることもある。それは目の前に読んだ内容と同じ景色が広がっているかどうかには関わらず、むしろかけ離れているときのほうが、後になっても印象に残っていることが多い。小説の内容と現実の営みを行ったり来たりしながら、結局は見ていること読んでいることが頭の中で処理される以上、それらは互いに干渉しあっている気がする。

 最近も似たようなことを体験した。それは非常に印象に残っている。
 
 2023年7月の1ヶ月は船に乗り、日本一周の乗船実習があった。海技士養成を目的とした航海で――私は海技士を目指しているわけではない――船の操縦から運用、管理などを学ぶ実習である。実習の内容がとびきり過酷というわけでも、とびきり難しいというわけでもないのだが、船上という閉鎖的な空間でひたすら反復作業を繰り返し、船というものに慣れるのが目的の実習。閉鎖された船上で1ヶ月の間生活をするということ自体が非日常的であった。現代にしては珍しく、電波も繋がらないため余計な情報からも遮断され、そして当然陸から断絶されると娯楽にも制限がかかる。実習中の楽しみといえば、小説を読むこととルービックキューブをすることくらいだった(ルービックキューブにハマった話は後日)。課業が終わり、当直がなければ、基本的には暇を持て余す。夜の掃除を終え、風呂上がり後廊下のソファに座り、本を開く。そのとき読んだのはプールサイド小景が入った庄野潤三の短編集。時折揺れる船体に体を任せながら、黙々と読んだ。今、手元にその短編集がなく、すぐにどの話であったか確認できないのが何とも惜しいが、そのときはプラタナスが窓際にあり、それから外の光景を眺めるシーンだったと思う。とにかく、その日私はそんな描写を含めて読んだ。

 次の日、夜の当直だったと思う。8-0だった気がする。双眼鏡を手に持ち、真っ暗の水辺線に目を凝らしていた。時々、レーダーを確認しながら数マイル先の船の灯りがそろそろ見えるかなと確認していた。そういう作業をし、何となく一息ついたとき、私は昨夜読んだ描写を何故か思い出した。陸も見えない沖の上で、どこにも似つかない小説の描写が蘇ってきた。不思議な感じがする。関係のない2点が時系列的な隣接だけで混ざり合うのが不思議だった。
 
 
 本を読むと、その本の味わいが変わる訳ではないと思う。少なくとも、読んでる最中の味わいが変わる訳ではない。その本を読んでる時期に体験したことが本への印象を干渉し、後になって振り返ってみると、本はそれをいつ何処で読んだかという事実と分かちがたくなる。本はそれ単体で読めても、後になって思い出すとき周辺の出来事もずるずると紐付けて出てくる。

 良いようにいえば、本は思い出を記録する一つのアイテムともいえる。これはすごく虫のいい感じもするが、だから私は旅先で本を読みたいと思うのかもしれない。

 旅先で1時間でいい。黙って本を読んでもいいですか。

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