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日置の素晴らしい魅力 前編

昨日(2024年5月25日)、大学のゼミ関係で日置市を一日かけてぶらぶらと回ってきました。日置には、素晴らしい魅力がたくさんありました。そこで、市内の史跡を中心に、魅力的なスポットを解説したいと思います。


①伊集院駅前の島津義弘公の銅像

島津義弘公は、天文4(1535)年7月22日に戦国大名・島津貴久の次男として伊作城(現:鹿児島県日置市)で生まれました。天文23(1554)年、蒲生氏との合戦・大隅岩剣城攻め(現:姶良市)で初陣を飾りました。そこで軍功を上げ、続いて日向飫肥城(現:宮崎県日南市)、飯野城(いいのじょう)(現:えびの市)と前線の城番をしました。
その後は、数々の戦いで勝利を収め、九州のほぼ全土を制圧しました。しかし、天正15(1587)年5月、大友宗麟の救援を名目に、豊臣秀吉軍が20万の軍を九州に派遣、そこで義弘公は大敗し、秀吉に降伏しました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、最後まで豊臣方として戦いました。しかし、西軍の敗戦が決定的になった際、義弘公は徳川家康の本陣に向かって捨て身の的中突破を行いました。(島津の退き口)
この銅像は、その島津の退き口の様子を表しています。

JR伊集院駅前の島津義弘公の銅像(製作者: 中村晋也氏)
(鹿児島県日置市伊集院町徳重)

②有馬新七生誕の地碑

有馬新七は、文政8(1825)年11月4日、薩摩藩伊集院郷(現:鹿児島県日置市)で生まれました。父の坂本四郎兵衛が文武に優れた人であり、薩摩藩の武士階級の1つである城下士である有馬家の養子となりました。
文久2(1862)年4月13日、島津久光が公武合体運動を推進するために、兵を率いて上京しました。これを好機と見た有馬率いる過激派精忠組は、今こそ薩摩藩がリーダーとして討幕を実行すべきであると考えました。
4月23日、彼らは、計画を練るために京都伏見の寺田屋に集まりました。しかし、有馬らの暴徒を知った久光は激怒し、彼らの計画を阻止するように命じました。その後、彼らは話し合いを重ねますが、とうとう鎮撫側の道島五郎兵衛が抜刀し、田中兼助の頭部に斬りかかりました。そこから斬りあいが始まり、有馬はすぐ近くにいた橋口吉之丞に「おいごと刺せ!(俺ごと刺せ!) 」と叫びました。
そして、有馬新七は命を落としました。享年38。

有馬新七生誕の地碑
(日置市伊集院町徳重)

③平野二郎国臣歌碑

平野国臣は1828年に筑前国福岡で生まれました。幕末に尊王攘夷運動の志士として活躍しました。1858年6月、島津斉彬が薩摩藩兵を連れて上洛するという情報を伝えられると、国臣も上洛しましたが、7月に斉彬が急死したことで藩兵の派遣は中止となりました。しかし、京で西郷隆盛と会談し、公家への工作を担うこととなり、志士として活動を開始しました。勤王僧・月照を薩摩へ逃がそうとした際は、同行し、山伏に変装して関所を突破し、鹿児島に連れて行きました。
その後、幕府の命を受け、月照と西郷が入水自殺を図った際には、国臣が西郷を救いました。
1863年10月、国臣は但馬国生野で討幕のために兵を挙げましたが失敗し、逃れる途中で捕らわれて豊岡藩の獄に収監されました。
写真の奥にある石碑には、国臣が詠んだ短歌「我胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 烟はうすし 桜島山」が刻まれています。

平野二郎国臣歌碑
(日置市伊集院町徳重)

④大乗寺跡

大乗寺は、島津第15代貴久の夫人雪窓が建立し、一岳等忍和尚が開山しました。1595年、日置島津第3代常久は初代歳久の冥福のために、ここを日置島津家の菩提寺にしました。ここには、代々の日置島津家の長男しか死後は入ることができませんでした。明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。
現在は、西郷隆盛の曾孫にあたる西郷隆文さんの薩摩焼工房、日置南洲窯があります。

大乗寺跡
(日置市日吉町日置5679)
大乗寺跡へ続く階段。
この上に西郷隆文さんの日置南洲窯がある。

後編へ続く…


参考文献

関ヶ原の戦いで家康軍に向かって敵中突破した、島津義弘が辿った生涯|捨て身の戦法「島津の退き口」の真相【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト (serai.jp).

・寺田屋騒動で散った有馬新七 過激な尊攘派浪士の生涯とは

平野国臣|琵琶曲ライブラリー|琵琶曲図書館 | シルヴァン 旭西 ギニャール (guignardbiwa.com

平野国臣(平野次郎、平野二郎) 福岡藩の尊王攘夷志士 - 人物事典 幕末維新 (jpreki.com)

大乗寺跡 | 日置市観光協会 (hiokishi-kankou.com)


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