卒業式
4年間通った、香川大学の卒業式。
びっくりするほど特別感がない。
特に最後の一年は、香川大学という肩書きを意識したことがほとんどないせいだろうか。
サイバーエージェントで働く自分、旅をしている自分。
そんな肩書きの方が適した一年だった。
実際、急いで日本へ帰ることよりも、エジプトのダバブでダイビングライセンスを取るなどしている。
とはいえ学生最後となるこの日。
そして、この大学4年間は自分自身にとって、気づきと出会いの多い、これからの人生においてかけがえのない時間であったことは間違いない。
卒業式の変わりと言ってはなんだけど、大学の4年間をここで振り返る。
大学1年生
不服な入学式
一浪して入った香川大学。
実に不服な入学だった。
浪人期間は毎日12時間以上勉強して、センターの点も、偏差値も現役とは別人かのようにスコアは上がった。
第一志望の神戸大学工学部建築学科に合格するだろうと、疑わなかった。
自分も、メンターも。
そして、前期の合格発表。
家のパソコンの前で唖然とした。
あの時の記憶は、思い出そうとすれば鮮明にフラッシュバックする。
あるはずの番号がない。
下一桁の4が、5に変わらないか。
そんなことを願いながら10分くらい画面を見ていただろうか。
やっと現実を理解に、自室に戻り泣きまくった。
普段、涙することなんて全然ないのに、この日はさすがに、涙が止まらなかった。
思い描いた夢はあっけなく散り、立ち直る術も分からぬまま。
おもむろに近大の卒業式で西野さんがスピーチする動画を見たり、自己啓発系の動画を見漁ったり。
そんなことをして、この現実から目を背けようとしていた。
「きっとこれからいいこと起こるって」って全くありもしない未来を言葉にして自分に言い聞かすことしたできなかった。
当時はそんなことでしか、この現実から逃げられなかった。
どうやって心を立て直したかは全然覚えてないけれど、数日後には後期試験のための勉強をスタートさせた。
今まで人でいっぱいだったはずなのに、がらんとした河合塾の自習室。
みんな、合格したのかな。
そんなことを考えながら、塾に行ったり。
そんなことを考えるのもしんどくて、近所の図書館を使ったり。
そして、後期試験当日になった。
初めて訪れたキャンパスにがっかりしたことを覚えている。
なんか、薄暗くて、周りは田んぼで、全然思い描いたキャンパスライフとは程遠くて。
言っても日本の中でも指折り数える学舎へ進学するつもりだったので、どうも身が入らないというか、希望を持てないというかそんな感じ。
試験当日なのにそんなに身も入らず、さらっと試験に臨んだ。
ほぼセンターで合格が確実だったので、順当に合格。
4月より香川大学生となった。
頑張って楽しもうとした大学生活
こんな経緯で入学したので、
絶対に普通に卒業することだけはしたくないという、ハングリー精神は強くあった。
この精神のおかげで、僕の大学生活は思いもよらぬ方向へ進み、想像の何百倍も充実した4年間となった。
しかし、当時は普通に卒業しないということがなんなのか、定義のしようがなかった。
だから、友達を誘って英検頑張ってみたり、
TOEIC でいい点を取ろうと勉強してみたり、
建築の勉強を自分なりにしてみたり(一応専攻だったので)。
ほんの少しは編入も考えたり。
なんか、どれもしっくりこず。
とりあえずバイトをたくさんした。(GUとトライ、21連勤したり…)
サークルにもそれなりに参加して、大学の友達とたくさん遊びに行って、飲みに行って。
いわゆる大学生っぽいことをたくさんしたけど、物足りない。
なんか、張りがないというか、すごくダラダラと毎日を過ごしている気がしてならない。
ついつい毎日部活に追われていた高校時代の部活を回顧してしまう、そんな毎日だった。
こんな生活を4年も続けていいのか、と危機感だけが募る。
今振り返ると、楽しそうなフリをしながら、もがき苦しんでた一年だった。
ここに居続けてはダメ、でもどこに行くべきか当時の自分にはなんの選択肢もなかったし、選択をする勇気もなかった。
転機となる初海外
今でこそ、ふらっと海外に行く僕だが、もちろん僕にも初めての海外というものはある。
そんな僕にとっての初めての海外は、大学一年生の2月25日。
エティハド航空・成田空港発、アブダビ経由のダブリン行き。
手帳にはフライトスケジュールや、渡航先でしたいことのメモでびっしり。
バイトの合間に、ウィーンとダブリンの本を読み、ひたすらにワクワクしながら予定を立てた。
憧れ続けた海外にやっとやっと、自分の足で行ける。
あの時のワクワク感を超えることは、もう今後ないのではないだろうか。
初めての国際線。
初めての機内食。
初めてのトランジット。
初めてのイミグレ。
初めての海外スーパー。
初めての海外のバス、電車。
全てが初めてづくし。
なんでもかんでも新鮮で、一つ一つが刺激的で胸が高鳴った。
「これだ、自分が求めていた刺激は」
大学で1年間過ごしてきて感じた物足りなさ、危機感を払拭するものに出会えた。
それは、海外へ行くこと。
今まで、自分が知ってる範囲で、教えられた常識の範囲で生きてきた。
でも、初めて海外へ行って、見るもの全てが日本とは違って見えて、今まで生きてきたのが、どれだけちっぽけで狭い世界だったかを知った。
もっともっとこの世界を自分の足で歩いて、知って、体験して。
広い世界をたくさん見たい。見るべきだ。
張りのある生活が取り戻せそうな予感。
と、そんな希望はすぐに水の泡となる。
パンデミックだ。
海外にたくさん行きたい、行けるぞと思った矢先の出来事。
この有り余るエネルギーをどこにぶつけていいのか。また分からなくなった。
大学2年生
旅を軸に
初めて海外へ行き、
あのワクワク感が忘れられなかった。
この感動を学生の時だけで終わらせたくないと強く願うようになった。
大人には「海外なんて学生のうちにしか行けないからね」と言われ続けたけど、それじゃやりきれないなって。我慢する人生は嫌。
そんなんなら、大人になるのはごめんだって。
だから、旅をしながら生きていくために何が必要なのかをたくさん調べた。
ライターに、動画編集に、デザイナーやプログラマー。
そしてちょうどこの時期。
世間ではコロナで業績が立ち行かなくなり、倒産や解雇という文字をよく目にするようなった。
会社に勤めていても、いつ首を切られてもおかしくない現代。
1人でも生きていけるチカラを身につけておかなければならない。
そんな社会状況も相まって、動画編集やデザインの勉強を開始した。
そして不労所得が得られるようにと、YouTubeチャンネルを開設してみたりもした。(結局続かなかったけど笑笑)
これは独立のための選択。
いい高校に入って、いい大学に入って、いい企業に就職する。
誰もが聞いたことのあるこのレールの上にはない、意思決定をした。
ただ新しいことを始める時、やらない言い訳を見つけるのは簡単だ。
失敗が怖くてあーどこーだ言葉を並べて、やらないのは、僕も含めてみんなの得意技。
今回だって、
・パソコン得意じゃないし
・別に学生だからバイトしたら稼げるし
・周りにそんなんしてる人いないし
ものの10秒で言い訳は沢山見つかる。
でも、この時はそんな言い訳には目もくれなかった。
それほど、自分の中で「旅」が軸となっていて、旅をしながら生きていくためにやらないといけないことは全部するって決めていた。
初めてレールの外で意思決定をした経験は、間違いなく僕を強くした。
そんな意思決定を裏で支えたのは、僕にとっては「旅」だった。
Instagramでの出会い
高校の同級生経由でとある人を見つけた。
同世代の旅人なら知る人も多い、とんてぃーんだ。
彼は僕の一つ上。
世界を旅していて、インスタには尖った投稿がたくさん笑笑
当時の僕は、その尖り一つ一つが刺さって、こんな大学生がいるのかと、衝撃を受けた。
そんな彼が旅人のコミュニティを立ち上げるって内容の投稿を見かけた。
行動を起こすことの大切さと、行動を起こさないことの機会損失を直感で感じ取っていたから、特に迷いもせず、入ってみた。
結果、ここに入って大正解。
旅人ってほんとに変な人が多くて…
生き方の常識、枠組みがなった。
どこかで、
「こうしなければならない」という一般論を潜在的に持っていて、無意識下でそれを踏襲してしまう。
ただ、ここで出会った人はその、”しなければならない”を疑う人たちだった。
自分の人生、自分で責任もって生きてるって感じ。
すごくかっこよくて、自由で、美しかった。
「強く、しなやか」そんな言葉が似合う人たち。
こんな人たちと出会えた未来は。きっとキラキラしたものになるって確信した。
今でも、旅カレで出会った友達とは、一緒に旅をしたり、適当飲みに行ってガハガハと大笑いして。
素敵な出会いがたくさんあった。
学生団体TABIPPO への参加
大学2年の6月あたり、フォローしていた旅メディアTABIPPO で学生支部の募集開始という案内が流れてきた。
TABIPPO が何かも、学生支部が何かもぜんぜん知らんかったけど、なんか興味を惹かれてタップしてみた。
色々書いてあるけど、学生支部は
・かけがえのない一生の仲間
・圧倒的成長
・最高の感動体験と一生の思い出
を約束してくれるらしい。
大学はコロナで暇になったし、サークルもパッとしないし。
なんか面白いことができるチャンスかもしれないと思い、エントリー。
しんどかったらやめればいいし、とそんな軽い気持ちだった。
最初は完全にお客さん気分だった。
ちなみに、TABIPPO学生支部は「旅で世界をもっと素敵に」というビジョンのもと、学生に旅という選択肢を広める活動をしている。
旅にまつわるイベントやコンテスト、SNS発信をしたり、年に一度、5000人規模の旅の祭展「Backpack FESTA」を開催している。
7月から本格的に稼働。
その矢先、代表のかずに「副代表にならないか?」と話をされた。
はぁぁ…なぜに僕?
と思ったし、これをしてどうなれるのかも分からなかった。
けど、なんか断ると後悔しそうだったから、イエスと回答。
クリエイティブを作りまくり、
イベントを毎月開催。
SNS発信にも口出ししたりした。
副代表はマネジメントやらをしないといけないけど、マネジメントが何かなんて当時は何も分かってなくて、ひたすら自分が手を動かして何かをしていた。
夜な夜なメンバーと会議をして、作業して。
自分が働きまくって、それについてきてもらえるようにしようって。
じゃないとなんかソワソワして、何もやってないと落ち着かない。
ほんとはもっと具体的な目標設定を一緒にして、任せて、自分はみんなのけつをふく!
くらいのスタンスが理想だったんだろうけど、当時の自分はその勇気と技量がなくて全部自分でしてしまっていた。
すごく反省をしている。
今、また副代表になればもっとマシなリーダーになれたと思う笑笑
でもこう思えるのも未熟な中で、副代表をさせてもらえたから。
ほんとに、このチャンスをくれたカズには、感謝しかない。
最初こそぬるっと始まったけど、副代表というポジションが僕を成長させてくれた。
そして、支部外に、支え合える一生の仲間が見つかった。
TABIPPO2021副代表のみんなだ。
不思議なまでに安心感があって、支部での悩みも彼らに話すとスッキリ。
夜な夜な電話やらズームを繋いで、作業したり、相談したり、たまに愚痴ったりしていたのが懐かしい。
今でも海外へ行ったり、飲みに行ったり。
きっとこれからも気軽にそんなことができる間柄なんだろうな。
ずっとずっと、大切にしたい仲間たちだ。
そしてこのTABIPPO に入ったのがきっかけでもう1人、変な男に出会った。
通称ただけん。
彼はTABIPPOのOB、去年の代表。
彼はもうすこぶる尖った、変なやつ。
同級生だったら絶対友達にはなりたくない類の人。
3つ上?4つ上?何歳うえかも未だ覚えられないけど、そんなことはどうでもいいんよ。
TABIPPOで、1番怒ってくれたし、あれやこれやとたくさんのことを教えてくれた人。
クリエイティブのこと、イベント設計のこと。
なんも知らないひよっこの自分達と向き合い、
「そーじゃねーよ!」と言いながらどうしようもない僕たちに指導をしてくれた。
彼がいなかったら当時の高松支部は毎月イベント開催することもできなかった。
そのくらいたくさん支えてくれた。
でもいざ話すと尖ってて、突き放すような口調。そんなツンデレ感が憎めない先輩。
性格はだいぶ難ありですが、
タスクマシーンただけんに出会えたことは、自分自身のステージをアップデートする上で欠かせないピースになった。
当たり前の限界値を限りなく上に引き上げ、その達成のための努力は人に見せない。
ものすごくかっこいいスタンスで見習ってばかりだった。
一緒に金沢旅に行ったのが懐かしい笑笑
表現をするのが得意で、肩書きのない人たち
大学2年生の1年間は、いろんな生き方を知る、自分にとって大きな変化の一年となった。
コロナと騒がれた世の中に逆行して、オンラインを中心にたくさんの人に出会った。
リアルにこの一年で400~500人くらい出会ったと思う。
・和歌山の無人島キャンプ
・姫路での無人島フェス
・屋久島旅
・名古屋での副代表集合
・支部メンバーとの高松合宿
・山梨での副代表合宿
・白馬でのシェアハウス
・沖縄への一人旅
・名古屋での副代表集合
・たくさんのオンラインイベントに会議
これでも書き漏れがありそうなくらい、日本中いろんなところへ行って、たくさんの人に出会った。
主に旅界隈の人が中心で、大学というコミュニティ内にこもっていたら出会えなかった人たち。
彼らはみんな自分を表現することが得意で、自由な意思決定に責任を持っていて、肩書きのない人たち。
彼らと出会えたこの一年は、自分の人生を加速される大切なものばかりだ。
大学3年生
フリーランスへ
大学3年生。
TABIPPO を卒業し、特に何かに追われることは無くなったので、改めてフリーランスとして稼げるよう、再び勉強を始めた。
ありがたいことに、コロコロと話は転がってきて、4月から開始し、翌月には動画編集で収入が入るようになった。
また、画像制作の依頼も入り、フリーランスとして稼ぎを得るということは、運良くちょちょっと達成をしてしまった。
しかも誰もが通るであろうクラウドワークスや、ココナラを経験せずして笑笑
これで旅暮らしの基盤を作れる。
ありたい自分であるための準備ができたにも関わらず、どこか満足感を感じなかった。
当時はこの拭えない違和感が言語化できぬままだった。
でも、自分が選んだ道だから間違ってるはずはないと、この違和感から目を背けたまま走り続けた。
マーケティング会社に参加
ひょんなことから高松で知り合った、東京の私大生が経営するマーケティング会社にジョインすることに。
そこにはデジタルクリエイターとして参加。
まだまだできたばかりの会社で当時は僕を含め全員で3人。
とにかく立ち上げたばかりでやることも決まっていないし、やらなければならないことは山積み。そんな状況だった。
なんか、ドラマで見た世界。
スタートアップってこんな感じなのねと、そのごちゃごちゃ感を楽しんでいた。
とはいえ一社員としてジョインしているので、学業・後半は就活と並行しながらそれなりに忙しい毎日を送っていた。
大量のバナー・画像・動画をここで作成し、スキル的にもかなりのアップデートを求められた。
ただ、ここでデザイナーとして活動する中で
「果たして自分はデザイナーになりたいのか?」という疑問が浮かんだ。
デザイナーに限らず、一般的なフリーランスの仕事はかなり下流。
ここでは会社が小さかったこともあり、戦略部分から(あれを戦略と言ったらストプラに怒られそうだけどw)携われていたものの、ジョブサイズが小さいことが原因で、仕事に前向きになりきれない自分もいた。
今のスキルを持って、新卒でフリーランスになっても、下流のもの、ジョブサイズの小さいものがほとんどで、自由と言いつつも、自分が心からやりたいと思える仕事が少ないかもしれない。
本当にフリーランスという道を選んでしまっていいのか。
少し立ち止まる必要がありそうだ。
疑い半分で就職活動をスタート
新卒フリーランスも選択肢としてはもっていたものの、拭えない違和感があったので試しに就職活動を始めてみた。3年生の6月くらいの話。
自己分析に、業界分析。企業説明会に参加しまくった。
建築専攻でしたから、もちろん建設業界を見ることから始めたのですが、どーもしっこりこない。
この業界で楽しんで仕事をする姿がまるっきし見えなかった。
試しに、他の業界を見てみた。
不動産、人材、そしてIT。
ITという新しい産業に惹かれ、それからはITの会社ばかり見るように。
みんな自由で、楽しそうで、なんか旅人と同じそれを感じた。
なんだ、大人、楽しそうじゃんって。
割と早い段階で、就活楽しい、働いてみたい!という感情が湧いたのはポジティブなことだった。
シェアハウスのアンバサダー
3年生の夏休み、たまたまシェアハウスの運営の方からお声がかかり、
絆家シェアハウスの大阪千里丘ハウスにてアンバサダーをすることに。
自分のインスタカウントでシェアハウスの様子を投稿すると1ヶ月間無料で住めるとのこと。
初めてのシェアハウス。
断る理由も特になかったので軽い気持ちで承諾してみた。
この経験により「え、一人暮らしの家っていらなくね?」という新しい発見があったり、
何よりシェアハウスという幸せ空間にものすごく惹かれた。
昼間はフリーランス組でタスクタイム。僕はちょこちょこ就活。
夜はみんな帰ってきて、ご飯のいい匂いに満たされたリビングでワイワイ話しながらのご飯。
時にはスパイスカレーや韓国料理でホームパーティー。
一人暮らしではできない、幸せに溢れた生活で、本当に第二の家族ができたみたい。
人生の先輩たちとキャリアの話もちょこちょこしたりして、就活生だった自分にとってはまたとない大切な時間だった。
ここで出会ったアンバサダー仲間とは2年経った今でも連絡を取ったり、たまにあったりする仲。
この時、香川を離れて大阪で1ヶ月暮らしてみて、たかが外れた感覚はどこかあった。
別に香川という土地に大学生期間いつまでもいる必要ないじゃん?って。
勝手に自分に制限を、無意識下でかけていたことに気づいた。
後々の意思決定に響きまくりなこの発見をでできたので、アンバサダー招待はマジで運がよかったと、振り返って思う。
あけみん(運営さん)ありがとう笑
東京と香川の往復生活
3年生の秋以降、就活の関係でリアルに月3,4回東京へ通う生活がスタート。
これまでは東京なんてほとんど行ったことがなかったから、
高層ビルにおしゃれなカフェ、動く広告に感動したのを覚えている。
インターン先が高層ビルだったら分かりやすくテンションが上がったりもした。(田舎者w)
3日間のインターンで、寝れない日々が続いたりもした。
でも、その度に自分が見える世界がどんどんとアップデートされていくのを実感した。
「ビジネスの世界って面白い!」
目指す世界観の壮大さ、ジョブサイズの大きさ。
とにかく旅に出た時に近い刺激を、東京に出てインターンに参加する度に感じていた。
周りは旧帝大やら、早慶やら、大学名でいてこまされそうになりながら、
地方大学という唯一無二の名前を引っ提げていろんな会社のインターンへ行ってきた。
東京の学生は志望企業にOBがいることは当たり前だし、横の情報共有がすごくて、持ってる情報量も圧倒的に違った。
大学どこなん?って聞かれて、
香川って答えたら、明らかに舐め腐った態度とられたりしたりもした。
いつも圧倒的アウェイで、なんか、むかついたので、自分は地方大学から成り上がってやるって、ちょっと意地を張ったりもした。若いねw
そんな環境に揉まれながら、自分が働く上で大切にしたい価値観も磨かれていった。
「とにかくインパクトのある大きな仕事ができること」
一言で言うと、これがために企業に入る選択をした。
旅をしながら生きていきたいと思っていたが、その生き方を捨ててまでも選んだ道。
社会に何か価値提供をしたいという自尊心は誰しも持っているのだろうか。
自由に生きる前に、この価値提供を納得いくまで突き詰めたいと考えている。
内定承諾
3年の夏頃から本格的に始めた就職活動。
もう夏頃にはフリーランスになることは自分の中で完全になしになり、企業に就職することを決めていた。
会社という大きな資源を使ってたくさんの大きなチャレンジをする。
なんて素晴らしいことか。
早く会社で働きたいとさえ思っていた。
そして、季節は進み冬の寒さが本格化してきた12月14日。
サイバーエージェントの最終面接を終え、その日に内定を承諾。
この時の意思決定は、別でまとめているのでぜひ。
一年早く上京
就職もIT業界に決まり、いよいよ大学で建築を学ぶことに意義を見出せなくなった3年生の1月。
順当に行けば、4年からは研究室にこもって理系生らしく研究生ライフを送らなければならいが、ごめんけどそんな一年を過ごしたくない。
自分が枯れちゃいそうで怖かった。
内定が決まる前から、
なんとなく4年の春から東京に出て働くのもアリだなと思っていた。
先輩に研究室のことを聞きまくり、自由度高そうなところを選び、
この教授とどう交渉したら東京で働くことを許してくれるか。
そんなことを考え、もう1月には相談。
無事、春から東京で働くことを了承してください(本当に感謝)
ここから一年のスーツケース生活がスタートすることとなった。
久々に大学の話が出てきたところですが、
ここからいよいよ大学に、行かなくなりますw
ps
そういえば、3年の最後らへんに東京の中学校に講師としてプレゼンの授業をしにいったりもした(笑)
みんなタブレット持って、「パソコン忘れた!」なんて言葉が飛び交う世界線。
時代の進歩を感じましたよと。
大学4年生
CAで10ヶ月ほど働いてみて
スーツケースに荷物を全て放り込み、東京でホテル暮らし。
一足先に上京した。
香川に残っていたらどうなっていたのか、考えるのも怖いくらい、この意思決定は有意義なものだった。
もう言わずもがな、学びが多すぎた10ヶ月。
我々世代なら誰もが知るアプリのマーケティングチームで7ヶ月、
プロダクトマネージャ補佐として小売向け広告プロダクトの開発立ち上げを3ヶ月。
いずれも楽しいことよりも、しんどいことの方が多くて、
いわゆるコンフォートゾーンの外側にずっといた感じ。
特にプロダクト開発の方は、圧倒的に不足している知識。自分が今まで培ってきたものが何一つ通用しない世界線で、四苦八苦した。
消費者視点に立つこと、競合と張り合うための戦略、未来を見据える・作る力、提案力。
そして、正解にする力。
就活生の頃はキラキラと見えたIT業界、
思っていたよりも地道で、でも可能性に溢れている世界。
やっぱり、ここを選んでよかったと心から思える場所。
シンプルに4月から働くのが楽しみだ。
他にもCAで働きながら得た学びは、ちょこちょこ過去にnoteにて投稿してます。
学生ラスト、100日近く海外で生活
コロナも落ち着き始め、大学ラストの年。
これでもかというくらい、海外へ行った。
夏のベトナム、インド、タイ。
秋のアメリカ横断、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ。
春のシンガポール、マレーシア、ネパール、インド、エジプト、エチオピア
2年前、自分が抱いた夢の灯火が消えないうちに、たくさん旅をした。
旅に出るのに明確な目的はないけれど、
日本に帰ってくる時にはたくさんの学びで溢れている。
アメリカ横断では、海外キャリアを選択肢として持たなければならないという危機感を感じた。
インド・エジプトでは、新興国の中で日本の地位が想像以上に低いかを知った。
街に溢れるのは、サムスンなどの韓国企業・使うアプリは自国のものか、アメリカのテック企業のもの。
みているコンテンツは韓国ドラマ。
経済大国であるはずの日本産のものはせいぜい自動車くらい。
でも、これもそのうち電気自動車にとって変わられ、このままでは勝てないだろう。
100日海外で暮らして、初めて海外キャリアを現実的に考えるようになった。
憧れではなく、危機感から。
この類の話ってメディアで散々読んできたけれど、この小さな国にいてもわからない現実は、世界にたくさんある。
そんなことを痛いほど知った海外旅だった。
自分がどんな形でこれからのキャリアを歩むかは話からないけれど、少なくともどこか日本ではない国で、いつか働いていると思う。
そして、ひとしきり働いた後は、またこの海外放浪ライフに戻ってきたいなと思っている。
海外旅をして感じたことはまだまだこれからもnoteにまとめていくつもりです。
これからの話
多分、結構長い間、会社に勤めると思います。
海外をフラフラするのはだいぶ先でもいいかなって気持ち。
とにかく、何かを成し遂げないとここにきた意味はないし、その何かだって、ここにいると永遠に出てきそうなので。
出し尽くして、達成し尽くすまでは、精一杯働きます!
時が来れば、海外の院に行くとか、就職するとか、そんなことしてると思う笑笑
4年間をざっと振り返って
もしもの話をたまに考えてしまう。
「もしも神戸大学に合格していたら」
「もしも、TABIPPOに入らなかったら」
「もしも、海外に行かなかったら」
「もしも、4年の春に上京しなかったら」
「もしも研究室にこもっていたら」
たくさんの意思決定と、自分の意思とは反する決定で成り立っているこの人生。
自分の人生がもう一周できたとするならば、
大学生活は今のままがいい。
そう思える4年間を過ごせた。
不服な入学に、コロナで制限された生活。
思えば逆境だらけだったけど、この4年間がこんなにも華やいだのは運が良すぎる。
出逢いに恵まれて、自分の思考が何度もアップデートされた。
特に2年生、3年生の頃は振り返ると変化が大きな年だった。
バケツの中に大きな石を詰めているイメージ。
4年生あたりからはバケツに小石を詰めているイメージ。
あの時の思考変化のスピード感を体験すると、最後の一年は少し停滞していたようにも思えるけれど、着実に思考は磨かれている。
ものづくりやデザインと同じで、80%以降、磨くのに時間がかかるんだろうな。
まだまだ23歳。
思考が80%も完成しているはずもないので、もっともっとスピード感高めて、生き急いでいたい。
キャリアでも大きなことをなして、アフリカ縦断、中南米縦断、諸々まだまだこの星でやりたいことはたくさんある。
のらりくらり生きていると人生終わってしまいそうなので(笑)
これからの人生、時間が足りない!と思えるくらいには未来に期待を抱けるようになった最後。
一年生の自分とは、本当に別人だ。
大学内外関わらず、たくさんの人に彩っていただいたおかげです。
本当に感謝です。
ありがとうございました!これからもよろしくお願いします。
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