自己紹介。

こんにちは、小原佳太です。
自己紹介をします。

 就職試験や履歴書で【特技】の欄に何を書けば良いか悩んだ20代でしたが、30代になり自分の事も他人に説明できるようになりました。


プロフィール

2020.10.現在

小原佳太(おばらけいた)
岩手県北上市出身
1986.11.12生(33歳)
職業 プロボクサー
現日本ウェルター級チャンピオン

身長179cm
通常体重76kg
足のサイズ28cm
声は高め

学歴
北上市立江釣子中学校
岩手県立黒沢尻工業高等学校
東洋大学 卒業

職歴
株式会社 渡辺パイプ 退社

特技
ダイエット

資格
普通自動二輪車
中型自動車免許
高等学校教諭一種免許状(地理歴史)
危険物取扱者乙四種
将棋13級
以下省略

小原佳太の性格

人に言われる私の印象は

・男のくせに口数が多い
・カタカタカタと早口
・ひねくれ者
・内弁慶
・物事に細かい
・部屋が汚い

ですが、自分自身でもそう思います。
 そして、親父には「嫌なやつだ」と言われています。
これは親父が本音を隠しながら私に何かを伝えていたときに、
「◯◯って隠さず言えばいい」
と伝えると言われました。

 ここからは小原佳太の自伝になるので興味ある方どうぞ。

出身地

 出身地は日本一面積が広い県である岩手県。
岩手で過ごした大学入学までの当時は夏場の気温は30度越えることが少なく、冬は雪が50cm以上積もり家の隣の田んぼには白鳥がいる田舎でした。

 しかし、新幹線が止まり、デパートにはイオンシネマ(シネマコンプレックス)が入っていたり、隣接する市から人が集まる呑み屋街があったりとインターネットが普及した現在では何一つ不自由のない街でした。

 何より東京に来て驚いた【挨拶する人の少なさ】に代表されるご近所との付き合いがない、ということが理解できないほど携帯画面ではなく、対面で対話することをお爺ちゃんお婆ちゃんから教えられた良い面を残した都市です。

ボクシングを始めたきっかけ~進学

 私がボクシングを始めたのは高校の部活動です。
中学校ではバトミントン部に所属しダブルスで試合に出ていました。
個人でもダブルスで県大会に出場するも私のミス連発にて初戦敗退。
この試合中に相方と喧嘩しながら試合していたことは今になると笑い話、原因は私のミス。

 その後、高校入学するも明確な目標があったわけではありませんでした。
ここでボクシング部に誘ってくれたのは試合中に喧嘩した相方。
当時流行っていた【ガチンコファイトクラブ】の影響で「お前もやろう」と誘ってくれたことがボクシング人生の始まりです。

 それまで【ガチンコファイトクラブ】もボクシング自体も全く見たことがなかったですが、高校へ行く理由が【ボクシング】になりました。

 ボクシングが楽しかった訳ではなく、友人と切磋琢磨するのが生活の中心になってました。
その理由に入部から半年以上はステップなどの基礎練習と体力作りでグローブを着けてボクシングしていません。
入部当時は30人弱いた1年生もこの期間に半数辞めました。
 その後、運良く高校3年でインターハイ ベスト4に入り大学から推薦の話をいただくことになります。

 何校か推薦の話をいただきましたが、偏差値が高い大学からの推薦は勉強ができなかった私の耳に入る前に顧問の先生が断りました。異論なし

 大学(東京)へ行くという発想がなかった私は全て断り続け高校最後の大会を迎えました。
高校最後の試合で負けたのは仲村正男さん、後のプロボクシングSFe級東洋太平洋チャンピオン。

 最後の大会は埼玉県で行われた国民体育大会でしたが、この大会に負けたことが悔しかったのか、将来への不安か、

「大学に行きたい」

と親父に連絡すると、二つ返事で了承をもらえ直ぐに誘いがあった大学関係者に話をしましたが願書提出期限は翌日まで。

 その時、埼玉県での大会最終日で現在地は埼玉。
高校に連絡してもらうも校長先生は既に帰宅していて担任には「無理だ」と匙を投げられました

恩師

 急な進学希望に担任には諦めろと言われましたが、

ヒーローはいます。

当時の高校の顧問は強化チーム入っていなく学校に残っていました。
そして、岩手県ボクシング競技少年部監督は顧問の先生と高校生からの親友。
さらに
その二人は私と同じく黒沢尻工業高等学校機械科卒業。

 学校では顧問が願書提出に必要な書類を集めてくれ、翌朝に校長先生から判子をもらうだけの状態に。

 監督は大会終了と同時に、私が願書製作するために埼玉から岩手の黒沢尻工業まで車を飛ばしてくれました。
その証拠に学校に着くと同時に監督の車からは煙が出てオーバーヒート。
監督は私が在学する高校の教員ではないのにここまでしてくれました。

 翌日、校長先生から書類をいただき新幹線に飛び乗り、東洋大学の監督と合流して大学に書類を提出でき東洋大学入学できるようになりました。

 この二人が私のために動いてくれたからこそ今があります。
頭が上がりません

人生で1番恐い先輩

 高校では必要最低限の上下間系はありましたが大学での上下関係は比べ物にならないぐらい厳しかった。

と、言っても他大学で聞くような理不尽で先輩の権力を使い後輩をイジメるようなことはありませんでしたが、言動を間違えたり規則、時間を守らないと飛んできたのはゲンコツでした。

その中でも恐かったのはMさん。

 しかし、私はこの先輩と出会えたことでボクシングが強くなりました。
それ以外も規律を守る姿勢が身に付き、現在でも人に誉められるのはMさんに教えていただいたことが多いです。

今でもお世話になっていて尊敬する先輩ですが、詳しく説明すると意図しないことが伝わる可能性が高いので書きません。

ただ、ペンは剣より強しというのは嘘だと思っています。

恩師との別れ

 大学には個人戦とは別に学校対抗の関東大学リーグ戦があり、当日は東洋大学が初優勝することが目標で他大学は敵。
校内でも代表メンバーに選ばれるために授業に行かずボクシング中心の生活をする選手もいましたが、この切磋琢磨する毎日が技術を磨き強くしてくれました
 ボクシング中心の生活をしていたことには違いがないのですが、私は入学時に4年で卒業することが最低条件だと考えていたので授業に出来るだけ出席していました。

 春先から行われる関東大学リーグ戦。
その期間中に高校時代お世話になった顧問の先生が倒れたと連絡がありました。
 試合まで1週間を切っていて大学初優勝を目指し、代表メンバーとして試合に出ることが決まっていましたが大学監督に帰省することに了承もらい直ぐに岩手に向かいました。
高校の同期に駅まで迎えに来てもらい病院へ向かいましたが恩師の意識はありませんでした。
顔を見て声をかけて東京に戻りましたが心ここにあらずでした。
その後の試合には勝利しましたが、恩師は息を引き取りました。

 私が高校入学した科の教諭が恩師。
ボクシング経験がなく、硬式野球部顧問からいきなりのボクシング部顧問になり戸惑いながらも私達と一緒に強くなるために背中を押してくれていました。
 恩師の葬式で弔辞を読んだのは車を壊してまで私を大学に入れてくれた監督。
泣きながらの弔辞、今でも覚えています。

大学卒業

 その後、無事に大学を4年間で卒業。
大学生最後の大会である全日本選手権後、11月から本格的に始めた就職活動でも内定いただきました。

 はじめは就職活動をどう行って良いかわからず、不安から来る緊張で身体も頭も固まっていました。
しかし、最後は自信と笑顔だと思い固さが取れて小原佳太という人間を知ってもらえ内定をいただきました。
その証拠に書類審査やグループ面接を通過し、個人面接になると
「書面からは堅い印象を感じたけれど、会ってみると違うね」
と言われました。
 最後は人と人、「この人と仕事をしたい」と思ってもらえるかどうかだと思うのが会社員を1年間しかやっていない私の考えです。

・アマチュア戦績
アマチュアボクシングでの戦績は
70戦55勝30RSC15敗
国民体育大会優勝2度
全日本選手権準優勝
関東大学リーグ戦階級勝2度
 高校ではフェザー級(当時57kg以下)で戦い、大学ではライトウェルター級(64kg以下)から最後はウェルター級(69kg以下)で戦っていました。
 大学でのモチベーションは日本一ではなくて、大学の日本一に貢献できるか。
個人では高校時代(フェザー級全国ベスト4)の中途半端な成績の自分が当時階級上で日本トップの成績を修めていた選手に大学で勝つことでした。

プロボクサーになるきっかけ

 小原佳太のボクシング人生前半のアマチュアボクシング時代を綴りました。
後半はプロボクシング始めるきっかけから現在までになりますのでご期待ください。

後程追記しようと思っていましたが、
プロボクシング編は別で書きます。

プロボクサーのお金問題に関する記事も書いてます。


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僕の知識がボクシングが好きな人に届きますように。