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理解できなかった教科書の国語をもう一度読んでみた

教科書の「現代文」の教材の中で不可解なまま終わったものがいくつかある。いったいあの文章は何が良いのか、何が言いたいのか、が全く理解出来ず、不服のまま授業が終わった記憶がある。

その中でも中学生の時の「サーカスの馬」と高校生の時の「檸檬」が意味不明の双璧で、それだけに50才代の後半になった今でもその消化不良感だけはよく覚えている。

そこでもう一度読んでやろうという訳だ。今回は梶井基次郎の「檸檬」、角川文庫で400円也。これを高校生の復習として感想文を書き直したい。

うーん、なかなか良いではないか。主人公の憂鬱な気分が多彩な言葉で表現するされているではないか。

「えたいの知れない不吉な塊」に心が押さえつけられている、「どんな美しい音楽も詩も辛抱ならない」、「何かが私をいたたまらずさせる」。

躁鬱病の私にはこの鬱フィーリングがよく分かるのだ。普通なら「気分が沈む」「何をしても楽しめない」「何もやる気がしない」くらいの言葉しか出てこない。

鬱状態をこのような言葉で修飾できるのはやはり天才小説家と言えよう。

鬱状態ながらも主人公は街を徘徊し、そこで果物屋に行き着く。古びた店には黒漆の急勾配の棚に果物が積まれている。この辺りの表現は視覚的に詳細に語られている。

「何か華やかな快速調(アレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面 ー 的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まった、というふうに果物は並んでいる」

いやはや、ここまで来ると狂人的な表現にさえ思えてきます。

この後主人公は果物屋で檸檬を買い、その「色」「重さ」「匂い」「冷感」に魅せられ一時的に鬱状態を紛らすことに成功する。

久しぶりに入った丸善で画本を見る主人公は再び疲労感と倦怠感に襲われるが、最後には積み上げた画本の頂上に「檸檬」を載せて黙って店を後にする。

「檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンとさえわたっていた」

果物屋の「ゴルゴンの鬼面」と丸善で「冴え渡る檸檬」、これがこの小説のクライマックスだなと感じる。いや、いいんじゃないですか、檸檬。

何でもない檸檬で気分が動く心の不思議さ、とか病的な憂鬱と退廃的な世界観、という総括は必要なく、多彩な単語の表現と比喩だけでも楽しめる。

ただ、これを幼く健全だった高校生の私に理解せよ、と言われてもそりゃ無理だよ。

いや、実は教育とはこういうもので後から(今回は時間がかかり過ぎたが)、あれはこういうことだったんだ、と結論を先送りするものかも知れない。

何でもシラバスだ、実学だ、などと現金な教育が蔓延っている今だけど、こういうモヤモヤが何年も心に沈澱し続ける教材っていうのも良いのではないでしょうか。

結論を持ち越し、黒でも白でもない宙ぶらりんの状態に耐え続けるのが知的な体力だとも思う。つまり何でも分かりやすく白黒つけてスッキリしちゃうのはある意味で知的怠慢だとも思うのです。

ということで梶井基次郎の檸檬、皆さんにもお勧めです。




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