【映画感想】男はつらいよ

「男はつらいよ」という映画をちゃんと観たことがなかった。ぼくは昭和生まれなので、もちろん「だいたい」どんな映画かは知っている。主に葛飾柴又と、主人公の寅さんが作品ごと巡る地方やなんかが舞台で、毎回「マドンナ」に恋をして、親代わりのおじちゃんおばちゃんや、隣にある印刷会社の社長と喧嘩して、主演は渥美清で、そっくりさん芸人としてゴジーラ久山という人がいて、まねだ聖子という松田聖子のそっくりさん芸人に猛烈アタックして結婚した、くらいは当時誰もが認識していた情報だと思う。

気が向いて、観ることにした。ネタバレもなにも無い作品だと思うので、あらすじを書いておく。

父親と喧嘩して家を飛び出した車寅次郎は20年ぶりに実家の団子屋へ帰った。両親と兄はすでに亡くなっており、店は叔父夫婦と自分の妹・さくらが営んでいた。寅次郎は妹のお見合いの付き人として会食に立ち会うが、酒を呑んで酔っ払い、破談にされてしまう。しかしその一方で家の隣にある印刷工場で働いている博がさくらに恋をしており、兄である寅次郎にさくらとの結婚する許しを直談判するが、行き違いから自分がさくらから振られたと勘違いし、会社を辞めると告げ寮を出て行く。さくらは博を追って引き止め、寅次郎の許しを得たふたりは結婚し、子供を授かる。一方寅次郎は旅先で偶然会ったかつての幼馴染に恋をしてしまうが既に彼女は縁談が進んでいた。傷心した寅次郎は浅草を離れ、香具師として再び放浪の旅に出る。

ぼくの知っているこの映画のパターンとしては、

夢オチの短編が冒頭にある > 寅さんがどこかで騒動を起こす > 葛飾に帰ってきてとらやでもひと騒動 > マドンナと恋に落ちる > いろいろある > マドンナとの恋は儚くも敗れ、寅さんはまた旅に出る

というようなものだ。子供の頃はテレビでよく放送されていて、また親がそれを観ていたから付き合いで映画を眺めていたはずなのだが、子供向けの話でも無いので上記のようなぼんやりとした記憶しかない。

「いつ観ても、どれを観ても、おんなじような話」

ぼくの「男はつらいよ」に関する印象はそんなものだった。

本編を観て思ったことは、この一作だけでも一応完結している、ということだった。博とさくらは本作で結婚する。昨今の連作を前提とした映画であれば、一作目はお互い意識し合う程度で終わり、二作目以降徐々に距離が縮まり何作目かで結婚、と運ばせるだろう。

何十作も作れらた「男はつらいよ」という作品から抱くイメージに対し、やたら駆け足で事が進むので気になって調べてみたら、そもそもこの映画版はそれ以前にテレビで連続ドラマとして放送されていたものを再構築したものが脚本となっているらしい。当初、一度テレビで放送されたものを改めて映画化するということに松竹が難色を示しており、しかしテレビ版最終回で「寅さんがハブに噛まれて死ぬ」というバッド・エンディングだったことに対して視聴者から猛抗議が来たことで、それは「男はつらいよ」というコンテンツに対して愛着がある人間が多いということだ、という説得材料にして、度重なる話し合いの末ようやくゴーサインが出たという。

つまり、「男はつらいよ」は、そもそも当たらなければ本作限りの作品だったのだ。だからこの映画でどうしても描かければならないポイントは「妹の結婚を見届けた兄」であり、これにより同名主題歌の歌詞にある「俺がいたんじゃお嫁に行けぬ」という寅次郎の心配を解消させているのである。実際、この1番の歌詞が使われているのは本作と第3作目のみであり、他は2〜4番、特に「どうせおいらはヤクザな兄貴」からはじまる歌詞 (3番) が用いられている。

しかし映画はスマッシュヒットとなり、ただちに次回作が作られるはこびとなり、2ヶ月半後に公開された。狂っているとしか思えない上映間隔、というよりは、当時はこれが普通、もしくはテレビの普及によって急降下していった観客動員数を稼ぐための苦肉の策だったのかもしれない。4作目が封切られたのはなんと3作目の約1ヶ月後である (その後、8作目以降は年末年始とお盆に上映というスタイルが定着し、「釣りバカ日誌」がこれを引き継ぐかたちとなる)。


なるほど、ねい。


しかしね、本作でぼくが一番響いたのはどこだと思いますか。

それはね、物語中盤。博が振られたと勘違いして寮を飛び出します、それを知ったさくらが追いかけます。おそらく電車に乗るのだろうと、最寄駅である京成金町線柴又駅まで走るわけです。案の定、プラットフォームには今まさに押上行きに乗ろうとする博がいた。当時はまだ有人改札。引き止めたい一心だったさくらは改札の鎖を自分で外し、博の元へ駆け寄ります。改札の駅員も、何か渡すものがあるのだろう、言伝でもあるのだろうという感じでそれを赦します。大らかな時代なんでしょう。二人は見つめ会います。

なぜ追いかけて来てくれたのか、とでも言わんばかりに唖然とした表情の博。間に合ってよかったとは思うものの、言葉が出てこないさくら。

電車の発車を告げる笛が鳴ります。よかった、あと一歩遅れていれば、二人は再会することが叶わなかった。

しかしやおら、さくらは「ねぇ!」と博の腕を取り、今まさにドアが締まろうとしていた電車に押し込みます。先ほど、よっぽどの事情があるのだろう、と改札を通してくれた駅員さんは、おそらく呆然としたでしょう。今万感の想いを込めてキセルが爆誕です。

しかし、何故さくらは博に帰りましょうと手を取らず、逆に電車に乗ったのか。

おそらく、さくらは、その、博に......操を捧げたかったのですよね。

ありていにいえば、ふたりはそのまま電車で移動して、どこかの連れ込みホテルに入ってパッコンパッコンセックスをしたのでしょう。結果博は童貞を卒業したのでしょう。そうとしか考えられません。電車に乗り込んだあとのカット、さくらは博と向かい合っています。何かしゃべっているようにも見えますが、キスをしているように見えなくもありません。

おいおい何を言ってんだ、「男はつらいよ」は国民的映画なのに、そんな破廉恥な、と意見したくなる方もいらっしゃるでしょう。しかしこれは「男はつらいよ」という映画が松竹の看板映画となる前の、ひょっとしたらこれで終わるかもしれない、という可能性もあった一本です。松竹映画自体半信半疑だったなか、上映された作品なのです。

外堀を埋めていきましょう。

このあと、とらやに帰って来たさくらは兄である寅次郎に、博と結婚することを告げます。本来ならば、ここはふたりで挨拶に来るべきでしょう。しかし、とらやに入って来たのはさくらだけです。さくらは、もうそれ以外には考えられない、という表情で、兄に結婚の許しを請います。一見物腰は丁寧ですが、嫌だとは言わせない、という決意が見て取れます。

そこへ、印刷所の社員が入って来ます。「社長、博さん帰って来ました!」「ほんとか、おい!」

さくらが兄に博との結婚を告げること、博が帰って来たこと、なぜここがパラレルで描かれるのか。

今しがた童貞を失った男が、どのツラ下げてその兄に「妹さんをぼくにください! だって今中出ししたし!!」と嘆願できるでしょうか。そういうことです。ひょっとしたら博は今晩、先ほどのさくらとの行為を思い出しながら、改めて、自分自身を、何度も何度も、朝まで慰めるやもしれません。泣ける、泣けるなぁ。

加えていうと、本作の同時上映作品は「喜劇 深夜族」という、主演に伴淳三郎と緑魔子を据えた作品でした。あらすじを書きます。

"夜はコールガール (今でいうデリヘル) で働いている娘と、その娘に自分の仕事は守衛だと言いつつ実際はポン引きをしている親子の物語、喜劇"。

いやもう今なら絶対無理でしょ!! こんな話「男はつらいよ」の同時上映にするの!! そんな映画が結構あった時代なら、むしろこの二人の契りなんてあって当たり前だと思うんですよ!! あぁ俺もセックスしてぇなあ!! なんだ!! 会社辞めるつって柴又駅行けば女性の同僚が追っかけて来てヤらせてくれんのか!! これが今話題の新手のマッチングアプリか!! こっちのさくらは逢えねえサクラじゃねぇか!! 性の喜びを知りやがって!!

閑話休題。

気になってちょっと60年代の風俗とか調べたんですが、「フリーセックス」って言葉が流行ったのがこの2年前の昭和42年なんですよ。今じゃ年金受給対象の団塊世代のジジイババアが輝いていた頃の話ですよ。若者は道端でシンナー吸うしアポロは月面に着陸するしで人類の叡智の縮尺がバカになってた時代ですよ。

ともかく、こうして博はさくらと結婚することができました。結婚式には、絶縁状態だった博の両親も列席します。博の父親 (志村 喬) は、息子が自分を赦していないことを重々承知した上で、その場にいた人たちに、新郎の両親から新郎新婦への言葉として、二人の新たな旅立ちを祝福するために、こう切り出すのです。

「この寅さんが最後の寅さんだとは思えない。もし、本作が続けて行われるとしたら、その寅さんの同類が、また世界のどこかへ現れてくるかもしれない……」

ちゃんと観ることが出来て本当によかったです。hulu配信版はデジタル・リマスタリングしてて映像・音声も改めて綺麗でした。

俺もいつか博のように、自分が憧れたマドンナに童貞を捧げるぞ!! イン・ベッド・ウィズ・マドンナ!!

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?