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贈与の時代に私ができること。    『世界は贈与でできているー資本主義の「すきま」を埋める倫理学(近内悠太)』を読んで

 読み終わったあと、noteを書こうと思った。
社会に出て4年目、社会の中の自分についてぼんやりと考え始めたタイミングで紹介された一冊の本。

 「対価」を求める社会において、「贈与」とはなにかということを、倫理学の観点や現代社会の事例を踏まえて教えてくれる一冊。
 哲学研究者でもある筆者が、「お金で変えないもの≒贈与」について、すっと心のざわめきが落ち着くような、哲学的でありつつも納得感のある解説をしていく。

 読了後の焦りのような感情と、安堵感のような感情。
今まで属したいろんなコミュニティにおいて感じていた、「自分は恵まれているな」という感覚。素敵な人達に支えられ、背中を押され今の自分ができているとずっと感じていたものの、自分は彼ら/彼女らに何をしてきてこれたのかという無力感も感じていた。
 そんな自分がうっすらと感じていたものは実は「贈与」だったのではないか。そしてその贈与に気づけたとき、自分は贈与者になることができるかもしれない。
 その健全な負債感より、以下印象に残ったいくつかのトピックを自分なりにまとめてみた。
 筆者の意図と異なる見解もあるかと思うが、一個人の見解として参考までにご覧頂ければ。

贈与に気づくことができるのは、想像力のある人

 贈与は「結局、贈与になるか偽善になるか、あるいは自己犠牲になるかは、それ以前に贈与をすでに受け取っているの否かによるのです(p44)」と筆者はいう。
 2章には「贈与的有効性感覚」という言葉がでてくる。ボランティアをする人が多いのに献血をする人が少ないことは、「今ここ」にその対価(お金ではない価値)を求めていると筆者は述べている。いつ、誰が受け取るかわかならない贈与こそ贈与となり、そこには受け取る人の想像力も必要となり、贈与を受け取ったと感じる人はその受け取ったものを次につないでいく、つまり贈与は想像力のある人により贈与となり、回っているのある。

追い込まれる人が頼れない「交換の社会」

 第2章では、「交換の論理」についても描かれている。リストラ、貧困、介護により追い込まれた男性が、親と心中したという実例をもとに、大人になると「win-winの関係」「ギブ&テイクの関係」以外に繋がりをもちづらくなくなることを説いている。 交換の社会では差し出すものと見返りの基に成り立つので、差し出すものがなくなった男性は死という選択肢した取れなかったのではないかと述べている。「交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる(p53)」ということである。

贈与は受け取ってはじめて贈与たりしめる

 1つ目のトピックでも言及したように、贈与は贈与と知られないまま、受け取る人がいないままということもありえるものである。文中では、「過去の中に埋もれた贈与を受け取ることのできた主体だけが、つまり、贈与に気づくことのできた主体だけが再び未来に向かって贈与を差し出すことができる(p113)」と説明されている。
 贈与を受けたことに関して、自分自身も「これは贈与だ」といった心で何かを行うのは、交換に縛られていて、贈与と呼べないものになるのではないかという矛盾も含んでいるように感じるが、この点についてはぜひ実際に全文を読み解いていただきたい。

言語ゲームと世界像とアノマリー

 5章では、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉を用い「言語ゲーム」の中に生きている私達について説かれている。
 言語ゲームの詳しい説明についてはいろいろな方が考察をされているが、「実践を通してゲームが成立するがゆえに、事後的にルールというものがあたかもそこにあるかのように見える」ことと筆者はウィトゲンシュタインの主張をまとめている。(作中では野球のファールの意味の理解についてや手を挙げればタクシーが止まることなどを例として挙げている)
他者を理解できないということは言語ゲームが異なっているという可能性を含んでおり、自分の言語ゲームが本当に正しいのかを再考し、他者の言語ゲームに少しずつ参加していくことが重要であるのだと読み解ける。
 また、世界像は「問われることのなき前提」であり、その世界像が疑われないからこそ人は異常なものに探求や思考を巡らせることができると筆者は述べている。その変則性や変則事例は「アノマリー」と呼ばれ、「アノマリーには、それがアノマリーとして出現するだけの原因や理由がある。だからこそアノマリーを説明しようとする過程で、発見できていなかった事実を詳らかにすることができる(p157)」と説明されている。

逸脱的思考

 前述の言語ゲームと世界像とアノマリーは、「逸脱的思考」を行うための要素として用いられる。逸脱的思考とは世界像をSFのように書き換え「僕らが忘れてしまっている何かを思い出させること、忘れてしまっているものを意識化させること(p177)」の機能をもつのである。

「アンサングヒーロー」になりたいという矛盾

 アンサングヒーローとは「その功績が顕彰されない影の功労者。歌われざる英雄(略)評価されることも褒められることもなく、人知れず社会の災厄を取り除く人。(p209)」と述べられています。
筆者はインタビューで、以下のように述べている。

「例えば清掃員の人が毎日ごみを収集してくれてありがたいとか、医療従事者が献身的に命を救ってくることに感謝するとか、それは破局が起こる前に気づけていなければいけない。そういう意味で『復活の日』や『テルマエ・ロマエ』のような作品は、破局を見る前に、僕らが見落としていたものを気づかせてくれます。
 この本で書きたかったのは、何か新しく始めるのではなく、僕らはもともとやっていたけれど、上手く機能していなかったことをもう一回やり直しませんか、ということ。「贈与」というものと出会い直しませんか、というだけの本なんです。社会システムの要請や市場経済の時間の中で歪められてしまったものを解きほぐしたら、ちゃんと立ち還れる場所があるということを伝えたかったんですよね。」
※以下インタビューより図、文抜粋
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/%e8%bf%91%e5%86%85%e6%82%a0%e5%a4%aa%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc/9885/2

「不安定つりあい」と「安定つりあい」

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 インタビューでも取り上げられている、「不安定つりあい」と「安定つりあい」について、どう捉えるか、多くの人の贈与や働きでつりあっているのか、つりあっていることが当然と考えるのか。
 アンサングヒーローは意図して行っていないからこそアンサングヒーローであるのかもしれないし、判断は時間や世界観が変わって始めて他者から受けるものであると考える。つまり、「アンサングヒーロー」は意図してなるものではなく、想像力を持った誰かに人知れず歌われるヒーローなのである。

世界の見方を変えることで、社会を考え直すことができる。社会の見え方が変わったとき、多くの贈与に気づくことができる。一冊を通じて、そんなメッセージを筆者は説いているのではないのだろうか。

贈与の社会で私ができること

 話は飛ぶが、2000円強というお金を出して書籍を買い、読み終わったあと、どんな感情を抱くであろうか。
 面白かった。
 買う必要がなかった。
 誰かに勧めよう。。

 いろいろな感情の中で、「2000円の価値があった(もしくは、なかった)」という考え方は、購入費の対価として「交換」を求めてしまっているのである。
 これは「消費者的な人格」と記載されており、「払った金額に見合う対価」を求める資本主義的な考えに近いといえる。
 だから人はクレームを言うし、少しでも少ないコストで大きな対価を得ようとしてしまう。

そこからは贈与は生まれない。

 私もこの贈与されたものを、「誰か受け取ってくれるといいな」という、対価を求めない形で投げかけられるのであろうか。
 
この贈与は返すものでなく、健全な負債を誰かに伝えられるメッセンジャーになることでつなぐことができるのであろうか。

 読み終わったあと、誰かに伝えたいと感じたこの気持ち。まだ交換の社会に縛られているような気はするが、この記事を読んだ誰かが少しでも「健全な負債感」を感じてくれれば、そこから新しいメッセンジャーが生まれればいいな、と思う。

いつか、だれかと、正しく繋がれるように。


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