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偽善であるということ

偽善とは、辞書によると以下のような意味であるらしい。

【偽善】
うわべを飾って、心や行いが正しいようにみせかけること。
                                                                              新明解国語辞典 第七版 より

であるならば、うわべではなく、自分が心から正しいと思うことをすればそれは偽善ではないということだ。

震災や豪雨などの大きな自然災害が起きたあと、SNSやネットニュースで有名人が寄付をしたという記事をよく見かける。その際に必ず偽善だと批判する人がいる。「普段寄付なんて考えもしていないくせに」とか、「そんなキャラじゃないだろう」とか、「売名行為だ!」とか様々だ。

偽善とは「心や行いが正しいようにみせかけること」をいうのであれば、これらの批判は全く的を射ていないということになる。なぜならば、他人の言動は外部から監視し、ある程度はその意味を判断することができるが、他人の心は一切読むことが出来ないからだ。ということは、人は他人のことを偽善だと批判することは出来ないということになる。偽善の定義に「心」が含まれていることで、その行為が偽善であるかどうかは行為者本人にしか分からないということである。

では、どのようなときに偽善であると断定できるのか。それは自分の言動と心で思っていることが一致していないときだ。例えば、自分が気に入らない人が会社を辞めたとしよう。数か月後に同僚との飲み会でその人の話題になる。「まぁ違うステージでも頑張ってほしいですよね」とか言ってしまうことはないだろうか。そんな時、言った本人は何となくバツの悪さを感じて、この話題を終わらせたいと感じる。これこそがまさに偽善であるということではないか。

このように偽善であると断定できるのは、自分自身の言動や心の在り方を判断する時だけだと言えるのである。偽善であるかどうかは、他人に判断できることではないのだ。