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ジブリ: 君たちはどう生きるか??(ネタばれ有り)

昨日封切りのこの映画。子供の頃からジブリ(と言っても、その頃はジブリという組織はまだなく、いや逆に、自身の組織を作る以前から、宮崎駿監督の才能はずば抜けていた)アニメと共に生きて来た私には、やはり観なければならないという思いもあり、観て来た。

案の定、原作はモチーフやきっかけに過ぎず、全編、氏の内面世界で彩られた、美しくも肉感的な、懐かしい児童文学ファンタジー風の物語が展開される。

コナン、カリオストロ、ナウシカ、ホームズ、ラピュタ、トトロ、魔女宅、もののけ、紅豚、千と千尋、ハウル、ポニョ。懐かしいシルエットやアングルが、走馬灯のように浮かんでは消える、煌めく世界。一方で、故・高畑勲氏の亡霊のような、火垂るの墓ライクな低音部も響かせつつ、美しい自然美・造形美と共に、爽やかに現実世界へ少年少女(?)が生還できた時点で、ハッピーエンドとなる。

事前のプレスリリースを、ポスター1枚のみに徹底して制限した効果は、私は、氏と氏の女房役の鈴木氏の頑固一徹らしい試みで、ある程度奏功したと思う。この情報過多の時代に、全く情報を遮断できるものも、強力な個性と実績に裏打ちされた「権力」がないと、できないことだ。確かにその分、観客は、スクリーンの目の前に初めて現れる一カット々々を、目を凝らして集中することができた。

ではさて、この映画の意義は何であろう。私は、日本の究極の美とは、やはり「構造美」である、との思いを改めて思った。そこにはストーリーも登場人物の性格描写もフルオーケストラの豪華BGMも、ほとんど意味を持たない。日本の美が構造美の極致であると私が認識したのは、芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」という評論を読んだ時である。

同じく構造美の極致を表現しているかに見える、故・高畑勲氏の「かぐや姫の物語」よりも「君たちはどう生きるか」の方に、私が美しさを感じてしまうのはなぜか。それは、かぐや姫の方は、私達が過去、美しいと感じたものや善良なものだと感じたものが、偽善であり幻想であると、高畑氏が痛烈に伝えているからだと、私は今回思った。宮崎氏は過去を否定していない。それは手を変え品を変え、主旋律のように繰り返し現れる。氏はその点、全く振り返らない。

ただし、やはり氏の頂上は、トトロであり、ナウシカであり、ラピュタであると、私は思う。細部は洗練されて行くが、物語全体を包んでいる枠組みは、以前の方が、よりシンプルで明快に思える。なぜか。それは、細部が全体を損なっているからだ、と私は思った。細部に全体が引きずられているからだ、と私は思った。それは、単に「加齢」であると、片付けられてしまうだろうか?

私にとって、この映画を観た価値は、大いにあった。氏の才能は不変であり、絶え間なく洗練され続けている。しかし、引き際も大切である。それはあらゆる生命体の宿命なのかも知れない。バトンを渡すように、次の世代、新しい担い手に、自らのノウハウを継承して行くことが。氏自身も劇中で、それを明確過ぎる位、語っている。バラバラになり、崩れ落ちそうな積み木。次に組み上げるのは誰か?バトンを渡さないのは怯えか?驕りか?怠惰か?

枠組みを超えた新しい地平へ、自分も踏み出して行こうと思った。

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