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誰も踏みつけにしない世界を望む(映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』感想)

ゲゲゲの謎を6回観ました。
6回観て、水木が本当に欲しいものって「誰にも踏みつけられない力」じゃなくて「誰も踏みつけにしない世界」じゃん、と思いました。
なのでその話をします。

水木は戦争で心と体に深い傷を負い、そのことについてこう言います。
「戦争で俺は見たんだ。お国のため、銃後の家族のためと駆り出されたはずなのに、理不尽に部下を打つ政府上官たちに、どう見ても意味のない戦争に駆り立てられて多くの仲間たちが死んでいくのを。戦争が終わって夢にまで見た内地に帰ってみればお袋は死んだ親父の親戚連中になけなしの財産を全て騙し取られていた。餓死者や貧困で溢れる一方、戦争を主導した連中は隠匿物資を横領して贅沢三昧だ。俺は思ったよ、戦場も内地も関係ない、弱い者はいつも食い物にされて馬鹿を見るんだ。だから俺は力が欲しい、誰にも踏みつけられない力を。それ以外のことは、俺には……」
うろ覚えなので間違っていたらごめんなさい、大体こんな感じだったと思います。
重要なのは、爆撃を受け胸に大きな火傷の傷を負っているにも関わらず「俺はこんな目に遭った」とは言っていないことです。「理不尽に打たれた」ことではなく、「理不尽に部下を打つ政府上官たち」に水木は傷付けられています。それは、水木が仲間に対して「生き残ってしまった」という負い目を感じているからでもあると思います。
水木は本心では、自分だけが踏みつけられない立ち位置を手に入れることではなく、「誰も踏みつけにされない社会」になることを望んでいたのでしょう。しかし、そう望むにはあまりにも残酷な現実に対して絶望しすぎていたし、何よりそんな余裕を持つことはできなかった。だから「誰にも踏みつけられない力(=権力)が欲しい」と思ったし、他者を幸せにする余力は無いと感じていたから、「それ以外のこと(=ゲゲ郎の言う誰かを本当に愛すること)は、俺には……」と言ったのだと思います。
こう考えると、出世よりも沙代やゲゲ郎、鬼太郎の母を救うことを優先したことにも納得がいきます。水木の本当の望みは「誰も踏みつけられない世界になること」なので、踏みつけにされている他者を無視することはできないということです。時ちゃんに語った「病気も貧困もない社会」の展望はゲゲ郎におためごかしと一蹴されてしまいますが、これも本心だったと思います。だからそういう社会を実現させられるかもしれない唯一の希望としてMに望みをかけていたし、それを作っている龍賀家に憧れていた。そしてそれすらも弱者を踏みつけにして作られていること、龍賀家が子どもを踏みつけにしていることを知り、深く絶望したのです。

ゲゲ郎が水木を相棒と呼ぶまでになった心情の変化はいかなるものだったのでしょうか。ゲゲ郎にとって人間はずっと「幽霊族という弱者を踏みつけにする強者」だったはずです。それは鬼太郎の母と違い、人間と深く関わってこなかったため、一人一人が異なる事情を持ち合わせているということを知らなかったからでしょう。同族の数を把握しているあたり、連帯感の強い種族みたいですし。
処刑されようという時にも特にショックを受けていなかったのは、人間に対して「こういう加害をする生き物だ」という諦めを抱いていたからだと思います。そのため実は水木が白い目で見られながらもそれを止めるために割って入ってきた時点で、好感度は上がっていたというか、「違う人間もいるのかもしれない」と思ったのではないでしょうか。明確に敵意を向けてくる村人とはニコニコ話していたのに水木のことは無視したのは、夜行で声をかけてやったのに来たな、と思っていたのと同時に「変に情に絆されて期待をかけてそれを裏切られたくない」という気持ちの現れだったのではないかと思います。
けれどゲゲ郎は妻が人間を愛していたという話をしながら涙を流すのですから、人間を愛してみたいと思っていたはずです。愛する人の愛するものを愛してみたい、同じ世界を見てみたいと。行きの夜行で水木に声をかけたのは、屋上遊園地で転んだ子どもに手を差し伸べていた妻のまねをしてみたのかもしれません。うまくいかなくて拗ねてたけど。
そして水木が時ちゃんへ語る未来の展望を聞き、つるべ火の下で対話することにより、「人間の中にも踏みつけにする者と踏みつけにされる者がいる」ということを初めて理解します。加えて、水木のように「弱い者を食い物にする社会」に怒りを覚えている者がいるということも。ここで水木とゲゲ郎は、同じ「踏みつけにされた者」として連帯します。そしてゲゲ郎はようやく人間を愛する準備ができたのです。

沙代は「踏みつけにされた子ども」として象徴的な役割を果たします。終盤、沙代は「わたくしは一族の道具じゃない!でもあなたなら、あなたならって信じてたのに、わたくしのことを見てくれるって」と叫び、水木に目を逸らされて絶望します(音声ガイド:「沙代の大きな瞳に絶望の色」)。これは「私を一人の人間として尊重して責任を取って連れ出してくれたのだと思っていたのに、惨めな道具だと知って哀れみをかけただけだったのね」という意味で、これは図星かつ、水木が最も嫌うことでもあったので水木は目を逸らしたのだと思います。ゲゲ郎に「哀れみをかけた」と言われて水木は激怒しますが、これは「見下された」と感じたからです。哀れみをかけるという行為は、最後に残った細い自尊心を折ります。

だからこそ、ゲゲ郎はずっと踏み付けにされてきた幽霊族の生き残りとして、沙代が背負う覚悟や哀しみが狂骨として見えていた者として、沙代を出世の道具として利用したり、かわいそうな子と思って哀れみをかけたりすることの残酷さをよく分かっていたから水木を咎めました。「話しても無駄なら話さない」と言っていた通り、ゲゲ郎は水木の中にある善性を信じられるようになったからそれを説いたのだと思います。ただ、沙代が背負わされていたものは、哀れみをかけるなというには到底重すぎるものだっただけで……

総括すると、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は絶望と諦念にまみれて権力を求めるしかなかった水木が、ゲゲ郎、鬼太郎の母、沙代と関わることで本当の願いを思い出し、それを成就させたいと思えるようになる、「ツケは払わなきゃなァ!」「いいじゃねえかやらせておけ!お前が犠牲になる必要はねぇんだ」と叫べるようになるまでの話であり、作中を通して一貫して「誰のことも踏みつけにしない世界」を実現することの重要性を説いています。
しかし、水木の願いは哭倉村で成就することはありませんでした。沙代は亡くなり、ゲゲ郎は恨みを引き受け、鬼太郎の母も行方不明。その壮絶な悲しみは記憶を失ってもなお残り続けるほど暗く重い絶望だったでしょう。
しかし、水木は鬼太郎を育てることができました。あのとき過ぎったゲゲ郎の姿は、「相棒の子だった」という心のどこかに残った記憶でもあり、誰も踏みつけにされない世界にしたいという願いでもあり、だからこそ、社会のために化け物の子を始末するのではなく、目の前の踏みつけにされようとしている弱く孤独な子どもを抱きあげたいと強く感じたのだと思います。それはようやく水木の願いが成就した瞬間でもあり、水木が「それ以外のことは、俺には……」と感じていた「誰かを愛する」ということが叶った瞬間でもあったのだと思います。


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