20231207

 池田晶子『事象そのものへ!〔新装復刊〕』(トランスビュー)を読了した。学術論文ともエッセイともつかない「哲学エッセイ」を確立した、記念的作品。恥ずかしながら彼女の存在を知ったのは最近になってからで、彼女の文章を読んだのも今作が初めてだった。二〇〇七年に四十六歳という若さで亡くなり、NPO法人「わたくし、つまりNobody賞」が設立された経緯も知らなかった。ネットで検索すると、『14歳からの哲学』が有名で久米宏がメインキャスターを務めていた頃のテレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』に出演していた映像が拾えた。映像で見ると、会話によるコミュニケーションが得意な印象は感じなかった。どちらかというと苦手なようにも見えた。その印象は書き手として信頼できるものだった。
 予想通り、彼女の文体は凛々しく格好良いものでキレがあった。冒頭から蓮見重彦と柄谷行人の対談をバッサリと切り捨てるという清々しさ。ヘーゲル、シュレーディンガー、マラルメ、西脇順三郎、プルースト、鈴木大拙……と様々な分野を横断しつつ、ひたすらに考え続ける。存在(ある)と不在(ない)の間、考える〈私〉、意識、〈神〉。考えるとはなにか、認識はどこまで可能なのか、古代ギリシャから延々と続く問い、その深淵へと飛び込むことこそ生きるということそのもの。そこには常に「死」が隣り合っている。調べると、彼女は埴谷雄高とも親交があり、かなり影響を受けたようだ。『死霊』は積んだままになっていたので、読むときが来たのかもしれない。音楽でも書籍でもこういう偶然を導きと信じることは多い。「運命」という言葉は、命を運ぶと書く。池田晶子の命が埴谷雄高の命をわたしという命に運んできた。そう思うのは、あまりにロマンティスティックすぎるかもしれないが。

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