加工された音楽は二義的

TikTokが流行っている。こういう言い方をすると年寄りくさいだろうか。でも、初めの頃はみんな「TikTokとか中高生向けやん」という意見だったのに、いつのまにか周りの子の8割がTikTokを見るようになった気がする。私はアプリを入れてはいないものの、InstagramやTwitterでTikTokの画面録画は流れてくる。好きなインスタグラマーもYouTuberもアイドルも、みんなやってるし。
そこでどうしても気になるものがある。それが音楽の倍速だ。

私はアイドルが大好きだ。だから最初に知ったときは衝撃だった。大好きなアイドルグループ、私立恵比寿中学のデビュー曲が倍速され、それなりに顔に自信のある女の動画のBGMになっているのだから。
圧縮されて軽くなった音、メンバーの声の識別ができないほどに甲高くなった歌声。
これいいのか!?って思ってしまったが、今YouTubeで「仮契約のシンデレラ」と検索しようとすると次にサジェストされるのは「倍速」だ。もはやこちらが主流なのか。

もう一つ、アイドルの楽曲で象徴的な出来事がある。それが=LOVEというアイドルグループの「しゅきぴ」という曲だ。これは量産型や地雷といった最近のステレオタイプに特化した曲なのだが、なんと、公式から倍速バージョンが出ている。イコラブメンバーがそれぞれ振り付けを考えTikTokに倍速で投稿しているのだ。つまりあらかじめ、TikTokでバズりそうな曲を作ってきているわけだ。楽曲がバズるための手段になっている。

倍速された音楽、いや他にも色々な施し用があるので、一律に加工された音楽と言わせて欲しいのだけど、とにかく加工された音楽は目的ではなくて手段に転倒してしまう。聞くためのものから、利用するためのものに。
InstagramのストーリーズのBGMとしても音楽が利用される機会が増えた。こちらは加工されていないものの、音楽の使用方法の流れを象徴しているのではないだろうか。音楽は聞くものではない、皆に発信するときの後ろにあって、雰囲気をつけてくれたり自分をアピールする正当な手段になってくれたりするのだ。

音楽は今や、二義的なものになった。

もう一つ、別の話をさせて欲しい。YOASOBIのことだ。知らない若者はいないのではないかと思われるほどトップクリエイターに上り詰めた彼らだが、そのボーカルikuraの歌い方が、びっくりするくらい単調だとは思わないだろうか。
「夜に駆ける」を例に見てみると、息を吸い込む音くらいしか人間らしさがない。一音一音をしっかりと発音し、いわゆる落ちサビやCメロで歌い方を変えたり声を掠れさせたり荒げたりもしない。音の強弱はあるが、それだけだ。歌い方に人間味がなく、声までもがその他の楽器と同様なようだ。私はこれを、あらかじめ声がでしゃばりすぎないように「加工されている」とあえて言いたい。ちなみに息を吸う音はボーカロイドでも再現可能だがそれは置いておく。

このような、私が言うところの人間味がないとはikuraへの批判ではない。むしろYOASOBIはこれを狙ってやっているのではないかと思うのだ。幾田りら名義の活動と歌い方が違うのもそういう理由ではないかと思っている。
感情を乗せる歌い方というのは人の心を打つ。しかしそれは何度も聞くとくどくなるはずだ。ありていに言うと、飽きる。
ところがYOASOBIはTikTokでもラーメン屋でもラジオでもテレビでもそこら中で聞くのに、飽きないでいられる。「うっせぇわ」はくどくなっても、YOASOBIの曲はならない。
つまり、YOASOBIの曲はBGMに最適なのだ。こうして、消費文化と上手くマッチングするというわけだ。

例えば昭和の名曲、フラワーカンパニーズの「深夜高速」がInstagramのストーリーズで流れていたらどうだろう。「生きていてよかった」と何度も繰り返すサビは多くの人を救うけれど、ストーリーズで流れてきたらちょっとサムイかもしれない。あれはそれこそ深夜に一人で聴きたい曲で、店のBGMで流されていたらご飯どころではなくなってしまう。今は過剰に音が溢れかえっている世の中だ、街中のテレビ広告やらそこら中で「生きていてよかった」とフラカンのあの声で歌われたらだんだん困ってしまう。

消費文化とは、擦られることだ。擦り切れるまで使い倒されて、飽きたら捨てられる。
YOASOBIはおそらく、それに自覚的だ。だから飽きない音楽を、初めから加工されて均等にされた音楽を作っているのではないだろうか。その結果私たちはいつまでもYOASOBIの楽曲を利用し続けることができる。
音楽が二義的なものになったこと、その上でそれを取り込んだ音楽を作ること。彼らは新しい音楽の形を作っている。

都合よく利用できる音楽が、つまり二義的や音楽がもはや主流なのである。初めに例を出したエビ中で言うと、「仮契約とシンデレラ」はTikTokでバズっても、決して都合よく使うことが許されないような、手段として利用することを音楽側が拒絶してくるような、「ジャンプ」「スーパーヒーロー」と言った曲は流行らない。流行らなければ知ってもらえない。ワンクリックで新しい音楽に出会える時代だ、見つからなければいけないのだ。

この風潮はいつからあったのだろうと思うのだけれど、考えてみると私はそういう二義的な音楽の方がよりよく馴染んできたように思う。
小学校の終わりから中学生にかけてはボーカロイドの全盛期だった。悪ノシリーズ、カゲロウプロジェクト。MVのストーリーが主としてあって、音楽は解釈するためのものではなかっただろうか。
この記事を読んでくれている人も、もしかしたら一度は思ったことがあるのではないだろうか。「YUIも、ファンモンも、GReeeeNも、平成の音楽だな」って。
おそらく、動画サイトで音楽を投稿できるようになったことで音楽は世界観の構成要素になったのだ。メインは音楽ではなく、そもそもメインなどなく、世界観を共有するための諸要素として様々なものが折り重なる。それが、ネット社会に迎合した音楽の一つの姿としてあるのではないだろうか。

そう考えると、音楽が加工され二義的になることは当然の帰結だったのかもしれない。TikTokの倍速も、ストーリーズの華を添えるためのBGMも。その一つの完成形、象徴としてYOASOBIがある。加工された音楽は、もはや今の音楽の主流になっている。

けれど、このような流れをよしとしない流れも勿論あることを忘れてはいけない。一才の加工を許さないYouTubeチャンネル、The First Takeが流行ったことは音楽として音楽を楽しむ姿勢を視聴者に要請するし、あるときのサカナクションのオンラインライブではサビにわざと映像を乱れさせるという加工が施されていた。音楽を聞け、音に集中しろ。アーティストたちがそう訴えてきていることにも、きちんと着目しないといけないだろう。そしてYOASOBIが、The First Takeに出演していることも。

二義的であることを受け入れた音楽と、一義的であることを要請し続ける音楽。今は音楽の過渡期にあるのかもしれないし、このまま二つの形が共存して行くのかもしれない。

それでも私は、眠れぬ夜に一人「深夜高速」を聴く人生でありたいと思う。絶えず生まれてくるだろうそういう音楽が、いつまでも人に届くことを願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?