歯医者に行ったら歯になった話

先日、歯医者に行った。危惧していた通り奥歯に虫歯があった。ぽっかり穴が目視できるくらいの虫歯で、人生22年、とうとう銀歯デビューとなりそうだ。実はこれまでの人生で一度たりとも虫歯になったことがなかったので、ちょっぴりショックだ。でもセラミックは高い。
私の虫歯事情はどうでもいいのだが、このコロナ禍、虫歯のためだけに地元に帰ることも憚られてネットで家の近くで一番口コミが良い歯医者を検索し、おずおずとそこに行って、驚いたことがある。その歯医者の施術台に乗った途端、私は「歯になった」のだ。

私はこれまで地元の小児歯科にしか行ったことがないので、もしかしたら多くの歯医者はそうなのかもしれないのだけれど、施術台に座り、背もたれが倒されベッドのようになると、まず目にタオルを乗せられた。びっくりした。え、これじゃあ施術が見えない……と思ったが、それを口にするより前に「治療していきますね」と声がかかりパチンと麻酔を打たれた。

それからの私は、全感覚を口内に集中させる必要があった。
麻酔を打たれているので詳しいところはさっぱりわからないのだけれど、だからこそ余計に、とにかく不安だった。今この人は私の歯の何をやっているんだろうか。削っているんだろうか。どこを? 私は左の奥に2連で虫歯ができていたのだけれど、一番奥の親知らずなのか、その横の奥歯なのか、それとももう少し手前の歯のお掃除なのかがさっぱりわからない。どんどん心臓が立てる音が大きくなっていく。
これまで虫歯になったことがないので、この音の時にはきっとこれをされているんだろうな、みたいな経験則もなく、ただ口を固定され唾を飲み込むこともできない中、なんとなく左の方で何かが起こっている感覚だけに支配される。なんなら、だんだん右の歯をいじられている気分にさえなった。右の上の歯に先生の手や器具の一部が当たるからだ。そしてそちらは麻酔がない分明瞭に理解できる。他にも、途中、おそらく細い器具で何かをされていたとき、私は真剣に「この人は歯を抜いているんだろうか」と考えた。よく考えたらそんなことはないのだけど(当たり前だ、虫歯の治療である)、感覚が強制的になくなっている口内だ、視覚情報がない状態ではどんな刺激も恐怖を煽るものでしかないのだ。

思わず私は左手をあげた。痛かったらそうしろと言われたからだ。「痛いですか?」と聞かれ、精一杯首を振る。固定具を外されてから、「すみません、今、どういった治療をしているんでしょうか」と質問した。歯医者さんは答えてくれた。「虫歯の治療をしてますよ」

違う、そうじゃない、と思ったが、まさか言えるわけもない。ははは、と笑ってもう一度拘束具をつけてもらい、治療を再開してもらった。やっぱり恐ろしい。何も感覚はないのでなんとなく削られている気がする中、延々と、先生は今は何をやっているんだろうかと考える。耐えきれず少しずつ顔を動かしてタオルの位置をずらし、せめて先生が使用している器具だけでも見れやしないかと格闘していると、それに気づいた助手の方が「タオルずれてるので直しますね〜」と優しくタオルを元通りにしてくれた。もう諦めるしかなかった。

もしかしたらタオルや何かで視界を閉ざした状態での施術は、一般的なのかもしれない。けれど私が通っていた地元の歯医者には、施術台に寝転がったらちょうど見える位置に鏡があって、先生が歯のどこをいじってどういう器具で何をしているかが常に見えていた。それはそれであまり見たいものではなかったけれど、今の治療の状態を余すとこなく知ることができていた。そのため、何も見えない状態は私にとって、私の身体を好き勝手弄られているような恐怖を催すものだったのだ。

一度目の治療が終わり、一週間後にまた来てくださいと言われて歯医者を後にした。誰が行くか!と思ったものの、流石に治療中に他の歯医者に行くことはできない。左奥だけ我慢して、次もしどこか虫歯になったら、そのときは違う歯医者を探そうと決意する。
ちなみにそれから三日ほど、歯がどんどん抜け落ちる夢に苛まれた。

一週間後。さすがに薄れた恐怖心と共にもう一度歯医者に向かった。また施術椅子に座り、背もたれが倒され、タオルを目にかけられた。治療が始まる。
二回目は随分落ち着いて、口内に意識を集中させることができた。何をされているかはいまいちわからないままだが、前回と同じ音がする、ということも自分を安心させてくれた。先生への信頼が芽生えたことも大きいだろう。別のことを考える余裕さえ出てきた。全く怖くなかった。先週一週間、何に悩んでいたのだろうとさえ思った。

そして私は、ああ、歯医者さんにとって私は歯なんだな、と思い至ったのである。
最初にイメージしたのはベルトコンベアーで部品を一つ一つ調整される車だった。歯医者における私は、ベルトコンベアーにおける車と一緒だと思った。そこでは全体より部分が重視される。例えば車全体よりタイヤが、私より歯が。当たり前だ。歯医者とはそういう場だ。だから視界を閉ざされることは別に何もおかしくないのだ。
ただ私は治療される私を重視し、歯医者は治療する私の歯を重視しているという差に過ぎない。治療中の歯医者にとって私は歯である。私の私性より、私のどこか悪い歯こそが私の最もたるものである。手術だってそうで、全身麻酔をされた患者の患部が最も重要で、どんな医者も意識のない患者に一番の関心を置いたりはしないだろう。失敗しないためには患部に気を配るべきだ。患者の意識があるかないかの差であって、歯医者が患者としての私より虫歯という患部に最大限注視することは極めて合理的なことに思えた。
歯医者の、あの施術台に乗っている間だけは、私は身体というより肉体なのだ。口を開けておいて欲しいし痛かったら手をあげて欲しいから意識を残しているだけで、別に麻酔にお金がかからないなら、歯の治療のたびに患者の意識を奪ってもいい。そんな大がかりなことをする必要がないからしていないだけであって、私の意識や私という主体は、治療においては下位に置かれるのも当然なのだ。
そう考えていくと、どんどん自分の全部が歯になっていくように思った。今どこをどうしてるんだろう、と疑問に思うのは私であって歯ではない。歯ではない、ということは治療に重要ではない。極めて合理的。自分の体で科学とそれ以外の取捨選択をしているみたいだ。
そんなことを考えていたら、二回目の治療はすんなり終わった。不安はあったけれど、恐怖はもうなかった。

歯医者の名誉のために書くが、一切の説明がないわけではない。歯医者に行ったら挨拶してもらえるし、今日も治療していきますねとか、麻酔うちますねとかの声がけもある。終わった後は来週どんなことをするかも教えてもらえる。ただ施術中にタオルで視界を奪われるだけで、私がそこに私という主体の無視や恐怖を感じ取ってしまうだけで、とても丁寧な歯医者さんである。
東京のど真ん中、予約も取りにくい人気の歯医者だ。患者への説明の丁寧さを優先していたら回らないのだろう。そういうわけで、説明と施術を完全に分離させ、施術中は患者に歯になってもらっているのだと思う。

最近、東京では酸素ステーションなるものができたらしい。コロナ患者のうち、酸素血中濃度が下がってしまった人をそこに搬送し、酸素を吸入し、また自宅に戻す。医療崩壊が進む中、いかに合理的にいかに多くの患者に酸素を行き渡らせるかを考えた上での施設だと思う。
そこでも、患者より患者の肉体が優先されているのだろう。酸素ステーションの目的は「酸素の足りない肉体への酸素の吸入」であり、「酸素が足りない患者の治療」ではない。ガソリンスタンドだって、車にガソリンを入れることが目的で、車検は別にある。そういうことだ。合理化において最も先に切り捨てられるのは私性なのだ。そして私性は、確かに、肉体を元の状態に戻すという一点から考えると、別にそんなに重要ではない。私は歯医者で「虫歯」であり、コロナ患者は酸素ステーションにおいて「酸素の足りない体」である。
人間機械論、ここに極まれり。

今日、三回目の治療が終わって、私の歯は全て正常になった。私はもう治療の後に泣いたりはしないし、歯が抜け落ちる悪夢も見ない。背術椅子が倒されている間のみ主体性を放棄するだけで治療は着々と進んで、来週には完了するらしい。私が歯になる必要も、もうしばらくでなくなるようだ。今日からはもっとちゃんと歯磨きしよう。

面白い経験だったなと思う。今まで内科に行っても外科に行っても皮膚科に行っても目隠しをされることはなかったし、私が患部になったと感じる機会はなかったけれど、程度の差はあれ医者にかるとはそういうことなのかもしれない。私より患部を、身体というより肉体を注視する人に、体の一部を完全に委ねる。よく考えれば私は医者に処方される薬の効能をいちいち全部記憶しているわけでもないし、結局は医者への信頼があれば私性の非重視は感じないのかもしれない。

それでも私は、次は違う歯医者に行くんだろう。

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