オタクはもうファンではいられない

以前、千葉雅也氏がこんなツイートをしていた。

いまいち推しという概念がよくわからない。ファンでいいじゃん、と思ってたのだが、考えてみるとたぶん、ファンの場合は主体はアイドル等の対象の方で、押しと言うと主体がファンの方になる。だから、推しというのは、自分がその対象を支えて「やって」いるという感じがあるのだろうか。

いろいろな人がいろいろな反応を示していた。そしてどの反応にも納得しつついまいちピンとこなかったので、私にとっての「推し」について書いてみようと思う。

AKB48の登場が、いろいろなことを変えた、ということは、割と定説化しているのではないだろうか。会いに行けるアイドル、握手会文化、選抜制度、総選挙。資本主義のうまいところを突いて一斉を風靡したグループ、私はそんなAKB48によってもたらされた最もたる変化が、ファンから推しへの変容だと思っている。

これから先の話は想像でしかない。ただ、昔は好きなアイドルを「推す」必要はあまりなかったはずだ。主要媒体はテレビとラジオ。当人の実力、もちろん事務所の力や、もしかしたら少し芸能界の闇みたいなものもあるだろうが、とにかく基本的には芸能界の中だけで完結することによって、アイドルはテレビの枠を勝ち取っていたはずだ。
どれだけオタクがたくさんいたとしても、音楽番組のプロデューサーが是と言わない限りはアイドルはテレビには映れない。決定権はオタクにはない。SNSもないわけだからオタクのおかげで「バズる」こともない。だからアイドルは芸能界の中で戦うし、その結果をオタクは享受する。
そのときのオタクは、純粋に、ファン、つまり狂信者でいられたはずだ。熱狂的にアイドルを支持し、CDを買う。レコードかもしれない。あまりわからない。ドラマに出れば見て、ライブがあれば駆けつける。写真集が発売されれば、喜び勇んで本屋に向かう。

大人数アイドルの契機と言えば(大人数とは言え、AKBとは比べられないほどに少人数だけれど)、モーニング娘。だろう。そして実際、モーニング娘。を応援する人たちが、2ちゃんねる上で「推し」という言葉を使い始める。とは言え、ネットスラングとして登場してきた当初、「推し」は単に「一推し」くらいのイメージだったと思われる。というのも、モーニング娘。は、複数人によるアイドルグループではあるが、全員が楽曲に参加し、全員で音楽番組に出演するからだ。大人数という特性上、画面に抜かれる回数はメンバーごとに差があるけれど、ダンスの立ち位置がくるくる変わるし、一方歌唱メンバーはある程度固定化していたのでどうしても彼女たちがたくさん映るものだった。もちろん、グループ内ユニットやら、メンバーによるメディア露出の差はあるけれど、テレビに全く映らないアイドルは、モーニング娘。にはいなかった。
従って、この頃もまだ、やはりオタクには決定権はないと言えるだろう。オタクはただ純粋に、自分の一番応援しているメンバーの活躍を見て、悶えることが出来る。オタクはまだファンでいられた。一番応援しているメンバー、転じて一推し、すなわち「推し」。この頃までは、まだ、推しは推しでしかなかった。推しは行為ではなく、名称だったはずだ。だって、「推す」という行為が必要ない。

それだけで済ませられなくなったのが、AKB48の出現ではないかと私は思っている。AKB48の大人数制によって、オタクが強制的にプロデューサーの立ち位置に立たされたからだ。
音楽番組には事務所や秋元康氏の力、そしてアイドルたち本人の努力によって出演出来るとはいえ、AKB48として出演するメンバーは絶えず選抜され続けている。私の大好きなあの子は、運営のお気に入りじゃないし、ダンスが上手いわけでもない。毎日のその子のことを考えていても、その子はテレビに映らない。そういったことが起こるようになる。けれど、「推せば」話は変わるのである。私がたくさん布教して、私がたくさん握手会に行って、私がたくさんお金を使えば、あの子は選抜に入れるかもしれない。

こうして、オタクの頑張り、もとい「推し」に捧げた行動とお金が、「推し」の立ち位置に明確に反映されるようになる。「推し」は単なる名称から行為を含有するものとなる。「推す・推される」という関係性が、オタクとアイドルの関係になる。オタクが決定権の一部を持ち始めるのだ。
CDを買う。ドラマに出れば見て、ライブがあれば駆けつける。写真集が発売されれば、喜び勇んで本屋に向かう。自分の情動に突き動かされての行為だったすべてのものが、「推す」行為へと変わり、アイドルのための理性的、戦略的、合理的行為になる。

「推す」という行為は、AKB48側から公認されている。それがわかる最初の公的記録が2010年の「チームB推し」だろう。”あなたは今日で〇〇推し”という歌詞で、チームBのメンバーが五十音順に自己紹介をしていくという曲だ。私自身、小学生の頃によく歌っていた、とてもキャッチーな曲だ。
そんな「チームB推し」の自己紹介以外の歌詞に少し注目してみたい。

”大勢いると迷うでしょ? 誰か一人を応援して!”
”私のことを好きになって推してくれたら嬉しいです”

とうとう、推すという行為は、アイドルから願われるものになっている。「応援してください」ではない。「推してください」となるのだ。私を推して、私を高みに連れて行ってください。握手会、総選挙と相まって、この動きはどんどん活発に、公的に、普遍的なものになっていく。「皆さんのおかげです」という言葉が、字義通りのものになっていく。こうして、推しは千葉雅也氏が言うところの支えて「やる」ものではなく、支え「なければならない」ものになった。

アイドルは昔から、初めから商品だ。けれどここまで凄まじい商品化の動きを、私は他に知らない。アイドルたちは推されやすいように、自ら属性に固執する。妹キャラ、ボーイッシュ、ぶりっこ、姉御肌。わかりやすいキャラクターを自らに付与していく。アイドル自ら、自分を物象化する。分かりやすければそれだけ見つけてもらいやすいし、その結果、推してもらえる可能性がある。運営も、ストーリーをより重視し始める。完全より不完全が好まれていく。
SKE、NMB、HKT……。姉妹グループが増えるごとに、選抜争いは過酷になった。さらには48グループに対抗して乃木坂46が誕生する。当然、それらに比例して推すという行為の必要性も高まった。それは需要ではなく、必要だった。例えポテンシャルがあっても、推されなければ発揮の場が与えられないからだ。アイドルは推されなきゃいけないし、オタクは推さなきゃいけない。AKB48、そしてそれに続く秋元康氏プロデュースのアイドルグループは、まさしく「文化産業」なのだ。

もちろん、「推し」という言葉が、今のアイドルオタク界隈でもっとフランクに使われている用語だということはわかっている。それどころか、アイドル界隈を超えて「推し」は一般化した。特定の誰かを応援することは今や「推し」と称される。推しメン、推し作家、推し漫画。けれど、「推し」は、オタクやファンといった語より多くのものを内包しているのではないだろうか。

私とて、アイドルオタクを名乗っている以上「推し」はもう日常用語だ。けれど私は「推し」という言葉をあまり使いたくない、という自意識を常にどこかで持っている。私はファンでありたい。それでも、今の主流のアイドルグループを応援する限り、私はファンではいられない。私の行動で、もしかしたら、あの子の立ち位置が変わるかもしれないのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?