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【映画】追悼アレン・ダヴィオー

 4月15日、撮影監督アレン・ダヴィオーが、無念にもコロナウィルス感染症による合併症で亡くなった。77歳。
 最初期からのスピルバーグのカメラマンで、『E.T.』(82)、『カラーパープル』(85)、『太陽の帝国』(87)を手がけ、その三作すべてでアカデミー撮影賞にノミネートされている。

 アンブリン社のツイッター上で、スピルバーグは直ちに声明を出した。

1968年、アレンと私のキャリアは共に短編映画『アンブリン』で始まりました。アレンはすばらしい芸術家でしたが、同時に彼のレンズに劣らぬ力強い温かさと人間性の持ち主であり、比類なき才能を持つ、美しい人物でした。
スティーブン・スピルバーグhttps://twitter.com/amblin/status/1250891689939464193?s=20

 二人の出会いは、学生時代の習作”Slipstream"に始まる。まだ経験の浅い4つ年上のダヴィオーにスピルバーグが声をかけたのだ。しかしダヴィオーは自分の腕を未熟として、オペレーターとしてのみ参加。当時のスピルバーグの印象を、彼はこう述べている。

またひとり映画を発明しようという人物があらわれた! とにかく独創的で、才能にあふれている。彼が映画をやらなければぼくもやらないだろう。いいチームが作れるぞ。

 若い男女の出会いを描いた、次の習作短編”Amblin”でダヴィオーは正式に撮影監督を担う。このとき二人の絆が作られ、ダヴィオーは当時のこんなエピソードを紹介している。

スピルバーグと一緒に8日間連続で、日の出と日没を全力で撮影したんだ。毎朝早起きしては日の出を撮りたがるので「スティーブン、日の出なら昨日いいのを撮れたぜ」と言うと、「わかってる。でももっといいのが撮れるかもしれないだろ」って。

 スピルバーグは思いつくととにかく撮ってみる。よくするための再撮影は厭わなかったと述べているが、文字通りの修業時代。二人はこうして、まさに共同で映画術を身に着けていった。

『追悼アレンダビオー』③

 ”Amblin”が注目されたその後の経緯は、リチャード・シッケル著『スピルバーグ その世界と人生』(西村書店)に詳しいが、『ジョーズ』、『未知との遭遇』で映画界の頂点に立ったスピルバーグは、『レイダース/失われた聖櫃』に続く新作、”Boy’s Life”を企画する。
 その撮影監督に、ウィリアム・フレイカーかヴィットリオ・ストラーロを構想するも、どちらも調整がつかず、そこで改めて浮かんだのが旧知のダヴィオーだった。

めったにないことだけど再考することなく、その夜ただちに「次回作を撮ってくれないか」ってアレンに電話をかけたんだ。絶句したのか電話の向こうで微妙な間があって、「なんでまた?」と聞くから、「君のテレビの仕事を見て驚嘆した。ぜひやってもらいたいんだ」って答えた。

 こうして生まれた”Boy’s Life”は、二人の幸せな協働のもと、『E.T.』のタイトルで完成し、映画史をくつがえす。
 ダヴィオーの撮影の特色は、テクニカラー時代を彷彿させる、色調豊かで鮮やかな画面であり、温かみのある映像の触感である。それが古き良きアメリカ映画の質感を与えている。
 実際、スピルバーグ以外の監督と組むときも『わが心のボルチモア』(90)、『バグジー』(91)、『アトランティスのこころ』(01)など、ノスタルジックな題材の作品が多い。

 色彩感に富むダヴィオーの撮影は、同時に光のコントロールにも抜群の冴えがあった。そうした個性は、古典的な大河ドラマの骨格を持つ『カラーパープル』と『太陽の帝国』で、さらに雄弁に機能したように思う。スピルバーグの画力が最初の頂点を極めるのは、間違いなくこの二作品だ。

『追悼アレンダビオー』画像②

 『E.T.』の撮影での最大の功績は、E.T.をプラスチックやゴムの作り物に見せない照明にあるという。E.T.に生命を吹き込んだのは、カルロ・ランバルディの造形もさることながら、ダヴィオーの貢献が大きい。スピルバーグはそれをこのように語っている。

E.T.はただ悲しそうに見えるのでなく、好奇心も加えて悲しげに見えるんだ。機械じかけでそうするのでなく、アレンは照明の加減でそれを実現してしまう。

 『シンドラーのリスト』(93)で、ポーランドの撮影監督ヤヌス・カミンスキーと出会って以後、スピルバーグは全作品で彼と組み、再びダヴィオーと組むことはなかったが、それは作風の変化と共にあった必然だろう。
 色彩感あふれるダヴィオーと異なり、カミンスキーのルックは、より単色的で端正な肌触りを旨とする。それはアメリカ(世界)の歴史を、映画の歴史と共にまるごと刻み付けようとする、以後のスピルバーグの動きにふさわしい。

 アレン・ダヴィオーの映像は、より親密に人の心に触れてくる。
それは「力強い温かさと人間性」と述べた、スピルバーグによる追悼の言葉と、ちょうど重なり合うのではないだろうか。

 スピルバーグは自ら興した最初の会社を「アンブリン」と名付け、そのロゴを『E.T.』からとった。スピルバーグにとっての初心とは、やはりそこにアレン・ダヴィオーとの仕事があったのだ。

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引用元はすべてJoseph Mcbride”Steven Spielberg A Biography”(Faber and Faberより。Twitter含め訳は筆者自身による)

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