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いすみサーフィンライフ 1970’s



渚のシンドバッド

今でこそオリンピック競技になったりして世間に周知されている、サーフィンというものが知られるようになったのはいつ頃からだろうか。
ピンクレディの渚のシンドバッドが大ヒットしたのは1977年、私が11歳の夏だった。歌詞の中に🎵サーフィンボード小脇に抱え美女から美女へ〜🎵とあり、この頃にはある層には認知はされていたけどこの歌の大ヒットにより、人々があー、サーフィンボードってあれの事か!と一般的になったと感じる。
で、世間にそのように認知されるずっと前から、私の家はサーフィンを生業としていた。
ピンクレディの歌ではサーフィンボードとなっていたけど、サーフィンをする人の中ではサーフボードと呼ぶのが一般的であった。
子どもの頃、親がそんな珍しい変な職業なのが嫌だった。
なぜ親がそんな職業だったか、ざっくり話せば私の父が日大芸術学部の4年生の時に勉強もろくにせず、遊びまくっていたら単位が足りずに卒業出来なくなり、当時大金持ちだった父の父、つまり私のおじいちゃんが「大学も卒業出来ないなんて世間様に恥ずかしいから、お前はアメリカでも行って箔をつけて来い」と日本追放宣言。ところがそれをこれ幸いと喜び勇んで渡米。1964年、アメリカ大使館でひとりひとり面接があった時代。キラキラと輝いていたアメリカ・カリフォルニアにはまだ日本になかったマクドナルドや最先端のものが溢れていて、とにかく感銘を受け、しかし憧れはあっても出来る仕事など当然限られているので日々ガーデナーとして地味に働いていたのだが、ある日知り合いになったアメリカ人にビーチに連れて行ってもらったら、若者が板を抱えて海に入り波を捕まえてその板の上に立って波の上を進んで行く!『なんだあのかっこいいスポーツは!!』とまさに雷に打たれたような衝撃。当時、日本で海水浴といえば葦簀を張った中で家族全員スクール水着みたいのを着てスイカ割りというイメージしかなく、21歳の父にとっては本当の意味で人生を変える出会いであり、「オレはこれを日本で広める!」が、父がサーフィンを生業とする経緯であった。
同じ大学の同級生だった母も、私達は将来結婚する予定だからと言って父の父に頼みこんで父を追いかけてアメリカで合流したというから母もすごいというか図々しいというか、それを許したおじいちゃんもまた器が大きい。
で、帰国して最初は元々父の地元の東京・神田でサーフボード製造と販売を始めたら当時の新しもの好きの若者(だいたいお金持ちのボンボン)が集まるようになり、週末になれば仲間同士で海へ繰り出していたけれど、販売だけならともかく、サーフボードの製造も行っていたから、家の中が手狭になり家の目の前の公園でボード作りをしていたら近所の人に不審がられて警察に通報されたり、家のそれほど広くもないリビングにはシルクスクリーンを使ってプリントしたTシャツが溢れて、乾く前にうっかり触ろうものなら大騒ぎになったり、そして毎週末の海通いも今みたいに道が整備されていなかったから大変だったり、やはり商売するなら海の近くがいいんじゃないか?という事で最初は湘南という案もあったらしいけど、湘南は石原裕次郎や加山雄三の映画などですでに有名であったのもあり、そこで父の動物的カンというのか、千葉はまだ未開の地だからという理由で千葉の可能性に魅せられて千葉の九十九里に決定したのだった。
その頃に台風接近でいい波が立ち、父とその仲間達がサーフボード抱えて海に入ろうとしたらたまたま取材に来ていた新聞社の人に「波があるから危ないぞ!」と注意され、「波があるから海に入るんだ!」と言い返したらしいが、頭のおかしい若者認定されたに違いない。
うちは、長女の私の下に妹弟の3人きょうだい、普通は家族の引越しといえばまずは子どもの学校の区切りなどを考えそうなもんだけど、我が家はとにかく子どもの都合より自分達中心プラス思い立ったら即!な親なので引っ越す私の転校は小学3年生の3学期というなんだか中途半端な時期になり。
千葉と東京は地図上で見るとそれほど離れていないし、今は電車の発達で茂原くらいはもう普通に通勤圏だけど引越し&転校したあの当時の千葉、当時夷隅郡(現在いすみ市)は、、まーーー、田舎。誤解のないように言っておきますが、田舎が悪いという事ではない。最初に驚いたのが、学校行ったら男子も女子も長ズボンを履いていた!1970年代、東京の子ども達は真冬でも女子はスカート、男子は短パンだった。転校したのが3学期だから1月の寒い時期とはいえ、全体的に皆厚着だな、、という印象。それは東京と違って農家の家とかは2世帯住宅が多いから老人と同居だとどうしても子どもに厚着をさせたがるという理由があるのだとずいぶん後になってわかったのだけど。
あとは東京に近い割に、方言がすごい、時々何言ってるかわからないし。
私は「訛ってる」とからかわれたけど、いやいや待てよ、私は東京の中でも中心地から来ていて思いっきり標準語なんすけど、、訛ってるのはあんた達でしょう。
うちの店が出来てから、海女さんが「いいものがあると聞いた!」とウエットスーツを作りに大勢で来てくれたりしたけど、対応した母は通訳がいないと喋っていることがわからないと困っていた。
そして転校してしばらくして打ち解けて来て、私がプリンアラモードって美味しいよねという話をしたら「あんだべ?!プリンダイヤモンド?!」と返された日にはやっぱり田舎だ、、と思ったのと同時に、そういう発言もこちらは悪気はなくても相手にとってはマウント取られてるみたいに思われるんじゃないかと心配になり、迂闊な発言はやめようと子どもながらに。
もうひとつ、私がそのようなマウント発言や素振りに非常に警戒したのは、この田舎の土地であの頃は日本の中でも流行の最先端を行っていた親のビジネスと、東京や日本中からオシャレなものを求めてお客さんがひきも切らずに流行っていたお店も、また田舎ではひときわ浮いた異物のような存在だったため、親や店は派手だけど、自分はいたって普通なんだという普通アピールをしておかないと周りから浮きまくっていじめられたりするんじゃないかという不安がいつもあったから。
同級生はお勤めよりも、農業を営む家の子が多かったし。
親はいいよ、、お客さんやあの当時、マスコミからも多数の取材申し込みがあってポパイやJJやほかの最先端雑誌も献本で送られて来ていつも家に山積みになって、基本自分達をちやほやしてくれたり、または同じ価値観の人、あるいは従業員と、自分達がどれだけありのままでいてもそれを肯定して持ち上げてくれる人ばかりだから人間関係の苦労がない。
子どもの私は、そんな華やかな世界とは違う、バリバリ昭和の田舎の学校という現実で生きて行かなければいけない。
その頃から、浮いた発言はしないようにしようはもちろん、なるべく目立たないように周囲と調和して生きて行く術を自分を守るために身につけていった。
親や、店の事も学校では聞かれれば答えるけど、自分からは何も話さなかった。
父もヒッピーの名残のような薄汚いロン毛に、魔法使いサリーちゃんのパパみたいな髭を生やしていて、とにかく学校の人達にその姿を見られたくなかったから授業参観のお知らせは封印していた。さすがに運動会は黙っているワケにはいかなかったけど。
思えば、あの当時の親のあの商売の隆盛ぶりに見合うような都内の私立の小学校に通っていたら、私自身もそれでマウント取ったとしたって、逆に皆から羨望の眼差しで見られていたかも知れないし、そんなに必要以上に気を使う事もなかったかも知れない。
親が普通でなかったけど、小さいうちはそれに気づかず、親の言っていることが全てだったからそれが普通の価値観だと思っていたけど、ある時期からいろんな人と関わって来ると、周りに比べてやっぱりうちの親なんかおかしくない?と疑問に感じ、それ以来普通であろうとして、普通ってなんなんだろう、どうやったらいいんだろうと常に考えていた。
もしかしたら少なくない数の人がその逆なのかも知れないけど(個性的であろうとして)。
普通でありたかった私はあの頃の普通の小学生なら皆夢中になったピンクレディも普通に大好きで、シングル発売日になると当時御宿まで行かないとなかったレコード屋さんへ行って、と行ってもひとりでは行けないから、そこも普通は親が行くけど親に依頼された従業員の人が車で送迎してくれて。
家に戻ったら、自分の部屋でそのレコードを聴くのが何よりの楽しみだった。
たまにお店のお客さんに、ミキちゃんはサーフィンやらないの?と聞かれたけどとにかく親の職業がイヤだったのでサーフィンなんてとんでもなかった。
その昭和の日々から50年近くが経ち、今のいすみ市は、元々は親がサーフィンしに来てその風土に惹かれて移住し、自動的にか強制的にか子どももサーフィンを始めるというパターンの家族がとても多いと聞く。
東京と千葉の生活のギャップもほとんどなくなり、農業を営む家も後継がいなかったりで減って、仕事だって縛りがなく色々と出来るようになり、それを他人もなんとも思わなくなって。
50年前に私が感じていたような葛藤や悩みはおそらく移住組の人達は持っていないだろうなと。現在は暗いところがまるでない、あっけらかんと明るいサーフタウンの土地になった。

ホテルカリフォルニア

神田から千葉へ越して来て、サーフボード作りは格段に捗るようになった。国道の角地に広大な土地を買い、オシャレなお店の奥にドアひとつ隔てて工場、その横に小上がりがあってその先が住居スペースとなっていた。建物の裏には、倉庫があり、倉庫の隣には蓋を開けると中がくり抜かれてその窪みに大人が平気で寝そべれるような大きな機械が置いてあった。それは原理としてはたい焼きを焼く型のようなもので、窪みの部分にボードの素となる材料・発泡ウレタンを流し込み、蓋をして何らかの力を加えてサーフボードの大元となるものを作るものだった。サーフボード製造には様々な工程があり、建物の中にあった住居横スペースの工場は店の入り口から倉庫がある裏までの間に部屋がいくつか区切られていて、その部屋で行う作業のための道具がそれぞれに用意されていた。まず巨大たいやき機で大元を作成するフォーム、その次は形を整えていくシェイプ、樹脂で周りを固めるグラッシング、固めた余分なものを削ってゆくサンディング、などなどの工程を経て1本のボードが出来上がる。学校から帰って工場に人がいない時に、工場の中を見て回るのが好きだった。常にシェイピングやサンディングで出る粉の埃っぽさがあったり、化学薬品の匂いが充満していても、そこは何か神聖な空間に感じた。工場の中は、巨大たい焼き機がある店の裏から入って段階的に完成に近づいてゆくそれぞれの部屋・多分4部屋に区切られていた。それぞれの部屋にはボードをその上に置いて作業するウマというものが設置されていたけどシェイプ室は1台しか作業出来ない作りになっていた。樹脂でラミネートする部屋では、作業時に垂れた液体が固まったものが一斗缶の中にさまざまな色のツララみたいに溢れていてキレイだった。
父はアメリカから帰国し、見よう見まね試行錯誤を重ねてサーフボード作りをしていたから、最初はひとりで全部の工程を行っていて、千葉へ越してそれなりに工場で働く人が増えてからもその人達に教えるのと、忙しかったから自分でも作業をずっと行っていた。最後のサンディングの作業では、グラッシングした後の樹脂が固まった部分を機械を使って滑らかに仕上げて行くのだけど、その際に出る粉塵が父の作業時の服に被って。あの当時忙しかったのと、元々性格が大雑把なところもあった母は、父のその粉塵まみれの作業着と普通の洋服を分けて洗濯するということをしなかったので、着るといつも服がチクチクとしていてそれが本当に不快だった。そしてあの頃は今みたいに高性能の服があちこちで売っておらず、染色の技術が今のように高度なものでなかったので、親がアメリカから輸入したサイケな色のTシャツとかも色落ちがひどく、私が小学校の頃着ていた元々は白い体操服はいつもピンクか水色になってしまっていた。自分のものだけならまだいいけど、こうして書きながら当番制だった給食の割烹着とかもチクチクしたり薄いピンクになってしまったりしていたんじゃないかと今更ながら心配になってしまった。
粉塵と化学薬品だらけの工場は、どの工程でも作業中は顔じゅうを覆う毒ガスマスクのようなものは必須アイテムだった。
たまに作業中の父や従業員の人を見かけると、皆粉塵で髪の毛が真っ白だった。
千葉へ越して、事業も急速に拡大していったため父ひとりで工程全部をこなすでは到底追いつかなくなり、人をそれなりの人数で雇って居候みたいな従業員というか修行生というかがいつも家に出入りしていて、住み込みの人もいたから夕ごはんも大体大人数だった。あの頃はネットも何もない中、大々的に募集をかけなくても全国から「ぜひ働かさせてください!」という人がひっきりなしに来ていたからそれはすごい事。だが店が忙しくなるにつれごはんの時間も遅くなるし、いつも家がワサワサしているのも落ち着かないし、とにかく普通の時間にごはんが食べられて穏やかに生活出来ている友達が羨ましかった。
1日の仕事を終えてお風呂に入ってから食事すればいいのに、とりあえず粉塵まみれのTシャツを脱いでごはんを食べるものだから、あの頃の夕ごはんの父の姿は上半身裸しか記憶がない。
家がそんなんで落ち着かなかったから、田舎の学校であってもプリンアラモードが通じなくても学校にいる間は楽しかった。学校であった事を話したいと思っても、いつも家族以外の誰かがいたし、それ以前に親は2人とも仕事が楽しすぎて、子どもの事には関心がなかったから話をしたところで聞いてもらえないというのがわかっていたので、食事の時もあまり喋らず、食べたらさっさと部屋に引きこもって好きな音楽に浸るのが楽しみだった。
家がワサワサ落ち着かないのはイヤだったけど、とにかく流行の波に乗っていたため洋楽などがすごい身近にありいち早く世界のヒットに触れることが出来ていたのは良かった。
住み込みの人の部屋とかが開いていて、ちらっと覗くとGOROの雑誌や海外のLPアルバムが置いてあり、ある日フリートウッドマックのモノクロ写真のLP盤ジャケットを見た時にはうわ、すごい大人の世界、、と見てはいけないものを見てしまった感がすごかった。
ピーターポールアンドマリーも一度聴いて好きになった。ベイシティローラーズなんかはすごい流行ったから、さすがの田舎の小学校でもファンの子はいたりしたけど、ピーターポールアンドマリーが好きな小学生はあの頃かなりレアだと思う。そして爆発的に流行ったといえば、イーグルス。
ホテルカリフォルニアのあの印象的なジャケットのLP盤ももちろん家にあり、何度も何度も聴いていて、ホテルカリフォルニアに関しては明星か平凡の歌本にも載っていて英語にカタカナのルビがふってあったように思う。
ユーキャン チェックアウト エニイタイム バット ユー キャン ネバー リーブ 🎶ウニウニウニ〜(ギターの音)🎶
部屋に閉じこもって、歌本と照らし合わせながら一生懸命英和辞典を引っ張って歌詞を訳していた。
何年か後に、カリフォルニアに留学してロサンゼルスへ父の知人を訪ねて遊びに行った時にホテルカリフォルニアのジャケット写真になったビバリーヒルズホテルのランチへ連れて行ってくれたのだけど、明るい時間なのもあってあの神秘的な感じはしなかった。
今でもあのイントロを聴くと、ロサンゼルスで見た実際のホテルではなく、自分の部屋で歌本に夢中になっていた自分の姿を思い出す。

青い珊瑚礁

あの頃、うちにはPOPEYEだけでなく流行の最先端の雑誌がいくつも献本で届いていた。そのおかげで歩いて自力で行ける書店がなくても、雑誌については不自由していなかったけど、それでもなかよし・りぼんの漫画とか明星とか平凡とかMCシスターとかは車を出してもらって上総一ノ宮にあったわりと大きな書店まで行き、手に入れていた。元々洋服が大好きだし、うちに届く雑誌や自分でゲットしたMCシスターを見ては『この服と着こなし素敵だな』と憧れるものの・・・小学校の頃はまだ、髪型が自由だったから三つ編みにしたりロングとは言わないまでも肩からちょっと長めで前髪も長めにして別に髪型で悩んだ事もなかった。それが・・・中学生になったら男子は丸坊主・女子は前髪は眉毛につかない、後ろは襟につかないようにという今の時代から見たら無茶苦茶な校則のため、ヘルメットみたいな髪型になり悲しいかなどんな洋服も似合わなくなってしまった。私の妹は元々ショートカットが似合う顔立ちで、同級生の中にもそういう人はいたけど、そうやってショートが似合う女の子以外は皆ヘルメットかモンチッチ。しかも一応学校の制服があったけれど、元々千葉がそういう土壌なのか、2学年先輩にあの当時から才覚を現していた増田明美がいたからか、学校全体でやたら運動に力を入れていて、運動の部活が盛んだったため通学も授業を受けるのも、運動部だからという理由でなく学校全体ほぼ全員体操服だったのだけど、その体操服が今みたいなジャージ素材でなく、ストレッチもない綿素材だったため洗えば色落ちしてどんどん縮む。さらに私の学年は変な緑色だったから色褪せると貧乏くさいことこの上ない。修学旅行で奈良京都へ行った時も、皆その体操服でウロウロしていたら他の学校の生徒に「なんだあいつら、カッコ悪い」と指さされゲラゲラ笑われたのが恥ずかしくてたまらなかった。
毎回の朝礼のたびに、校長先生が「皆さんも増田明美さんを見習って〜」という話をしていたのを覚えているけど、運動が大の苦手で図書室(まあいうて背表紙が陽に焼けてボロボロで読めない本ばかり・しかも種類が少ない・でショボかったけど)で本読んだりマンガ描いたりするのが好きだったインキャな自分は『なんで走るの大っ嫌いなのに増田明美のこと見習わなきゃいけないんだ』と心の中で毒づいていた。で、、何しろ、ヘルメット頭に色褪せた緑の体操服・胸元には自分の名前が縫い付けられていた・の格好の自分と当時お店に出入りしていた華やかでオシャレなサーファー彼女のお姉さんとの落差に落ち込むばかり。自己肯定感なんていうのは1ミリもなく、どんどんインキャになるばかりだった。
だからファッション雑誌でいいなと思う洋服があっても、『どうせこの髪型じゃあ』と諦めるしかなかった。
あの頃、ファラフォーセットというアメリカの女優が大人気で、うちに届いて来ていたJJも、登場するモデルさんも街角スナップの人達も皆ファラフォーセット風のボワーっとボリュームのあるゴージャスな髪型を真似て、それが心底羨ましかった。店に来るお客さんも一様にファラフォーセット風の茶色の髪をなびかせていた。私のヘルメット頭は真っ黒で頭皮にベタッとくっつき、風が吹いてもびくともなびかなかった。
ダサすぎる体操服に身を包んだ田舎の中学生の間でも、徐々にオシャレへの関心を持ち、POPEYEとかも読んでる人もいたりすると阿出川のお父さん連載ページ持ってるんだなというのがわかってしまったり。そんなオシャレへの淡い憧れを持つ男子も丸坊主のために夢は打ち砕かれてしまう。
とはいえ、相変わらず学校自体は別に嫌いではなく、行けば普通に友達と遊んだり、前述のように絵を描くのが好きだったから英語の宿題に自分のイラストを交えて発表したりするととても褒められて嬉しかった。
そうして田舎で平和な中学生活を送っている時、ある日突然すごいアイドルが現れた。
それまでのアイドルとは違ったホントに新しい時代のアイドル・松田聖子。
うちに届く雑誌の記事でのまだ初々しい姿を覚えているけど、当時流行ったハマトラファッションをしていた。ポロシャツにキュロットスカート、ハイソックスにはボンボンがついていてシューズはミハマ。
そして何より、あの印象的な髪型!
ああ、、ファラフォーセットに続いて、またしても自分は自分の理想とする髪型にすることが出来ないのか、、
日本中に大ブームを起こした聖子ちゃんカット。後続のアイドル・中森明菜も小泉今日子も、皆あの髪型だった。私も髪を伸ばして、パーマをかけて細かく段を入れてもらって、、どれも叶わぬ夢。
わかっていても、鏡に向かって顔の横の髪をいじって後ろに流してみたりしたけど完全な直毛の上に段もまったく入ってない(段を入れるのも禁止だった)だったから無駄な抵抗。
とにかく中学を卒業したら、髪を伸ばしてパーマをかける!!と、青い珊瑚礁を聴きながら誓ったのだった。
あの中学の頃のヘルメット頭が今でもトラウマで、絶対に髪は短くしない。

およげたいやきくん

学校から帰って、部屋で好きな音楽聴いたり漫画読んだり描いたりしていたり過ごしているとだいたいおつかいを頼まれる。
店から出てすぐのところに吉野肉店という肉屋さんがあって、その先に店主のおじさんがハクション大魔王にそっくりな、なんでも売ってるなかやというお店があった。
神田にいた頃は、店を閉めてから青山にあったユアーズという今思い出してもめちゃオシャレなスーパーへよく買い物に行っていた。今では珍しいものではないけれど、あの頃ショッピングカートなんて置いてあるお店が他になくて、カートに座らせてもらうのがすごく楽しみだったのを覚えている。スーパーというものがまだなくて、肉は肉屋、魚は魚屋、野菜果物は八百屋さんで買っていた時代。
神田にいた頃はユアーズ行ったり、上野も近かったから松坂屋があったりで食料品には不自由しなかったが、千葉へ越したら店の近くに買い物出来るお店があったのはまあ良かったけど、吉野肉店も豚肉と鶏肉しか扱ってなくて牛肉は時々千葉そごうまで買いに行っていた。お肉のおつかいついでにコロッケも買って来てと頼まれると、揚げたてのコロッケを家に帰る途中に包装紙から1個取り出し、ホクホクと食べ歩きするのが幸せなひとときだった。
コロッケは頬張るとじゃがいもの中に茶色いものが入っていて、私はその茶色いものがずっとひき肉だと思っていたのだけど、ある日それがじゃがいもの皮だったことを知り。肉に見せるためにじゃがいも皮ごと茹でて潰していたのか、皮にも栄養があると思いそうしていたのか、ただ皮剥きがめんどくさかったのか今となってはわからない。
ハクション大魔王がいるなかやは食料から文房具から日用品までいろいろなものが売っていて、そこにも揚げ物がケースの中に入れられて売っていたけど、閉まっている蓋の裏側、つまり揚げ物が入っているところにハエがピッタリとまっていたり、たまにお刺身も頼まれるとハクション(以下省略)が奥に行って魚を捌いて作ってくれるのだけどハクションの肩に毛足の長い猫が乗っかっていたり、糸こんにゃく買おうと手に取りずいぶん変わった色だなと思ったら腐ってたり、衛生面で完全アウトな感じだったけど、家族誰も体調崩したりしなかったから大丈夫だったんだろう。
ユアーズとなかやでは比べるものではないけれど、私はなかやも好きだった。友達同士でお小遣い持ってアイスのショーケース覗いて何にする?って選んで近くの神社の境内の階段に座って食べるのも楽しかった。
そのように、おやつはだいたいなかやで調達していたけど、あの頃は父方も母方もまだ祖父母が元気だったから、双方の祖母がかわるがわるたまに東京からお土産を持って訪ねて来てくれて、おやつもおばあちゃんが来るのも両方楽しみだった。
ここで少し、父方母方の祖父母について。父は大学を卒業出来なくてアメリカに追いやられたが、そもそもそんな発想や経済力を持っていた神田のおじいちゃんがすごい。当然というか、普通のお勤め人ではなく、戦後の混沌として生きていくのが精一杯、皆オシャレどころではなく、まだ和装が主だった時代に『これからは日本も洋装で身なりに気を配る時代が来る』と神田でネクタイ屋を始めたのだった。
それが大当たりして、大金持ちになり、神田に自社ビル含む広い土地を所有、従業員引き連れて社員旅行の模様も当時所持していた8ミリビデオに残っている。
私から見た神田のおじいちゃんはどことなく近寄りがたいのと趣味人のイメージ。日本舞踊とあと手品が大好きで親戚の集まりの時には手品を披露したりしていた。
神田のおじいちゃんは当時にしては背の高いスラッとしたイケメンで、ビジネスも成功、多趣味であったから女性にもモテたようだった。
神田のおじいちゃんとおばあちゃんは、子どもの私から見てもお似合いのカップルとは言い難いほど見た目も性格もタイプが違っていて、私が物心ついた頃にはすでに別居していた。近寄りがたかった神田のおじいちゃんとは対照的に、おばあちゃんはがらっぱちというか親しみやすい人で、神田にいた頃は学校が終わると自分の家じゃなくておばあちゃんの家に行っていた。神田のおじいちゃんは色々と多忙でおばあちゃんのことには構っていなくて、でもおばあちゃんが不自由しないだけのお金を渡していたからおばあちゃんの家にはよく三越の外商の人が来ていたと聞いた。確かに、神田のおばあちゃんの家にはいつもこたつの上に榮太郎の飴の缶があったのだけどその横に、無造作に大きな石がついた指輪が置いてあったりした。子どもだからわからなかったけど、相当高価なものだったのかも。
そして母方の祖父母は南千住で代々続く酒屋で、こちらはおじいちゃんもおばあちゃんも親しみやすい人達だった。
千住のおじいちゃんはとにかくハイカラなものが好きで、映画も邦画はしみったれていてイヤだ、と洋画専門。おじいちゃんと待ち合わせして映画(もちろん洋画)も何度か行き、今でも自分の映画好きはおじいちゃんの影響が大きいと思っている。
食べ物も魚より肉、ステーキが大好物だった。
千住のおばあちゃんはおとなしい人だったけど、旅行が好きで私が生まれてからまだ小さかった私を連れてあちこち行ってくれた。
元々、横浜の出身だったおばあちゃんは実家が生地に関係する仕事をしていたとかで、着物をたくさん持っていて私の七五三や成人式の時にも張り切って着物を用意してくれたし、洋服が見たいんだ、と言うと待ち合わせして買い物へ行って服もたくさん買ってくれた。
元町のフクゾーとか、銀座のファミリアとか。
というように、父方も母方もそれぞれ自営業の家系で、さらに親戚も皆自営業。
父に関しては、父の父が新しくネクタイという事業を始めたのと同じく、自分もサーフィンという未知の世界にチャレンジしてパイオニア精神を引き継いだかと。
そして、母方の祖父母も、自分の娘婿がそんな得体の知れないものを生業とすることに反対もしなかったのは自分達も自営業だったからというのはある、と考えられる。
で、神田も南千住も、おじいちゃんが単独で来た記憶はないけど、双方のおばあちゃんはそれぞれ単独で、お土産を持って千葉の田舎まで訪ねて来てくれた。
すごく印象に残っているのは、神田のおばあちゃんのお土産はいつも決まって舟和の芋羊羹とあんこ玉のセット、船橋屋の葛餅。
今みたいにネット注文とかないし、神田のおばあちゃんが買って来てくれるお土産は争奪戦になったけど、それに1番燃えていたのが父、、ある時、弟が舟和の芋羊羹をほとんどひとりで平らげてどこかへ遊びに行き、仕事がひと段落した父が冷蔵庫開けて舟和の箱にあんこ玉1個しか残っていないのを見つけて大激怒。弟の名前を大声で呼んでいるのを神田のおばあちゃんが見つけて「いい大人が何をやってるんだ、みっともない!」と父を一喝。父にそんな言い方出来るのは神田のおばあちゃんしかいないし、私は父にいつも叱られたり怒鳴られたりしていたからしょんぼりしている父を見て内心ざまあみろと思った。
神田から千葉へ越してしばらくして、およげ!たいやきくんという歌が社会現象的な大ヒットになり、その歌詞がサラリーマンの悲哀を歌っていると話題になり、あの歌詞が沁みたお勤め人の方も多かったと推測するが、あの頃はきっと、毎日同じことの繰り返しなんてことはなく、1日1日が新しい発見と出会いに溢れていただろう父には無縁の世界だったかと。
歌を聞くたびに、たい焼きが食べたくてたまらなくなったけど、当時いすみ市にはきんつばしか売っていなかった。

塀の中のイエスタディ

あの頃、父がPOPEYEを始めさまざまな雑誌で連載を持ち、そうでなくてもひっきりなしに取材の人が来ていて、とにかく日本の流行の最先端を走っていたわけだから関わっていた人達も一流の業界の人が多かった。
毎年、お正月には何百通という年賀状が届き、どれもデザインが凝っていてそれを見るのがお正月の楽しみだった。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった父は、いろんなところに顔が効き、当時外国人ミュージシャンの日本公演を一手に引き受けていたウドー音楽事務所にもバッチリだった。
私もなんだかんだ父には文句もあったし、家の職業も嫌いだったけど、ちゃっかりそれを利用して行きたいアーティストのコンサートがある時はおねだりしてチケットを取ってもらっていた。
忘れもしない、私が13歳の冬。
ポールマッカートニー&ウイングス来日のニュースが!!
もちろんリアル世代ではないけれど、その頃ビートルズは何枚かアルバムも持っていたし大好きだったからこれは絶対に行きたい!と父に頼みこんだらいとも簡単に前から4列目の席が取れて、チケットが送られて来た。そこで嬉しさのあまりに私は最大のミスを犯した。
あれほど、学校内で浮かぬように『普通』でいることを心がけていたのに、やはり子どもだから自慢したくなって「ポールマッカートニーのチケットが取れたんだ!」と吹聴してしまったのだ。
そして、、ポールマッカートニーが来日!という一報の後にまさかの『ポールマッカートニー逮捕!』のニュース・・・ええ〜〜〜?!
自分の目が信じられなかった。
そして翌日の学校の朝の会で私の担任が、
「ニュース見たか?麻薬所持で捕まったが、あんな毛唐のコンサートなんか行く奴は頭がおかしい」と・・・
明らかに私への当てつけだった。
あの田舎の中学校で、ポールマッカートニーのコンサートのチケットが入手出来るのなんかは私しかいない。担任は、噂によると自衛隊出身、昭和の封建制度ゴリゴリの老人男性で発言は男尊女卑は当たり前、自分の娘の事は思いっきり悪口言っていたけど息子はベタ褒め。気に入らない生徒には暴力・素手か竹刀。酒が大好きと言っていたけど、そのせいか白目が黄色く。細身でいつも青っぽいシャツにえんじ色のネクタイの先は2番目と3番目のボタンの間に入れていた。
さすがに私に対して言葉には出さなかったけど、私の事も内心はチャラチャラした元々毛唐の遊びを仕事にしている家でろくなもんじゃないと目の敵にしていたに違いない。あの中学校の好きな、部活を熱心にやるスポーツ得意な生徒でもなかったし。
しかし、毛唐、、今だったらイエローどころか一発レッドカードでしょう。即、教育員会に通報だけどあの当時は先生に逆らうとか口答えなんかはとんでもない事だった。
嬉しさのあまり、うっかり学校で喋ってしまったことを心から後悔した。
聞いた生徒の中には、面白く思ってなかった子もいただろうし、やっかみもあって
かなりの話題になっていたに違いない。
失敗した、、あれほど気をつけなければと思っていて、さらにあの担任だったらもっと注意深くならなければいけなかったのに。
それにしてもポールマッカートニーもなんだよ、、ったく、、
あの時、新聞を開いたら週刊誌の見出しになった『塀の中のイエスタディ』ってコピーを恨めしく覚えているし、送られて来たチケットが緑色で羽のイラスト・ウイングスだから・が描いてあったのも覚えてる。
そのチケットはもう見るのもイヤな気もしたけど、でも記念に取っておこうとしばらくは持っていたのだがいつの間にかなくし、毛唐事件以来、ビートルズもポールマッカートニーも聴かなくなった。
しかし、その2ヶ月後、あの皆の前で頭がおかしいと言われてから、悔しいのと恥ずかしいのとでどう振る舞っていいかわからなくずっと下を向きモヤモヤと鉛のように重たくなっていた気持ちがパーっと晴れたのがアバのコンサート。
また父からのウドー音楽事務所コネで最前列の席、キラキラしたアバのメンバーが手の届く位置で歌ってくれて最高だった。
あの時は、父と父の大学の同級生のカメラマンの人が一緒で、その人もすごい席で当時人気絶頂だったアバが聴けて大満足で嬉しそうだった。
ポールマッカートニーで痛い目にあったので、アバのコンサートはもう学校では喋らないで黙っていた。
そう言いながらも、なんとなく自分の中には自慢したいというワケでもないのだけどやはり言いたい気持ちが抑えられない事もあって、その一つがウオークマンだった。
自分専用のウオークマンを買ってもらって、初めて聴いたのがサザンオールスターズのタイニイバブルスというアルバムだったのだけど、その時の衝撃たるやすごかった。ごはんの時間も忘れて取り憑かれたように音楽を聴いていた。耳から脳が揺さぶられる感じというのか、なんとも形容し難い感動だった。
人間、極度に感動するとどうしても人に言いたくなるもので、、
また懲りもせず喋ってしまった。そしたらクラスの男子が貸して欲しいと言うから箱ごと快く貸してあげたら数日後、返してくれて「これすごいね」と。
あの頃、全校でウオークマン持っているのは自分ひとりだと思っていたけど、大人になってから同窓会とかでふたたび交流が出来た同級生で、「オレも持ってた!」という人がいて、そうだったんだ、と。
余談だけど、その同窓会の席で、毛唐発言のあの担任は晩年は家族からも嫌われて孤独な最期を迎えたと聞いた。
あの時代は私の担任だけでなく、ああいう先生は多かったし、家に帰って先生の事を悪く言っても、親からは「お前が悪い、先生の言う事を聞いておけ」と言われるだけだったから、そんなものなのかと思っていたけれど。
担任の事はイヤでたまらなかったけど、今のように親が率先して先生への批判をするのもなんだかなぁと思うし、、
あの担任が今の時代を見たらなんと言うか、ちょっと聞いてみたい気がする。

卒業写真

サーフィンみたいな、いわゆるレジャー産業を生業としている場合、人を遊ばせることでお金を得ているワケだから人が遊んでいる時こそが商売の掻き入れ時。
夏休みなんていうものは、最大の掻き入れ時であるから子どもの世話などしてられない!と、私と2歳違いの妹は毎年夏休みにはどこかへ追いやられていた。
弟とは7歳違いなので、正直、弟がどうしていたのかはわからない。
まだ小さいからさすがに親と一緒にいたのだと思うけど。
記憶にある追いやられ先は、大島。母方の祖父の親戚がいるとかで、小学校の間はほぼ毎年、夏休みにおじいちゃん率いる孫軍団(私と妹だけでなく、いとこも来ていた事があった気がする)で大島へ行っていた。そこら辺に実っているすももをもいで食べたらとんでもなく美味しかったこと、青い空、青い海に赤い椿(だと思うのだけど通常椿は冬〜春だから違う花だったのかも)の花がとても映えていたこと、まだ若かったおじいちゃんが船の上で皆を盛り上げていたこと、夜は蚊帳の中で寝るのだけどそこの家のお姉さんは違う部屋に寝ていて、ある夜偶然昼間はいつもきちんとしているお姉さんの無防備な寝姿を見てしまった時に、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気まずさを覚えたこと、、
大島の自然の中で過ごす夏休みはいつもきらめいていた。
私が中学生になる頃には、おじいちゃんも疲れたのか、または大島の親戚の人もそうそう面倒見れないと思ったのか、夏休みに大島へ行くことはなくなった。しかし相変わらずお店は忙しいし、ボードも後から後から作らないと追いつかない、という事で身近な親戚から今度は金にモノを言わせて夏季体験キャンプ的なものに強制的に参加させられ。妹は、テニスをするように仕向けられ、神和住純のテニス教室に通っていたからその合宿に。私はサーフィンはもちろん、陸のスポーツも大の苦手でスポーツしたいと思った事がないから、テニスも論外。しかし何を思ったか、あの頃家で音楽聴いたりマンガ描いてるのが幸せだっためちゃめちゃインドアな私だったのに、三浦雄一郎と行くカナダ大自然キャンプというものに人の意見も聞かず(それはいつものことだけど)に申し込まれて。しかし私も行けと言われれば行くしか仕方ない(ほかの人から見たらなんて贅沢なと思われるだろうけど)と、支度して出発の日に成田空港へ。集合場所へ行ったら、なんかこれ違うツアーなんじゃない?!三浦雄一郎とキャンプだからと、親が好日山荘とかでネルシャツだのヤッケだの登山靴だのリュックだの揃えて、その時の私の出たちはそのままエベレスト登山に行けるようなガチンコ山スタイル。そして髪型はヘルメット。ご丁寧に登山用の帽子まで。ところが集まっている子ども達を見たら、、えー、海水浴でも行くようなラフな格好じゃない!しかも足元ビーサン、、そして皆、同い年に見えないくらいに大人っぽいしオシャレだし髪型もファラフォーセット風になびいてる。男の子も皆、都会の子って空気がすごく。どうすんのよ、私、、と恥ずかしいのとほかの子は友達同士とか知り合いみたいに打ち解けているのに自分ひとり植村直己スタイルでどうしたらいいのかわからず。ふと、隣の親を見たら、ミキだけ格好が違うと、笑ってるし!これ、全部用意したのあんた達でしょう!しかもよく調べもしないで!と叫びそうになった。もう行きたくないくらいの気持ちになったけど、ここまで来たら行くしかない。そうは言っても子ども同士、いざ旅行へ出たら色々と話しも出来て面白かったけど、あの当時のカナダツアーなんてとんでもなくお金がかかっていたに違いない。
当然、参加していた子は小学生〜中学生だったけど、小学校から慶應、青山学院、公立でも昭和時代の名門・千代田区立番町小学校とか皆裕福な家庭の子しかいなかった。慶應の女の子はおとなしい子だったけど、おじいちゃんかお父さんがなんかとんでもなく有名な会社の社長なんだよとほかの子が言っていた。
私が仲良くなったのは、友達同士で参加していた女の子2人だったけど、同い年なのに原宿とかで遊びまくっているようだった。ひとりの方が成田空港で圧倒されたあのファラフォーセットの髪型の子で家がレコード屋さんと言っていて、音楽にもとても詳しかった。その子が、発売されたばかりのユーミンのアルバムを絶賛していて、へー、ユーミンか、、知らなかった、そんな大人の曲を聴いてるんだ!と。OLIVEというタイトルで、ジャケット写真もオシャレだった。
帰国してから、早速私もユーミンのアルバムを手に入れて、うん、これはいい!と聴きまくり、そこから遡って以前のアルバムも聴いて『卒業写真』は名曲だと感動した。
話はカナダキャンプへ戻って。あの時に、一緒に参加したあのメンバーの姿こそが本来の自分の姿だと。親は流行の最先端で、カッコいい雑誌に毎号登場して連載も持ってる。自分だって慶應はムリだけど、青山学院だったらもしかしたらアリだったかも知れないし、いやそんな甘い事言わなくてもちょっとした私立でもなんなら公立でも、都内の学校に通っていたら少なくともこのヘルメット頭はなかったのに。。あの時のメンバーは子どもながらに一様に、都会のオーラを纏っていた。
ホントなら自分だってそうだったのに、それなのに色褪せた緑の体操服着て、頭の中が思いっきり化石な今でいうハラスメントの担任に嫌がらせされて、、
それもこれも親のせいだ!自分達だけ最先端で子どもの事は置き去りだ!
なんて思いを抱えつつも、とりあえずカナダを楽しんだけど、実のところ三浦雄一郎ってキャンプのタイトルについていたからてっきり最初から終わりまで三浦さんの指導の元、思いっきり大自然の冒険を満喫するんだろうなと思っていたら三浦さんは一向に姿をあらわさず、ある日一瞬だけ来てみんなの前で講演みたいのだけしてすぐ帰って行った。
さらにキャンプと言いつつも、ほとんどの日程がホテル宿泊だったし、せいぜいちょっとした草原みたいなところを歩くくらいだったから、ガチンコの山靴なんかは全然必要なかった・・・重いし蒸れるし、脱ぎ履き大変だし。
自分の姿にコンプレックスは感じていたし、想像していたより自然と触れ合う時間もなかったけど、洗練された子ども達との異国での非日常生活は楽しかった(そりゃーお金かかってるしね)。
日本に帰って、何度かユーミンを教えてくれたレコード屋さんのファラフォーセットとその時カナダも一緒だった友達と何回か会って遊んだけど、今でも元気にしているだろうか。
親に邪魔者扱いされてあちこちと強制的に旅に出された夏休みも、あのカナダが最後だった気がする。
強制的ではあったけど今となればどれもいい思い出で、夏には特別な時間が流れていた。











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