係長のレジ袋

 係長が席を離れて廊下の片隅でスマホを真剣に見ていることが多くなった。最初はなんだろうと不思議だったけど、そのうちにもしかしたらパパ活?!なんて思うようになったり。それと同時に、午前や午後休も多くなり。そうして、夏の終わりの残暑が残る日々が過ぎてゆくある日、都心にもけっこう大きな台風が襲来。住宅の管理をしている職場としては、住宅に住む住民から雨漏りがしたとか、停電になったとか電話がバンバンかかって来るので事務係はその対応、技術係は実際に現地に行って様子を見たり通常の業務がほとんどこなせないほど多忙な1日になったのだけど、その日は係長終日休み。なんだろうという疑問から一体何をしているんだろう、いくらなんでも無責任じゃないか?というちょっと怒りを含んだ感情へと気持ちが変化して行った。
 その次の日は、朝から出勤した係長、
「ちょっとみんなに聞いて欲しい話があるんだ」
と。多分、私以外にも最近の係長の動向に不信感を持っていた人もいただろうから、みんななんだろうと顔を向けた。
「実は、この前の定期健康診断で引っかかって精密検査をしたら、膵臓がんが見つかって。これからどのように治療していくかっていう話を病院としたりして、休みがちで迷惑をかけてすまなかった。今後、抗がん剤治療が始まるからまた休みが多くなるので部長や課長とも話し合ってこれからのことを決めてゆきたい」
聞き終わって、熱心にスマホを見ていたのはパパ活なんじゃない?!なんて少しでも思った自分のことを猛烈に恥じた。でもその時は、私も膵臓がんと聞いて嫌な予感はしたものの、そこまで深刻だとは思っていなかった。と言うより、思いたくなかった、と言うべきか。
 20代が多い係内で、私はバブル時代も知っている(恩恵があったかどうかは別として)昭和世代、係長とは3歳しか違わないのもあったのと、私も係長も地元の祭りが盛んな地域出身・私は神田、係長は清澄白河、という共通点もあり、よくいろんな話しをした。係長は顔も含め全体が丸く、色白でツヤツヤとして付けひげを付けたらケンタッキーのカーネルサンダースのような親しみのわく風貌だった。スーツもドナルド・トランプスタイルのダブルの金ボタンがよく似合っていた。自分でも、なんの兆候も感じていなかったと言っていたし、とても重篤な病気を抱えている人には見えなかった。係長が膵臓がんになったことで、年が近い自分も他人事と思えず膵臓がんで検索してみたら膵臓がんはがんの中でも相当に厄介なものであるようだった。まず、発見が難しい。そしてたとえ早期発見であっても5年間の生存確率がほかのがんに比べて極端に低い。なので、外国では膵臓がんとわかった段階でもう抗がん剤の投与はしないというのが(もちろん、本人確認の上で)一般的らしい。しかし、係長が抗がん剤治療を選んだということと、最初の話では初期で発見されたと聞いたので抗がん剤でやっつけられれば大丈夫なのかなと考えていた。係長は昭和世代らしく、タバコもお酒も大好きでまだまったく病気の気配などなかった時に、世間の流れを受けて職場の喫煙ルームが撤廃されることになった際、どこでタバコ吸おうかな〜と思案していたから、
「この際、禁煙したらどうですか?」
と提案したら
「そのチョイスはないね」
と高らかに笑ったのを今でもハッキリ覚えている。
 それなりに長く生きていると、がんになったという話を自分の周りやまたはニュースでも聞くけれど、タバコを吸わなくても肺がん、お酒を飲まなくても肝臓がんになった人もいて、そうかと思うとタバコもお酒も大好きだけどずっと元気な人もいて。たまに同年代とそんな話題になると、罹患するというのは生活習慣病が明らかな原因と思われる場合は6〜7割くらい、あとの3〜4割は説明がつかないけど『運』で片付けるのもやるせないよね、、と。
 係長の抗がん治療が始まることになった。さすがの係長も、これを機にタバコもお酒もやめることにしたと宣言。三国志が大好きな係長は抗がん剤治療でしばらく入院しないといけないから、暇つぶしに三国志をまた読み直そう、と元気に言っていた。実際、係長はがんと診断されてからも、いつもとても元気だったのだけど今から思うと皆に心配をかけまいと気力を振り絞って元気に振る舞っていたんだろう。
「抗がん剤治療を始めると毛が抜けるから、アデランスにカツラも2つ頼んだんだ。1つだけだと汚れた時に困るから。それにしても今の技術はすごい、髪の色の具合まで丁寧に再現するから出来上がりが楽しみなんだ。とりあえず、カツラが出来るまではニット帽かぶることにするよ」
とニコニコと話していた。
 最初の抗がん剤治療終了し、退院後の出勤では以前と変わらない姿で髪の毛もふさふさしていたからそのことを伝えたら
「個人差があるみたいなんだよね、あまり抜けない人もいるみたいで。もしかしたらそっちなのかも」
と言っていて。しかし、その後からどんどん抜け始めてしまったようで、ニット帽をかぶって来るようになった。スーツにニット帽はちょっと違和感あったけど、本人はまんざらでもなかったようだった。
 秋の始まりに罹患したことを知らされ、退院してからも月に数回の通院はあって休みがちではあったけれど年末までは特に変わった様子もなく、平和に過ごせていたように見えた。ただ、以前は体型にピッタリとおさまって貫禄のあったダブルの金ボタンが、随分と余裕が出来て所在ない感じになったのと、パツパツだったズボンもユルユルになって来たのをベルトで締め上げる感じになっていた。本人はちょうどいいダイエットだと言っていたけど。
 そして新しい年が始まり、係長は変わらず出勤と通院を繰り返していた中、1月終わり頃から中国で何か新しいウイルスが発見されたようだ、とニュースに流れるようになり。3月、まさかこんなに長引く事態になるとは・世界が日常がこんなにも変わるとは誰も予想しなかったコロナの日々のスタート。係長が通勤に使っている電車は、積極的に換気をしてくれないから心配だということで、電車が空いている時間帯に出勤、早退するようになった。その頃はもうニット帽ではなく、カツラになっていて、いつかは
「今日は仕事帰りにアデランスに寄ってカツラのシャンプーやブラッシングの仕方を教わるんだ」
と嬉しそうに言っていた。係長が最初に言っていたように、確かに(高いだけあって?!)よく出来ているカツラで、とても自然に見えた。係長は、自分自身が大変な病気なのに
「コロナがあっておふくろの入院している病院へ行けない」
と、東京郊外の病院に入院しているお母さんのことの方をいつも心配していた。
 私はお昼休みは一度は外の空気を吸いたいと思う方なので、お天気がよほどひどい日を除いては外に食べに行ったり、季節が良い時は持参したお弁当を近所の公園で食べたりがお昼の時間の過ごし方で。そんなある日、外でお昼を食べて職場に戻る途中に公園の脇を通ってふと公園の方を見たら公園の石段に座っている係長の後ろ姿を発見した。頭を下げて背中を丸めていたからカツラの襟足が浮いていて、その時の後ろ姿が、いつも職場で見ている元気な姿とはまるで違って頼りなさげで儚く見えた。頭を下げていたのは、おそらくスマホを見ていたのだと思う。スマホで、膵臓がんについてのありとあらゆる検索をかけていたんじゃないかと。少しでも希望の持てる情報を探していたんじゃないかと。その時の後ろ姿の残像はいつまでも脳裏に焼き付いていた。勝手な推測だけど、あの後ろ姿が本来の係長だったんだろう。
 職場では、変わらず明るく振る舞っていた係長、お昼休みに何を食べに行くか?といつも楽しみにしていたから、食べられるってことは元気なことなんだと安心していた。係長おすすめのブラジル料理のシュラスコのお店に皆でランチに行った時も、美味しい美味しいと食べていて、その後職場へ戻る時もご機嫌で突然突風が吹いて来たら
「カツラが飛んじゃう!」
とカツラを抑えておどけていた。そのお店が本当に美味しくて、ランチはリーズナブルな価格なので、コロナで学校と仕事が休みになっていた娘と息子を誘って昼休みに待ち合わせしてお店へ行ったら、その時も係長が若手職員と来ていた。本当にあのお店が気に入っていたんだと思う。
 新しい年が明け、春にコロナ騒動が始まり、緊急事態宣言が発令されて1年で一番いい時期なのに誰もどこにも出かけられないゴールデンウイーク、そして6月になり一旦コロナがおさまったかに見え、皆の気持ちもちょっとほぐれかけて来た、いかにも6月らしくジメジメと蒸し暑かった日、課長の声掛けで少人数で飲みに行くことになり。店は、係長行きつけの寿司屋。一番最初に係長とこの寿司屋へ来た時は、膵臓がんもコロナも何にもなくてたくさんの人数でワイワイ、係長も次から次へとお酒を飲んでゲラゲラと笑い、豪快という言葉がぴったりだったけど、この日はもうお酒もやめていて、大笑いもしてなかったけどそれでもニコニコとしてちょこんと椅子に座っていた。抗がん剤治療が完全に終わったらお酒を再開すると言っていたけどその完全っていつなんだか誰も聞けずにいた。帰り際に
「やっぱりみんなで飲むのは楽しいね」
と自分は飲めていないのに静かに笑って言っていたのが印象的だった。
 この頃のある日、係長が
「抗がん剤の影響なのか、すごく足が痺れるんだ」
と、不調を口に出したことがなかったのに。よほどなんだな、と思って
「ご無理なさらずに帰られたらどうですか?」
と伝えたら、
「あまり悪化しないうちに帰らせてもらう」
と、足をさすりながら帰って行ったのがとても痛々しかった。
 それからしばらく経った日の朝会で、ちょっとみんな集まってくれる?と係長。
「再検査の結果、あと1年生きられる確率が50%って言われちゃった。頑張んなきゃね」
皆、俯いて顔を上げられずにいた。私は、コロナになってからマスク着用が嫌でしょうがなかったけど、この時ばかりはマスクをしていて、涙がごまかせて良かった、とマスクに感謝した。まさかそんなに悪かったとは、、1回目の抗がん治療でほぼやっつけられたって言ってなかったっけ?元気そうなのに?といろんな思いがグルグル回って、とても仕事に集中出来そうになかった。そのちょっと前から、係長は休みになるととにかく歩いてる、という話をしていた。2〜3駅くらい歩いた、と。そして食べることが大好きだから、歩いた先で美味しいお店を探して食べるんだ、と。月に数回の抗がん剤治療を終えた後も、自分へのご褒美として美味しいもの食べるんだ、とも言っていた。今から思えば、係長は最初から自分がもうそんなに長く生きられない、ってわかっていたのかも知れない。だけど、多分、そんなの認めたくないし、どんなに不安でたまらなかったことだろう。歩いて歩いて、不安をかき消していたのか、それともただ単に本当に歩くことが楽しくなったのかわからないけど、じっとしていたら不安で押し潰されそうになってしまっていても経ってもいられなかったんじゃないか。係長はうなぎが好きだったので、美味しいうなぎのお店知ってる?と聞かれたから、白金の野田岩はとても美味しいですよ、というのと行ったことはないけど南千住の尾花は有名ですよね、という話をしたら歩いて尾花へ行って、おそらく今までの人生で払ったことのない金額をひとりで食べたのに払った、と笑って報告してくれた。
「今度は野田岩へ行ってみるね」
と言っていたけど、それは結局、叶わなかった。
 朝会での報告の後、また新たな抗がん剤治療開始のため、しばらく休むと言っていたけど、梅雨が終わって暑い夏が来ても係長は来なかった。しかし、ある日曜日、誰もいない職場へ来て自分の机にたまっていた書類を片付けて行ったと聞き、ここまで来られるくらいには元気なんだ、と少し安心していた。
 そしてその後もいつもと変わらず粛々と仕事をしていた夏の日、突然課長が係のシマへ飛んで来て
「係長が亡くなった!」
と。
 一瞬、頭の中が真っ白になった。皆、気持ち的にはもう仕事どころではなくなってしまった。聞けば、コロナもあって家族とも最後まで面会出来ず、ひとりだったと。コロナで大勢ではお通夜に行けないということで、代表の人に行ってもらうことになったのでお香典だけ渡して。
 後日、係長の奥様と娘さんが係長の荷物を受け取りに来ると言うので、その前に私ともうひとりの職員さんとで係長の机の整理をすることに。あと2年で定年退職、この場所で数十年を過ごして来た係長の机はその数十年の思い出がパンパンに詰まっていた。まだ社員旅行が大々的に行われていた時代のものと思える写真の数々が、当時フィルムを現像に出すと付いて来たフジフィルムなどのミニアルバムにおさめられていたのを見つけた時には、係長、若っ!と盛り上り、そのほかにもコマゴマとした文房具、職場で履く用の靴、作業着、そしてバンドエイドや頭痛薬、、机の上には係長が好きだった三国志とくまモン、そして相撲も好きだったのでご贔屓だった安美錦のイラストのフィギュア、、若い職員さんと一緒に時には笑いながら、時にはしんみりと片付けをしていたら
「わ、これ係長らしーわー!」
と取り上げた袋に入っていたのが几帳面に三角に畳まれた膨大なレジ袋。係長は毎朝、紙パックのお茶を買って来ていてその時のレジ袋を大切に保管していたのだ。「係長A型だから」
「レジ袋はクシャクシャって丸めてしばるくらいっスよねー」
と、0型の我々2人は納得の笑い。
あまりにもいろいろなものがありすぎて、お家の方に全部持って行ってもらうのも大変かもと言いつつ、分ける判断も出来ないのでとりあえず段ボールに詰めて全部持って帰っていただくことに。レジ袋は、職場に残して皆で使おう、ということになった。
 お通夜には行けなかったけれど、その後場所を教えてもらって係長のお墓参りへ行った。真新しいお墓の前に立っても、まだ実感がわかなかった。年齢的に、父方も母方ももう祖父母は亡くなっているし、それ以外にもお通夜やお葬式へも行き、そこまで足を運ぶことがなくても知っていた人の訃報を聞いたりということはあっても、1日何時間も目の前で、ある意味家族より長い時間一緒にその場にいて同じ空気を吸っていた人がある日突然の病気宣告、そしてその過程を見ていくということは初めての経験だったのでショックが大きかった。
 娘と息子にも、あのコロナで休みの時ランチしたシュラスコのお店にいた係長が亡くなった、と伝えたら
「え、あのおじさん?!」
と病気のことは私が話していたから知っていたけど、その時に顔を見ているだけに少なからずショックを受けたようだった。
 係長が亡くなってしばらくして新しい派遣の人が来て、コロナもまた波が来たりしてなんだかワサワサしているうちに年末が近づいて来た。職場も大掃除とはいかないまでも、軽く片付けの途中にコーヒーメーカーなどが置いてある棚の下から、あの時皆で使おうと言っていた係長のレジ袋が出て来た。棚の下にしまいこんで、すっかり忘れてしまっていた。これ、どうしましょうか?と聞いたら、
「見つけた人がもう持って帰っていいよ、きっとみんな使わないし」
と言ってくれたので持って帰って来た。レジ袋が有料になったけど、生ゴミを捨てる時とかに不便だから毎回でなくても買っていたから、とても助かった。係長のレジ袋を使う時は、まず几帳面に折ってある三角形をほぐすところからなので、その作業をするたび、公園の石段に座っていた儚げな後ろ姿や、休みの日にひたすら歩いていたと言っていたこと、最後になった飲み会の時にみんなで飲むのは楽しいね、と静かに笑った係長のことなどをレジ袋の数だけ思い出した。




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