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宗教とイノベーション ー世界の起業家が注目する"心"の伝統ー

第6回公開研究会
日時:2020年11月16日 18:30-20:30
講師:松山 大耕 氏(妙心寺退蔵院副住職)
   田中 朋清 氏(石清水八幡宮権宮司)
   小原 克博 氏(同志社大学神学部教授)
於:妙心寺退蔵院よりYouTube Live配信

 第6回公開研究会では、京都における仏教、神道、キリスト教の実践者および研究者である松山氏、田中氏、小原氏をお招きして、講演と、パネルディスカッションを行った。

松山氏講演『持続的経営と不動心』

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長く愛される組織の作り方
 妙心寺は臨済宗禅宗の総本山で、創建当初はボロボロの東屋が3つあったのみであった。当時は和尚さんとお弟子さん3人しかいなかった。そこから現代の姿になるまでの教えを象徴しているエピソードがある。

ある、大雨の日に、天井から雨漏りしてきた。和尚さんに呼ばれた際、一人の弟子は手に持っていた笊をもってかけつけ、もう一人は少しして鍋を持ってきた。和尚さんは鍋を持ってきた弟子を大層叱った。

 これは、困っている人がいたらすぐに動けという教えであり、雨水を捕まえることと、人の心をつかまえるのは別だということを示している。困っている人がいたり、助けを必要な人がいたらすぐに駆けつける。理論ではなく行動を重視することが禅の特徴であり、禅が長きに渡って愛されてきた秘訣である。

 現代のお寺は冠婚葬祭で収入を得るものと一般的に考えられているが、お釈迦様は僧侶は葬式に関わらなくてもよいという立場であり、江戸時代以前はお葬式を上げてもらえるのは武士や高僧だけであった。特権階級の寺から民衆の寺へ代わるまでの間、江戸時代の寺はマイクロファイナンスをやっていた。京都の和菓子屋に資金を供給していた証書も残っている。古くから寺の役割は社会に安心を与えることだった。昔はご先祖様を寺に預けることが安心につながっていたが、現代ではそれが不安や不満に繋がっている。

不動心の感覚
 禅の教えで不動心という言葉がある。沢庵和尚が最初に使ったもので、当初は不動知といわれており、常にフレキシブルであれ、というのがその教えであった。不動心とは動かないということではなく、自分の位置(軸)に留まるために動き続けること、つまり動的均衡を可能にすることである。寺にとって、その軸は、社会に安心を与えること、人を育てることである。不動心や持続的な考え方を持って時代の要請に答え動き続ける事、これが企業にも共通して言えることではないか。

田中氏講演『京都文化学に見る産業と信仰との深イイ関係』

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 京都は日本を代表する伝統と格式を持ち、常に時代の最先端を行く文化・芸術・技術・流行の中心地・発信基地であった。京都には100年以上続いている日本の伝統産業の多くが存在している。

 京都の伝統工芸品産業が100年続いた理由として、都としての機能をもっていたこと、民の幸せや社会の安泰の祈りを捧げる国家的儀礼都市としての京都の役割が上げられる。そのため、神社や仏閣と密接に関連する産業が集積しているのが特徴的である。

京都では伝統工芸品産業の多くが、朝廷や神社仏閣が平安や安泰の祈りをささげる祭祀・儀礼に関連している。すべての産業には、代々受け継がれてきた誇りと共に、常に極限までこだわった高い倫理や道徳、徹底した美と品質は、さらには安定的継承が追求され続けてきたのである。
                      田中氏講演スライドより


 伝統の継承に際して、神仏に対する平安・安泰の祈りと、これまでの先人たちの御蔭に対する感謝の心が意識されてきた結果、モノやコトの本質を捉えた温故地心が重ねられてきた。担い手の一人一人はリレーの中継ぎ走者である。

長い時間軸における繋ぎ手としての自らの立ち位置や役割を自覚すると共に、必ずそのことをやり遂げるという強い「心の柱」をもつことが、100年続くホンマもんの経営にとって最も大切なことではないだろうか。

小原氏講演『つなぐ力と切る力─人類史に見る集団と個の力学』

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宗教とは?-ホモ・サピエンスは世界をどのように見てきたのか?ー
 人類は言語を獲得し、シンボリズムを使用することで、虚構を作り出すことができるようになった、その能力によって、見えないのものを創造することができる。人間は自分の親しい人が動かなくなった時、死を認識すると同時に別の世界がある事を想像する。生者と死者を「つなぐ力」それが宗教の原型である。

 目に見えないものを作り出す=虚構を生み出す力とはイノベーションの原動力であり、その表れの一つである宗教は、虚構を集団で共有することによって世代を超えて記憶を継承し、個と個を結びつけ、生存の基盤(共同の物語)となった。

伝統と組織の刷新
 100年続くが研究会のテーマになっているが、人間が作り出した文明、帝国、企業は持続せず、組織も同様である。一方で宗教は1000年単位で持続している。宗教の持続性にとっては、変化(刷新)と原点回帰がキーワードである。キリスト教の宗教改革においては、形骸化しメタボ化した組織からムダをそぎ落とし、エッセンスを明確にした上で、誰でもアクセス可能な「オープン・システム」を再構築し、原点に立ち返ろうとした。これは長く続く宗教に共通のプロセスである。

集団主義と個人主義
 日本の教育の基調には集団主義があり、戦後は個人主義化が進んだが、かならずしも個の強度が強いとは言えない。戦後教育では個人と共同体を適切に関係づけることに失敗してきたため、何のために学ぶのか意識されていないのではないか。

宗教に何を見るか
 イエス・キリストは聖書(マタイの福音書)のなかで「私は平和ではなく、剣をもたらすために来た。家族ではなく、私を愛せよ。 (著者意訳)」と述べ、家族にとらわれることなく、イエス(社会)につながることを促した。現代社会において、人々は他者の欲望を模倣し、AIによる最適化技術もあいまって、自分で判断するということをしなくなっている。この状況において、宗教は外部から見る力(切る力(disjunctive power))提供できると考える。一方では、つなぐ力(conjunctive power)も併せ持っており、イノベーションやCSV(Creating Shared Value)を生み出すための基盤としても見る事ができる。

パネルディスカッション

パネラー:松山氏、田中氏、小原氏、竹林一(京都大学経営管理大学院 客員教授)、山本光世(京都大学経営管理大学院 客員教授)

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Q. 我々は何者か?:なぜいま宗教なのか

松山:昨今、様々な新技術が出てきているが、それが社会にとっていいものか開発した当人にもわからない。(例:iPS細胞など)。その倫理的・道徳的基準を伝統や宗教に求めている面があるのではないか。

田中:いまの日本社会においては、物質的な豊かさは獲得したものの、精神的な豊かさ(みんなが幸せに生きる事を追求する知恵)は見出すのが難しく、それが宗教に求められている。コロナによって、物質中心の経済・政治が無力を呈したいま、心の平安や人と人のつながりが求められている。

小原:今日では、宗教の持つつなぐ力がやっかいな物として見られていることも多く、拒否感のほうが大きい。海外ではマインドフルネスとして取り入れられている一方、日本では少数派である。むしろ、儀式や漫画・映画のストーリによって、日常的に触れているところが多い。

山本:弊社ではJOHNANの”らしさ”研究をしているが、過去の資料を読み解くなかで自分自身と向き合うことができたし、創業者の姿勢からは宗教的なものとの対話が見られた。

Q. 我々はどこにいるのか:ほんまもんの価値、持続性と多様性とは?ガバナンスを守るための多様性、イノベーションのための多様性、持続性のための多様性があると思うがどうか?

小原:日本は多様性を欠いており、ジェンダーバランスの点でも遅れている。外のものに触れる作法が身についていない。多様性の人類史的な根拠は、多様性を保持しつつ生命力を維持してきた宗教に見ることができ、企業にも当てはまるのではないか。

山本:試作ネットの次を考える活動を通じて、40社の所属企業との対話をしながら多様性の繋ぎ直しをしている。

松山:イスラエルの起業家は持続すること考えていないが、日本人はどうか?グローバルで活躍できる人材が多すぎる組織は日本では持続できない(多様性やイノベーションをどの程度推進するかは、会社のビジョンによる)。

小原:同志社が京都に来た当初は排撃集会が毎週開催されていた。時間と葛藤をへて定着していく懐の深さが京都にはある。


Q. 我々はどこにいくのか:京都から発信する価値とは?

松山:急激なグローバル化の裏側に不安がある。不安と興奮のローラーコースターではない哲学を世界は求めているのでは?

小原:京都の宗教文化はこれまで通り発信すべきである。一方で、京都の文化とのつながりを切る気構えで、再解釈していくことが必要だ。

田中:京都の人が思っている以上に、価値で溢れている。我々自身が学び直し、価値を再確認し体現・発信することで、100年・1000年つづく企業像というものが見えてくるのではないか。


Ⓒ京都ものづくりバレー構想の研究と推進(JOHNAN)講座, Shutaro Namiki(Licensed under CC BY NC 4.0)

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