見出し画像

瞬間的エッセイ1

知識や経験から学べば学ぶほど、逆行するか
のように"無"へ近くなる感覚(境地というべきか)に憧れる。
適度に自分を捨てて、適度に相手を受け入れる。
そして私と他人とそれ以外の何かに操作されている(導かれる)かのように、とても離れた所から芸術に支えるような領域に憧れる。
そのいい匂いのする融合体とは反対に、利己的すぎるなと言われるような、臭みのある人間だからこそ表現できるバカバカしさ、哀しさ、恥ずかしさも、周りから羞恥心を共感されながらも、人の本質を見せつけてくるアクの結晶のような人にも憧れる。
そんな緩やかな対立があるなか、思うこと。

なんだか世の中的には、主観で塗りつぶされた表現物(活字でも)や自然な情動、人間の欲望に対してのシケの反応があまりに理性的すぎるような気がして生きずらい。
まるで、過去の幼稚な自分が恥ずかしいかのように、脚気のように原始的なものを嘲り、隠してしまうような集合的で傾いた世界。

結局のところは、それぞれが執心深く謳い奉りあげる"美的感覚の神"たる存在は、それぞれの思想の痼のようなものとなって表現に成りうるので、虚無僧のように冷静であろうが、はたまた、知らぬが仏のように自己的だろうが、まぁ創作になるんですけどね。
でも、時にはそれが血栓のようになって、自分の表現の脈絡を止めてしまうこともある、ということを忘れてはならないですよね。

恥ずかしくったって、汚くったって別にいいじゃん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?