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瞬間的エッセイ3

先入観なしに、音楽・音を聴くことの難しさ

音楽をアカデミック(=学問的に)に勉強することで、作品の中で綴られた音それぞれの有機性、つまり一つの細胞(モチーフ)が枝分かれし関連・発展していくさまを認識することができるようになる。

けれど、その学習の先には大きな壁がある。

蓄積された形式(=客観的美意識)の強固なフィルターをいかに取り払い、自分の見たいもの又は聴きたいもの”以外”のものに強い意識を向けることができるかどうか。
これがとてもとても難しい。

例えば、小さな子供や精神病患者の描く絵、作り出す音楽、詞や文学など、芸術の学術的な集団から離れたところで表現する、アウトサイダーアートの持つ激しい芸術性は、理性や慣習を超えて人間本来の表現欲求をまざまざと表出している。
そこから得られるもののエネルギーたるや、想像を超えるものがある。
アカデミズムに汚染(?笑)されながらも、彼・彼女らのように、いかに意識の外で内的知覚(音楽なら聴覚)を発動させられるかどうかが、私の試練だと思う。



《"こうあるべき"からの脱却》

先日、音楽療法の授業で、あるビデオを観た。
発達障害を持つ、7歳くらいの男児に対して音楽を介してコミュニケーションするという場面。
セラピストとクライエントとの即興演奏でのセッションである。
Hello,とか、男の子の名前であるSimon,という言葉に、即興的にいろんなヴァリエーションで音をつけた単純なものだった。
けれど、これまで感じたことのない、超・音楽的な印象を受けた。
(アカデミズムを超えたNatureなもの。それとしか言いようが無い。)
理性の範疇をこえた生々しい一対一の発想に、特別な感情を刺激されたのである。
美術に於いても、最近同じ体験をした。
ちょうどいま、東京ステーションギャラリーでやっている、アドルフ・ヴェルフリの作品群は固定的な美意識やアカデミズムとは無縁の、人間本来の表現を感じ取ることができる。
彼は、精神的疾患から罪を犯し、人生の後半を精神病棟で過ごした。
そんなヴェルフリの作品群を目の当たりにしたとき、一番強く感じたことは、”情報量の多さ”だった。
展示されている作品のすべてに於いて、キャンバスの空間にたくさんの情報が敷き詰められているのだ。
なんというか…、
空間を徹底的に埋めなければならない!という切迫した感じ。
会話で言えば、
沈黙が怖くてひたすら話し続ける…といったような。
一言でいえば排泄物に近いものを感じる。
意味はないけど、あるだけ全部発していく、放出していく、ともいうべきか…
まさに垂れ流す…、
というような、とにかくそんな印象。

でもそれが生来人間に備わっている表現欲求の至極自然な姿、なのではないかと。

興味深いことに、即興演奏においても、同じ現象が起きていることに気づいた。
アカデミックに勉強していないプレイヤーのアドリブは音を網羅的に演奏し続ける傾向にある。ただただ連ねるばかり。そこにはフレーズ感や、音楽修辞学の概念が全く無い。
”無”が怖いのだ。
とにかく敷き詰められた音の絨毯。
でも、時折思いもつかないフレーズを奏でたりすることがある。
理性を超えた発想。
それが究極のアウトプットであり、究極の芸術産物だと思う。

プロのジャズプレイヤーは、垂直的な和音感覚と水平的な和声進行のもと、即興ではあるが極めて論理的な発想でアドリブをしている。
(とはいえ、直感的なこころのプロセスも伴うのだが)
そんな、いちジャズプレイヤーである私からみたその映像や絵画作品は、とてもショッキングなものでありながらも、美意識を根源から揺さぶるようなものだった。

表現されるもの・ことには表現者と観客のそれぞれ主観的・客観的な空間(ギャップ)があり、その間合いを芸術家は表現の対象にしていると思う。
時代によっては、その差異が狭ければ狭いほど金になり、広ければ広いほど物議を醸し味わい深いものになるんでしょか(笑)

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