自己紹介
はじめまして。DVサバイバーのkumiです。
「許すまじ! 今のこの気持ちを忘れない! 絶対!」私は虹色に輝くスカイツリーを見ながら心に誓った。2年前の事だ。今私の部屋からは葉を落としたケヤキの木立の間から新宿のドコモタワーが見えている。
夫56才、私55才。結婚35年目の決断だった。
私たちは21才と20才で早くに結婚した。若気の至りとは言いたくはない。しかしまあ、勢いがあったとはいえると思う。
私の病室からはスカイツリーがよく見えた。
この病院に入院したのは腰を悪くし、歩くのも困難になってしまったから。病名は腰椎すべり症&脊柱管狭窄症だ。本屋などで「自分で治す脊柱管狭窄症」とかなんとかよく見るけれど、もうそんなことは考えられないくらい日々の生活に支障が出ていた。それでもなお検査を渋る私が、娘の強い強い勧めで大学病院を受診し、外科的治療を選んだのだ。
手術は予定時間をだいぶ過ぎたが、問題なく終わり、術後の経過も悪くなく一日のICU生活を経て自分の病室に戻った。術後3日めの夜、面会から自宅に帰った夫からlineが来た。
内容は、息子が孫を連れて遊びに来たけれど孫の世話を自分に丸投げして昼寝していたというもの。ちなみにお嫁さんは仕事で不在。
子供の世話をせず昼寝なんて、夫自らいつもしていたことにもかかわらず、それに腹が立ったらしい。
昔から子供本人に言わず私に言わせる人だった。
その日私は術後3日目。まだ全然思うように動けないし、傷も痛かった。痛いとそれ以外考えることもままならないものだ。だから「傷が痛いので、明日返事するね。」とだけ送った。
そうしたら、驚くことに「君は昔からそうだった。子供に意見することなく、子供と一緒になって俺の事を貶めるようなことばかり言ったりやったりしてきたよね、それ以外にも$%&‘#&%云々」の返事がきた。こんなに弱ってる私に今、言うの?という気持ちしかなかった。
もちろん返信はしなかった。なぜなら怖いからだ。その後も夫からの攻撃の手は緩まず言いたい放題(lineだから書きたい放題?)言って、しまいには一方的に「もういいです!!」と逆切れされた。
この逆切れはいつものことだが、心身ともに弱っている私は、ショックと怖さで眠れず朝を迎えた。
朝になっても涙が止まらない状態が続いていた。朝の検温に来た看護師さんに「夫からlineがきてから涙が止まらないんです。」と現状を訴えた。看護師さんは、泣きながら、つっかえつっかえ話す私の話を、ベッドサイドにかがんで私の気が済むまで聞いてくれた。それから「精神科の先生にお話し聞いてもらえるようにしましょうね」とすぐに、主治医に連絡を取ってくれ、精神科の先生と面談となった。
精神科先生も私のこれまでの家庭の状況から今回の事に至るまで1時間ほども時間を取ってくれた。そして「精神状態がとてもよくないから、原因は取り除いた方がいいですね。面会禁止にしましょう」と、家族に来ないように言うことを私に勧めた。
でも、自分で連絡することは怖かったので、できれば先生に言い渡しほしいと思っていたのだ。
しかし先生が、私がそれを言うことは好ましくない。家族には自分で連絡する方が今後のために良い。とおっしゃった。
少し突き放された気持ちになったが、連絡のあとすぐに電源を切って遮断することをアドバイスされ、勇気を振り絞ってlineをした。
この何気ないLineにショックと怖さを感じること、夫からの返信が怖いという気持ちがDV被害なのだ。しかし、「え~?それDV?」と思う方々がいることと思う。DV被害というと、殴る蹴るされることが真っ先に思い浮かぶと思う。かくいう私もそうだった。
普段から、いつ地雷を踏むかと、夫といることに安心感がなかった。
あれこれ試してやっとのことで相談機関につながり、そしてこれもやっとのことで心を開くことができたカウンセラーに、「あなたそれDVよ」と言われた時「は? 私が?」という感想だったし実際「いやいや違いますよ~」とも言った。
挙句の果て「だって夫は優しい時もあるんですよ」「私が夫を怒らせてしまうんです」「悪い人じゃないんです」と言った。
この三つのセリフに思いあたる方は、『なんだかよくわからないけれど、とても苦しく安心できない』生活をしていると思う。
私には分かる。まさしく自分がそうだったからだ。自分さえ我慢すれば家庭はうまくいく。この生活が続いていくと思っていた。
なぜ『なんだかよくわからないけれどとても苦しく安心できない』のか。それは夫の支配によって知らず知らず自分で考える力や、自分の感情を削られているからだ。自分は今悲しいのか、悔しいのか、それはなぜか。どんどん分からなくなっていた。
そしてそれは自信の喪失にもつながっていた。好ましくないことが起きた時、なんでも自分のせいだと思えたり、自分を主張できなくなっていた。なぜなら主張したことが失敗すると必要以上に責められ、ますます自信がなくなるからだ。
手術の必要なくらいひどい病気でも大きな病院で検査することは自分には過ぎたことのように感じてしまう。娘に強く勧められてもなお、自分がそんな価値がないように思ってしまう。どんどん自分で自分の価値を落としていく。
それに加えて自分がDV被害者と認めることを『拒んで』いることも苦しさを増す原因だ。
なぜ拒むのか。
それは、自分のこれまでのやり方を自分で否定するのはとても勇気のいることだからだ。
私も自分一人ではできなかっただろう。
私は多くの人の手を借りたし、多くの物の力を借りた。
本やネット、相談機関で多くの知識を身につけた。
そして、地域の女性相談員、カウンセラー、DV被害者グループの仲間たちとともに自分を見つめなおし、考え方を変えていった。
一番大切なのは、つながりを持った人が私を、それでいい、その考え方でいい、と肯定してくれること。私の考えを尊重し、寄り添ってくれること。
今はやりの自己肯定感は必要ない。他者からの肯定がなんといってもDV被害者には必要であり、それが癒しなのだ。
遠回りのようだけれど、そうしたことを行動に移していく事で自分を取り戻していった。
しかし、そこに行くまでにはDV被害者のご多分に漏れず、私も夫は変わってくれるのではないかとかすかな希望を持っていた。お願いをしてみたり、話し合いをしようとしてみた。悲しいことに、DV加害者は自分が加害者という認識は皆無であり、むしろ被害者意識を強く持つという特徴もあるので、全て徒労に終わった。
DV加害者のやり方は、相手の尊厳を奪っていく事だ。暴力も言葉でなじることも尊厳を奪うことに共通している。そしてそれを息でもするように無意識にやっている。DV被害者同士で話すと、言うことや行動が本当に同じようで笑えるほどだ。
酷いことをされたり言われて、深く傷ついても、人間残念なことに記憶は薄れていくものだ。
私は51才の時にも、2年半別居していた時期がある。別居を解消したのには諸々事情はあったが、酷い目にあった事実の記憶が薄れていたからということも否めない。
だからスカイツリーに「忘れまじ!」と誓ったのだ。繰り返しスカイツリーを眺めがら思い出すことが必要だった。
決断のあとは、秘密裏に念入りに準備を進めていった。
マンションを借り、パートから正社員の職を求めると同時に扶養から外れ、弁護士に相談依頼した。預金が少なく、部屋を借りる手続きをした後残金がほとんどなかった事が功を奏して法テラスの審査は難なく通過した。そういった知識も学習のたまものだ。ほとんど全てを同時進行で進めた。
その時のメモ帳は毎日予定でびっしり埋まっていた。無我夢中だった。
家を出るという決心をし、行動に移した後は、自分でもびっくりするほど、まるでこの時を待っていた歯車がカチリ、カチリとはまって動き出したかのようだった。今思えば、入院中に出会った精神科の先生との出会い。
いや、あの朝話を聞いてくれた看護師さんとの出会いから歯車が動き始めたように思う。周りのみんなが自分の味方のように思えて感謝することばかりだった。
一人暮らしを始めたのと、新しい職場になったことがほぼ同時期だったため、余裕がなかったということもあり、自分でも驚くほど夫の事を思い出すことは少なかった。
やっと離婚手続きが全て終わったとき、お世話になった相談員さんに電話で報告した。もうずいぶんと時間が経ってしまったし、その間にも多くの方が相談に訪れているだろうから、私の事は覚えていないかも、という少し不安な気持ちで呼び出し音を聞いていた。
電話に出た相談員さんは、私が名乗ると開口一番「よかったわねぇ!おめでとう!」と本当に嬉しそうに言ってくださった。そして「相談に来ても迷っていて、背中を押して欲しそうな方にはね、あなたの話をすることがあるのよ。いくつでもやり直せるのよ。こんな人もいたのよってね。私もあれからあなたにたくさん勇気をもらったの。」と言ってくれたのだ。こんなにうれしいことはなかった。自分のために行動したことが私の知らない誰かの背中を押しているのかもしれないなんて。
今、私は過去のできごとをひとつひとつ手放していこうとしている。それはいつまでたっても完全にはできないことだ。
でも、そうすることで自分には自分にしかない価値があるということを再確認していくのだ。
私は自分の人生を手に入れたのだ。
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