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母の日に父を思う

今日は母の日ですね。

かつての私は、母の日は大嫌いでした。
その日だけ、夫が張り切って
「お母さんありがとう」なんて子どもから言われても
表面だけの仲良し家族が浮き彫りになるようで
とても居心地が悪かったのです。

今は、そんなこともなくサッパリとした気分で
今年もカーネーションが売れてるなあ。と花屋の店先を眺めています。

実母は数年前に他界していますが、
それまでは脳梗塞で右半身が不自由となり認知症を患い、たまに訪ねても失語症もあったため意思の疎通はほとんどとれませんでした。

それでも行けば、ベッドの傍でなんやかやと話す私たちをニコニコと眺めていました。
認知症と分かったときには、皆動揺しましたが、
私は、辛い記憶は忘れてしまえばいい。
むしろ母には認知症の発症はよかったのではないかとさえ思えたのです。

それというのも、生前の父は、典型的なDV男でした。
昭和のあの頃はまだ、DVという認識はなかったため
亭主関白などと言われており、浮気は男の甲斐性なんて男に都合のいいことになっていました。

また、父はマザコン男でもありました。
祖母に溺愛されていたため、次男にもかかわらず、祖父母と同居していました。
当然母は、ひどい嫁いびりもされていたようです。

私は姉によく「とろくさい」と言われ、それが長い間コンプレックスだったのですが、のちにその言葉は祖母が母に向かって言っていた言葉と知りました。
姉はそれをまねて私に言っていたのです。

父は飲酒すると大声を出して母を罵倒することがよくありました。
その中には、母の方の学歴が高いことに対する嫌みもありました。
父には学歴コンプレックスがあったのでしょう。

こうして振り返ってみると
つくづく器の小さい男だったのだと思います。

しかし、母はそんな父が亡くなるまで尽くして
父が亡くなったのと時期を同じくして、認知症になったのです。

私は、子どもの頃
なんとなく母を軽蔑していました。
おそらく父が罵倒するのを聞いていて、軽蔑する対象と思っていたのだと思います。

成長すると
自営業の資金繰りのために生活費を切り詰め、あげく生活のために娘にお金を借りる母を軽蔑していました。

そして
私は母のようにはなるまいと思って大きくなりました。
そして、相変わらず母を罵倒する父、浮気を繰り返す父を見ながら

知らず知らずのうちに傷つきながら私は大人になりました。

私は人の気持ちが分からない
と思い、必要以上に人に気をつかうようになっていました。

今は子どもの前での罵倒や暴力は
「面前DV」や「虐待」とされ通報すれば逮捕される場合もあります。

幼いころからの暴力の刷り込みは
子どもに深い傷をつけます。

面前DVにあった子どもの脳は損傷するという研究結果も出ています。
心だけでなく、脳にまで傷をつけるDV。

子どものために離婚しない、は、本当は子どものためには早く離婚した方が良い。の
場合もあると私は思うのです。

母の日に父を思い出すなんて
どこまでも親不孝な娘でごめんね。お母さん。

でも私、ずいぶんと遅い決断だったけれど
私の子どもには同じ思いをさせない選択をしました。





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