【観劇録】舞台「赤シャツ」の感想書き殴り

「どんなに良い人間でも、きちんとがんばっていれば、だれかの物語では悪役になる」

終演後、一昔前にTwitterで見かけたこの言葉を強く思い出した。

夏目漱石の代表作「坊ちゃん」のスピンオフ舞台「赤シャツ」。学校の教頭先生「赤シャツ」は作中で悪役として描かれ、最終的に坊ちゃん先生にボコボコにされて終わる。

「赤シャツ」は本当に悪い奴だったのか?「赤シャツ」サイドから見た世界は180度違うものなんじゃないか?そんなテーマの舞台だった。

予習として原作は読んでおいた方がいいとのことで、観劇前に読了したけれど、まんまと「赤シャツ」のことを嫌いになっていたし、この人をどう主役としてたたせるんだろう?という単純な疑問が残った。

悪役を悪役のまま終わらせず、視点を変えて主人公にしてみるという試みが単純に面白いと思ったし、作品を熟考するひとつのきっかけになると思った。

マキノさんもパンフレットでお話されていたように、「坊ちゃん」は坊ちゃん先生である主人公の視点で終始描かれている。もちろん全知全能の神ではない坊ちゃんに見えていない部分も沢山あるし、直接見聞きしたわけではない出来事も語り手を通してあたかも揺るぎない真実かのように描かれる。

これはあくまで物語の中の事情だけではなくて、むしろ私たちが日々意識していかなければいけないことなんじゃないかと思う。

本作を読んだ時はあんなに爽快に感じていた巻末の一節が、舞台の、泣き崩れている赤シャツをバックに聞くとどうしようもなく切なく悲しく聞こえる。むしろあの清々しさ満開のナレーションに「人の気も知らないで!」とイライラしてしまうほどだった。つくづく私たちは他人の事情を知らずに生きている。

とはいえ、「赤シャツは悪者じゃなかった」で終わらせようとしないのがこの舞台の素敵なところだと思った。

「ただの悪いやつだったとは限らない…けど、彼の自業自得だった部分はあるし、一概に同情も出来ない」という余白を残していて、出演者自身がそう感じているのも面白い。ひとつ言えるのは、狡猾で損得勘定で物事を判断しているものの、冒頭の言葉になぞらえるなら赤シャツは“きちんとがんばって”いたのだと思う。

作中で日本は西洋各国に並ぶような大国になろうとしていた反面、令和の価値観ではあまりにも時代錯誤な考え方がまかり通っていたように思う(時代錯誤っていうか、そもそも時代が全然違うんだけど)。西洋の国々も当時は男女平等とまではいかなかっただろうし多様性とは程遠い世界だったはずではあるけど、無鉄砲で曲がったことが嫌いで男尊女卑が当たり前!みたいな当時の日本の価値観を見ると、現代の私たちはやっぱり、「角が立つ」が口癖の八方美人の赤シャツの味方に着いてしまいたくなる。

赤シャツは誰も嫌な想いをしないよう上手く立ち回りつつ、そんな器用な自分に嫌気が差しているような描写も数多く見られて、そんな内面の葛藤みたいなものが、観劇している私たちにも強く響いたんじゃないかと思う。少なくとも私は響いた。

どう自分を律して、どう立ち回っていくか、そんなものに正解なんてないけれど、ないからこそ明治でも令和でも、きっと私たちは迷ってしまう。

少なくとも、そうやって葛藤している赤シャツのことは誰も責められないと思った。

悪役にも悪役なりの考えがある。きっとそれは“もう1つの正義”ってやつなんじゃないかと思う。

お互いの正義が成立するために、きっぱりと学校を辞めて去っていった坊ちゃん先生はある意味“正解の結末”だったのだと思う。

坊ちゃん先生と山嵐が去ったことで、赤シャツにとっての“正義”はこれからしっかりと息をしていける。東京に戻った2人もそれぞれ“正義”を貫いていける。そんな将来を考えると「赤シャツ」はハッピーエンドと捉えていいのかもしれない。ただ、赤シャツの劣等感や後ろめたさはひとつも解決していない。そういう意味ではきっとバッドエンド。

結末の解釈が二分出来るのも、この作品の魅力のひとつなんじゃないかと思う。

明治の世も令和の世も結論は同じ。

それぞれが生きたい場所で、自分なりの正義を貫ける場所で生きていくしかない。

舞台「赤シャツ」は私にそんなことを教えてくれた。


最後になりますが、赤シャツ先生、あれから100年経っても、20世紀の世から20年経っても、世の中の人間の比率は大して変わっていません。狡い人は狡いままだし、融通の効かない無鉄砲はいつまで経っても無鉄砲のまま。

ただ1つ、令和に生きてよかったのは、その性格や個性を“正義”や“正解”で押しつぶすことなく、お互いがお互いを認め合えるようになりました。少なくとも明治の世よりはずっと。


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