「海が見たい人」を愛したい

海の近くに故郷がある。
近いといっても、あくまで地図上のことで、実際家から歩いてみると結構な距離がある。自転車でも一時間くらい。でも、十代のころはよくひとりで海へ行った。
夏休み・冬休みになると暇を持て余していたから、毎日のように海辺に出かける。だから距離があっても、生活の中に海を身近に感じていたのは事実だった。
大学から海が遠い街へ越してきても、海を忘れることはなかった。たまに帰省すれば、その度に海まで歩いていった。歩くのは好きだ。音楽を聴きながら、しばらく離れていた土地の風を感じるのはとても気持ちがいい。海の近くの橋を渡るとき、一気に視界が開けて潮の香りがする。それだけで帰省してよかったと思う。
海辺までくれば、目の前には空と海しかない。あとはゆっくり砂浜を歩く。やることといえば、それくらい。
ときどき帰省したら何して過ごすの? と訊かれる。その度に海へ行く、と答える。何で行くの? と返されれば行きたいから、としか言いようがない。
たしかに特別楽しいことがあるわけでもないし、いっしょに行く人がいるわけでもない。何で行くのと言われるのも仕方ないことなのかもしれない。
でも僕たちは普段、街中で暮らしていると、知らずしらずのうちに窮屈なものを心に抱えてはいないだろうか。閉塞感、とも言えるだろう。それが当たり前になっているのは少し不幸なことだと思う。
そんなときに、湿り気のない日差しが優しく肌を焼く感覚、砂を踏みしめる感触、波の音に聞き入り風を感じれば、ただそれだけで心が豊かになる気がするのだ。世界の一部を見たような、ささやかで動物的な感動がそこにはある。
海がみたい人を愛したい。
先日映画『聲の形』を観ていたら、懐かしい歌が聞こえてきた。うみーがみたーいーひとーをあいしたーい。「怪獣のバラード」。音楽の教科書に載っていたこの曲の歌詞を見るのが僕は好きだった。
そこには「海がみたい 人を愛したい」と書かれていた。当時の僕は、怪獣に自分を重ね合わせていた。
最近、僕は自分が勘違いをしていたことに気づいた。「怪獣のバラード」の、先の歌詞を僕は「海が見たい」と思っている人こそを愛したいという意味だと思っていた。
でも、よく見れば歌詞は怪獣自身が「海がみたい 人を愛したい」と思っているだけである。一つの文になっているわけではない。それに気づいたときは、少し落胆した。
が、しばらくすると、別に勘違いしたままでいいんじゃないか、と考えるようになった。だって素敵な歌詞になっているのだから。「海がみたい人」を愛したい。なんの根拠もないけど、間違いなんかじゃないと思うのだ。
「海がみたい人」がいれば、僕はその人を故郷の海に連れて行きたい。だってそれは絶対的に愛すべき人なのだから。


#エッセイ #海 #怪獣のバラード

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