青春の終わりを僕はなにに言い換えよう

昨年の12月、僕は約3年付き合っていた人と結婚式を挙げた。式を挙げたのは家から歩いて10分ほどにある小さな式場だ。
僕は京都に移り住んで8年になる。この式場の前も、何回も通ったことがあったから認識はしていた。でも、自分がここで式を、ましてや結婚するだなんて思ってもみなかった。

連れ合いがメイクをしてもらっているあいだ、暇ができた。僕は外をブラブラすることにした。といって、目新しいものなどない。何年も住んでいる街だからだ。それが心地よかった。この街で式を挙げられるのが嬉しかった。
僕は歩きながらイヤフォンでエレファントカシマシの「さらば青春」を聴いていた。僕も連れ合いも大好きな曲だ。空を見上げると、冬らしく澄み渡っていて、しかしまだ本格的な寒さは感じさせない気持ちのいい気候だった。
そうしているうちに、僕は、青春の終わりということを考えていた。

僕は3月で27歳になる。すでに若くない。でも逆に、"僕は若い"なんてハツラツとした喜びとともにそれを自覚したことなんてあったろうか? ずっと僕は若くない若くないと言い続けてきた気がする。
そしてそんなことを自嘲気味に言っている間に、本当に若くなくなってしまった。
"青春の終わり"なんて、この歳にもなってまだそんなこと言っているのか、という感じだ。その青春とやらに、人に語れるほど特別なことなんてなかったというのに。
それなのにこうやって書き連ねているのは、いつまでも心の片隅に尾を引く青春の亡霊にピリオドを付けたいからなのだと思う。

青春の終わり、そこには絶望が待っているのだろうか? 数年前の僕だったらそれを、漠然とした不安とともにいつまでも留保しながら、目を背けていたかもしれない。だが、それももう終わりだ。
生きている身体の何もかもがすり減ってゆく。ゆるやかに坂を下り、時には突然転がり落ちる。なるべくそうならないように、人はゆっくり歩くよう努める。だがその途上で絶望してしまえば、自ら転がり落ちてしまう人もいる。そうでなくても、その衝動に駆られる。一体なんのために生きているのか? と。

以前、どこかのSEとして働く男性のブログがツイッター上に回ってきた。彼は幼い頃から対人関係の不和に悩みながらもそれに耐え、大学を卒業し就職した。それから程なくして、無職だった姉が結婚した。そして彼に、あんたもいい人見つけなさいよと言った。それに対し彼は激怒し、姉を憎悪し「自分をこんな風に育てた」親を憎悪し世界を憎悪していた。
なぜ? と思うかもしれない。彼は努力して就職した。お姉さんも結婚した。客観的に見れば良いことばかり起こっているからだ。
だが、それを塗り潰してしまうほどに、彼を苛むのは孤独の感覚なのだ。
日々があまりにも無為に感じる、自分を肯定してくれる人がいない、後悔ばかりが蘇ってくる、そして喜びのないまま死にゆくような不安に押しつぶされる……
それらはごくありふれた話なのだ。そしてくだらない話なのだ。なぜなら以前の僕も、形は違えど同じ心情だったからだ。
経済的に困窮しているわけでもない、複雑な環境で育ったわけでもない、マイノリティでもない、日本人の男の"不幸"。あの頃の僕は「生きている意味」に答えを見つけられないでいた。だが、そんなものは「だから何?」と言ってしまえば大抵は気楽になることなのだ。

生きている意味、そんなものはない。これは悲観でも冷笑でも虚無でもない。美味しいものを食べるとか、友だちと会って話すとか、たくさんでなくても日々の喜びを見つける。そこに意味なんてない。ただ喜べばいい。
でも、そんなことに気づくのに僕は何年も気付かず、自己肯定感の不在を、孤独の感覚をひとり味わい続けていた。
さきほどからわざわざ"孤独の感覚"と書いているのは、僕にとって、今にして思えばそれはあくまで感覚でしかなかったからだ。
地元には心配してくれる家族がいて、京都に移ってからは尊敬できる友人たちができた。それだけでこの街にやってきて本当によかったと思えるような人たちが。
その大切さに気付かず孤独だなんて思っていたのは、僕に信頼というものが欠けていたからだと思う。
疎遠になってしまった関係も、やぶれた恋も、周りにいてくれる人の大切さがわからなかったのも、相手を信頼できずにいたからだ。裏切られるんじゃないかとか、どうせまたダメなんだろうなとか、疑心暗鬼になってしまった。
それは結局のところ、自分を信じることができなかったからなのだ。
自分を信頼できないから相手のことも信じられずに離れて、また自分への信頼を失っていく。そんな負のサイクルを断ち切ってくれたのが友人たち、そして連れ合いの存在だった。
情けない過去も、不安定ないまも、最初に抱きしめてあげなければいけないのは自分自身なのだと。でなければ、歪んだ孤独を抱えたまま、一生を終えていただろうと。


その終わりとは絶望だろうか? そう思う人もいるだろう。そうでなくても、"青春の終わり"という言葉に、世間一般はあまりいいイメージを持たないかもしれない。
ならば僕はそれを、何かいい意味のものに言い換えたい。
例えば、"やさしさ"なんてどうだろう。僕は昔から優しいとよく言われてきた。けれども、当時の僕はそれをお得意のネガティヴ思考で「そんなの単に臆病の言い換えでしかない」と思っていた。
でもいまは、信頼する人たちが感じてくれたそのやさしさを、もっと与えられるようになりたいと思っている。
そして、青春の終わりとは、愛する人へのこれからの人生全てだ。僕はそれをやさしさに言い換えて、生きていくだろう。



#エッセイ #生活 #結婚

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