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Candy(映画『この世界の片隅に』感想)

東京で映画『この世界の片隅に』を観た。原作も好きで、約束された名作だったわけだけど、間違いはなかった。すばらしかった。たまらなく愛おしかった。こみ上げてくるのは生きる力、というより生きたいと自然に思う素直な心と身体だった。
舞台は戦中から戦後にかけての広島。主人公・すずは呉市へと嫁いでくる。何が起こっていくか、説明は不要だろう。
すずは嫁いだ先の家族、故郷にいる家族、そして絵が上手だった自分の右手すらも失ってしまう。
それでも映画の人物たちは、笑いを忘れない。満員の劇場も、彼女らの日常を観て、笑いに包まれていた。憲兵が怒鳴り込んできても、空襲に遭っても、家族が原爆症に犯されても。だからこそ。
しかし、敗戦の後、すずは涙を流す。最後のひとりまで戦うんじゃなかったのかと。自分にはまだ左手も両脚も残っているのに、なんのためにいろいろなものを失ったのか。
失ってばかりだ。失ってばかり。僕らは失うことしかできないのか。
失うことは、遅かれ早かれいつか訪れるものさ、とか生きることは美しいとか、僕はこの映画を観た後に、簡単に言うことができなかった。だってここで起きていることはあまりにもかなしくて、くそくらえで、理不尽だから。
僕らはいま見ているこの時代には行けるわけじゃない。彼女彼らの気持ちなんてわかるわけないのかもしれない。それでも。それでも。彼女彼らがおくっている、たまらなく愛しい日常に、世界の片隅にいて、消えていった何人もの声に、耳をすまさなければいけない。
繰り返すが、すずが大粒の涙を流したのは、「国体」とその「精神」が失われたとき。空虚でも、多くを失った彼女が、失う理由として、それは存在していたから。なんのために、なんのために、とすずは嘆く。
しかし、それでも日常は続く。戦争は終わっても、貧しくろくに食えない生活は変わらない。
食べること。僕が映画でいちばん印象に残ったのは、すずたちが、敗戦後の焼け野原で、食事をするシーンだ。
すずは、娘を失った義姉と、配給の列に並ぶ。与えられたのは、米軍の残飯をごっちゃにしたもの。恐るおそる食べたそれの、予想外の美味さにため息をつく。その後にとったいつもの夕食の味気なさにも(その落胆っぷりに客席は爆笑していた。僕も笑った)。
そしてまたすずたちは、生き始める。敗戦のときの涙なんて、なかったかのように。笑みを携えて。
戦中、すずはスイカやハッカや、キャラメルやアイスクリームの絵を描いていた。砂糖が希少品になった後の、かつての夢。敗戦後、その砂糖をふんだんに使ったチョコレートやガムを、米軍は子どもたちに(それとすずにも)与える。
なんの腹の足しにもならない精神なんて、ひとつぶのキャンディよりよっぽどしょぼいんだよ。
僕には、そんな声が聞こえた気がした。
この映画の中で作られ、食べられるものたちは、とても質素だけど、すごく美味しそうにみえる。映画を観る前から空いていた僕の腹は、上映中何度も鳴った。
食べることと生きること。そんな単純なイコールが、映画を観終わった後の僕には、ずっと心に残っていた。
すずたちは、たくさんのものを失った。でも、生きようとしている。それは、この世界の片隅で出会った人たちといっしょに食事をすることの幸せを知っているから。
僕には、そう思えた。
東京でこの映画を観て、帰りのバスまで時間があったので、僕は食事をすることにした。今日いっしょに映画を観た親友に教えてもらった、安く食えて飲める居酒屋だ。
僕は道を歩きながら、 Donnie Trumpet & the Social Experiment の「Sunday Candy 」を聴いていた。なんとなくだけど、『この世界の片隅に』を観る前から、僕の中でこの曲を主題歌にしていた。これも同じ親友から教えてもらった、幸せな気分になれる、大切な曲だ。
この世界の片隅で僕と今日までいっしょにいてくれている親友と、この映画を観れて、本当によかったと思う。

#この世界の片隅に #感想

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