【映画】フォーリング・ダウン

私が映画を好きだと言うようになった作品、「フォーリング・ダウン」についての話をする。ネタバレもする。

あらすじ

1991年6月12日のロサンゼルス。真夏の太陽にさらされた灼熱のハイウェイで、道路工事による大渋滞が発生。これに巻き込まれた中年男性は、エアコンや窓の故障、車内に入り込み飛び回る蝿に苛立ちを募らせる。

業を煮やした彼は遂に車を乗り捨て、問いかける他のドライバーに対して「家に帰る」と言い残し、道路から立ち去った。彼の、怒りに満ちた大暴走が始まる。

Wikipediaより

つまるところ、マイケル・ダグラス演じるDフェンスが、わらしべ長者式に凶器を替えて怒りをそのままぶつけまくる作品である。

怒りの対象は、蒸し暑さや横柄な店員、強請ってくるクソガキ、モーニングを少し過ぎただけで提供しない店、過激思想の男といったところで、行動に起こすかはさておき誰しもなにかしらの負の感情を覚えるものばかりではある。

正直モーニングに関してはそもそも店長単位で決められるものではないので、気の毒ではあるのだが、Dフェンスも元々は店員側の事情を理解していたものの、どうにも耐えきれなくなった。もはやそういった細かいモヤモヤすら耐えられなくなった、すべてがわずらわしくなり、結末として刑事のプレンダガストに打たれて死ぬことを選んだ理由なんじゃないかなあと感じる。
ほんの少しじゃんさっと出せや!→店員側が決めたルールじゃないから出せないのもわかんだよ!→経営側だってルールがなきゃやってらんないのもわかんだよ!→なんだこの世界!めんどくせえ!クソだな!みたいな気持ち。ここまでくると世界か自分が終わらないとやってられないみたいな感覚はわかる。

「本当の異常者が町に大勢いる」

Dフェンスは最後、ハッタリで刑事のプレンダガストに打たれて死ぬ。死ぬ際でDフェンスは、「本当の異常者が町に大勢いる」と話している。
Dフェンスは本来「異常に感じることにこうして真正面からぶつかっていてはまともに生きていけない」ことをわかっていた、「上手くやっていた」側の人間だったのではないだろうか。

Dフェンスはかつて海沿いの家を持ち妻子と幸せに暮らしていた。それができるくらいは、「上手くやって」いたし、そういったモヤモヤとも付き合ってきた。でも妻子と別れ職も失った今のDフェンスには、そうしてまで生きることの理由が残らなかった。

Dフェンスははじめからこうなりたかったのではなく、「上手くやっていく」理由が見えなくなって死を選択したのだと感じる。

もちろん、妻が別れを決めたことやその後の様子から、噛み合わない物事はそれなりにあったんだろう。それでもDフェンスは、モヤモヤを無闇に当たり散らしたりすることはなかった。
もちろん、いくらイライラしていたとはいえ、どれだけ横柄な店員にコーラ代を巻き上げられそうになったとはいえ、バッドで店中をなぎ倒して帰ることを大多数の人間はしない。でも誰しも、それくらいの衝動にかられるくらいはあるんじゃないだろうか。

結末への解釈

誰しも横柄な態度には腹が立つし、強請りも過激思想もたまらない。モーニングだって融通が利かなくて(客も店も、そんな世間が、)なんかやるせないよねくらいは感じると思う。それでもそれらに対して真正面から反撃したり店で暴れることもまずないだろう。みんなそうやって、「上手くやって」生きているのだ。

誰の心にもDフェンスはいる。
それでもみんな、「上手くやって」生きている。

誰しもが抱えるモヤモヤを思いのまま発散すれば、Dフェンスのようになにもなくなってしまう。ラストのプレンダガストの表情といい、どうにもDフェンスのことを関係のないことだとは言いきれなくて、やるせない気持ちになる。

そう、やるせない。我々は「上手くやって」生きていくしかないのだ。

「上手くやって」生きることについて

多様性が謳われたり、人との関わりにおいて共有しやすい言葉を多く目にするようになってきた。

そのなかで、自分を出して生きたらいいといった趣旨のものについて、私はどうにも寂しい気持ちを感じていた。

もちろん、自分を押し殺し続けることはとても辛いことだし、そうした考えが広まって救われる人がいることは素晴らしい。

一方で、それまで(押し殺していた状況だとしても)「上手くやっていた」自分が置いてけぼりにされるような、そういう類いの寂しさがあった。

私はこれからもそこそこ自分を出しながら「上手いことやって」いきたい。
もちろん多く提唱されているのは、なんでもかんでも自分を出す(押し通す)ことではなく、実際は、自身と他者を切り離して「上手くやる」方法としてそこそこ自分を出すことなのだろう。だから、私が感じる寂しさは考えすぎに近しいのだが、そういう性分なので仕方ない。

「上手くやって」生きていて良い

自分の中にDフェンスやDフェンスが周囲に感じた異常さがあったとしても、「上手くやって」いれば生きていけるのだ。

自分を上手く出せない、世間の波についていけない、それでも生きていけている。それなら良い。「上手くやって」生きていけるならそれにこしたことなどない。
人の顔色をうかがう、といったことは悪いように解釈されがちだが、少なくとも自分がそんな自分に納得しているのなら、それで良い。むしろ周りによく配慮ができるくらいに思ってほしい。

誰の心にもDフェンスはいる。
それでも、Dフェンスのように生きることはないんだろう。
だから、生きているんだと思う。

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