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あの時「殺すな」と言えなかった全ての私たちへ

誰にも聞こえないぐらい、小さな声で構わないから今、
「罪のない人を殺すな」
と一言、呟いてみて欲しい。

どうだろうか。
馬鹿馬鹿しくて笑えてこないだろうか。どうしてこんな漫画みたいな浮世離れした台詞をわざわざ口にしなくてはいけないのか。しかし、そんな漫画みたいな浮世離れした台詞を世界中の人々が束になって叫んでいるのが、2024年という時代なのである。

2023年10月7日、ガザを実効支配する武装組織ハマスがイスラエルを越境攻撃し、それに報復する形でイスラエルによるガザ侵攻が始まった。
そして今やイスラエルは、ハマスと、ガザに生きる大人と、ガザに生まれた子どもと、ガザを援助する人々と、ガザを形作る全てをなかったことにするために、140万人あまりの人々を最南端のラファに追い詰め、空爆を繰り返している。

この文章はガザにおけるジェノサイドを前に、わざわざ声を上げる気になれない全ての人に向けられたものである。「私たちへ」としているのは、私自身も少し前までそうだったからである。自分がそうだったのだから、ここで「沈黙は加担だ」などと吐き捨てることはしない。私が言いたいのはむしろ、「行動は自衛だ」ということである。


なぜ「殺すな」と言えないのか

ラファから9,000kmほど東に目をやると、新宿がある。
そこでは日々多くの人が停戦を求める声を上げ、プラカードを掲げている。
そして、それ以外のほとんどの人は、彼らのシュプレヒコールに耳を傾けたり傾けなかったりしながら、2023年10月7日以前と全く変わらない生活を送っている。

私たちが「殺すな」と言わなかった、あるいは言えなかった理由は、私たちの数だけある。しかしその多くは以下の、「政治的立場」あるいは「生活への影響」のどちらかに分類出来るのではないか。

  1. 政治的立場:「そもそも先制攻撃したのはハマスであり、イスラエルにも一定の正当性がある」

  2. 生活への影響:「歴史や政治に関する知識がなく発言出来ないが、勉強する暇はない」「周囲にそういう発言をする人がおらず、仕事や友人関係に影響しかねない」「行動したところで自分に得がない」

私を含め、ほとんどの人は2.に該当するに違いない。

「殺すな」とか「虐殺やめろ」という言葉に対して、勝手にハマスを擁護するニュアンスが付与されてしまうことを忌避しているだけなら、「イスラエルもハマスも関係なく罪のない人は全員殺すな」とか、「停戦を」と言い換えればいい。私たちが声を上げることを躊躇うのは、端的に言えば、私たちが声を上げるのを面倒だと思っているからである。
「沈黙することは虐殺への加担だ」という批判は、「声を上げることが当たり前」という風潮が生まれない限りはあまり意味がない。声を上げたことによる損失はあっても、声を上げないことによる損失は恐らくないと、私たちの多くは考えているからである。

自分の生活と異国の虐殺

ハマスによる奇襲からしばらく経って、夕食を取りながらテレビでニュースを見ていると、激しい空爆と、大怪我をして運び出されていく子供の映像が流れた。私は少し神妙な面持ちをしながら黙って白飯を口に運んだ。その映像が終わるとCMが入り、私は適当にチャンネルを切り替えた。そこではバラエティー番組が放送されていて、気づけば私は笑っていた。食べ終わって食器を洗いながらふと、何も考えずに食事やテレビを楽しんでいる自分に少し嫌気が差した。しかし「自分の健康を害していたら元も子もない」という結論に至り、いつも通り風呂に入って寝た。

この時私は無意識のうちに、異国の虐殺と自分の生活を天秤にかけ、後者を優先した。しかし同時に、何かを失ったような、自分の中の何かを殺してしまったような、小さな違和感が残った。

今振り返ってその「何か」に無理やり名前をつけるとするなら、それは「人間らしさ」ではないかと、私は思う。

イスラエルもといネタニヤフ政権は、ハマス戦闘員のみならず支援団体の医師やジャーナリスト、何も知らない子どもたちまで平気で殺し、人類としての最低限の倫理観を失っている。基本的人権を尊重しないどころか、基本的人権の存在そのものを否定している。

そして、私がこの虐殺を前に声を上げないということは、私は自分と全く関係のない30,000人の命と2,000,000人の生きる権利ぐらいであれば、自分一人の生活のために無視出来るということである。

私の倫理観の一部が、確実に死んでいる。私が本当に天秤にかけたのは、異国の虐殺と自分の生活ではなく、自分の人間らしさと、自分の生活だった。

私はこうして、あまりにも微力ではあるが、声を上げることにした。正直に言えば、声を上げたいというより、声を上げていない自分から脱することで安心したいというのが、最大の動機である。

全くもって褒められたものではない。
しかし0と1の差は、とてつもなく大きい。

絶望しながら希望する

今、デモに参加したり、SNSで発言したりしている人のうち、自分たちが声を上げればイスラエルは譲歩し停戦へ向かうはずだと純粋に信じている人は、もうあまりいないだろう(少なくとも私はそうである)。

ならばもう、今から声を上げる必要などないのかもしれない。
民族浄化が完了しガザが地球上から消滅するその日まで、静かにやり過ごせばいいのかもしれない。

ガザに限ったことではない。政治が腐敗し戦争が勃発するこの時代、名詞としての希望はもはや死にかけている。

一方、対義語の絶望は今やファッションであり、カルチャーであり、デフォルトである。未来に絶望する私たちは、あらゆる問題から目を背け、諦め、放置する。そうして肥大化した問題は新たな絶望を生む。この繰り返しである。

しかし、希望にはもう一つ用法がある。動詞である。

今、運動の最前線で声を上げているのは、ガザを誰よりも深く知り、ガザの人々と誰よりも深い関係を築き、それゆえに誰よりも深い絶望を味わっている人たちである。彼らに希望的観測など、あるはずもない。
しかし、彼らは深く絶望しながら、強く希望している。イスラエルに向かって、停戦を希望している。虐殺に加担する企業に向かって、見直しを希望している。そして、今ゆっくりとその倫理観を失いつつある全ての私たちと国際社会に向かって、ここで踏みとどまることを希望している。

いくら希望がないからといって、絶望しかないからといって、「政治家しっかりしろ」「戦争しないでくれ」「殺すな」と強く思い、声を上げ、希望することまで諦めてしまったら、私たちの行き着く先は絶望ではなく地獄である。

何度でも言おう。目の前の虐殺を止め、ガザの人々を救うことだけを目的に、私たちは声を上げるのではない。私たちが絶望にかまけて国を、社会を、世界をほったらかすと、私たちはいずれ戦争に巻き込まれるから、私たちはいずれ人を殺すか、人に殺されるから、それがどうしても嫌だから、今から声を上げるのである。絶望しながら、希望するのである。

行動は自衛である。ガザに住む人々の現在と、私たちの未来のために、私たちは連帯する。

結びにかえて

この文章は完全に私個人の見解である。内容に間違いや不備があった場合、それは全て私の責任である。もしご指摘やご意見があれば、私のメールまでお送りいただければ幸いである。
また、ここまでお読みいただいて「結局声を上げるって具体的にどうすればいいんだよ!」と怒っている読者がいるならば、こんなに有難いことはない。遅ればせながら、参考になるリンクをいくつか挙げておく。

日本から私たちができるパレスチナ連帯行動 (Google document)
@mgm465503040415さんらによるツールキット。声を上げていることをどうしても周囲に知られたくないのなら、ここに書かれている内容を参考にこっそり署名やボイコットをするだけでもいいと思う。

arab.org(寄付サイト)
自分でお金を払うのではなく、一日1クリックするとスポンサー企業からUNRWAへ寄付される仕組み。パレスチナ以外にも様々なテーマから選ぶことが出来る。

Japan Stands with Palestine (Google カレンダー)
都内限定ではあるが、パレスチナに連帯するデモの情報がまとめられている。他にも俳優の坂口彩夏さん @ayana_sakaguchi がまとめているデモ情報アカウント @ceasefIRenownow も便利。デモに行くとただ突っ立っているだけで良いことをした気分になれる(し実際良いことをしている)のでおすすめ。

Stop the killing!

John Lennon / Bring On The Lucie (Freda Peeple)

画像:Palestinian News & Information Agency (Wafa) in contract with APAimages, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons


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