マリオネテスタnote

マリオネ・テスタと空欄[K] 第一話

「あ」

 あっけなくもそれが最期の言葉となった。

 鈍い音とともにからだが四方へ吹き飛ぶ。

 目に映る光景には――朝陽に煌めく赤い飛沫、目を丸くさせた運転手、ホームに並んだ灰色スーツが一様に■を見つめている――それらが弧を描くように視界から消えて、最後には一面の星空になった。

 ああ、死ぬんだ。

 感覚でわかった。実感があった。■は死ぬ。線路と自分との間が温かいのはきっと血だろう。遠くできこえるサイレンはここへ向かう救急車だろうか。いや、それにしては早すぎるか……。

 ……じゃ■はここで死ぬんだ。心残りがないと言えば嘘になる。心残りもなく死んでいく人間などこの世に一人だっていないだろうけれど、その心残りに目を瞑り、自分の半生(今となっては人生そのものだが)を振り返ってみれば、それほど悪いものではなかった気がする。

 ともかく自分はこのまま死ぬらしい。という今の時点で、とっくに心臓は止まっていた。

 二○○一年六月九日。小さな駅の線路の上で、いともあっけなく、■は死んだ。



 マリオネ・テスタと空欄[K]


 

*一日目*


「……」

 神楽坂散歩(かぐらざか さんぽ)は改札口前の柱に背中をもたれ、流れる人たちをじろっと眺めていた。足の重心を左右へ変える度に、高い位置で結んでいるポニーテールが小さく揺れる。

 本人にそのつもりはないのだろうが、生まれ持っての三白眼と眉間のしわが相俟って、通行人を睨んでいるように見える。

 誰かを待っているのだろう、彼女の足元には何本もの空き缶が転がっていた。すべて同じ銘柄で、彼女の好きな微糖コーヒーだ。

 彼女は懐からもう何本目かわからない缶コーヒーを取り出し、片手でプルタブを開けた。

「   」

 不意に彼女が口を動かす。声は人込みの喧噪にかき消されたが、大袈裟に開かれた口の動きで、何を言ったのかわかった。確かに彼女はこう言った。

 おそい。

 缶コーヒーを呷る。待ち合わせをしている相手は、彼女を放ってどこで何をしているのだろうか。

 彼女には時間がないというのに。


 犬が車にひかれるところを見たことがあるだろうか。

 僕はない。でも夢の中では何度も見た。

 月が明るく雲間から顔を出していて、風の穏やかなこんな夜はきまってその夢を見る。

 大通りの中央分離帯で子犬が、キョロキョロ不安そうに辺りをうかがっている。僕はいつも歩道からそれを見ていた。犬はこちら側に渡ろうとしているのか、それとも向こう側に渡ろうとしているのか、どうにもわからない。とにかく今の場所から離れたい、そんな様子でずっと顔を左右に振っている。

 赤いスポーツカーが目の前を通り過ぎたところを、犬が向こう側へ勢いよく飛び出した。

 しかし、その矮小なからだは鋼鉄の塊にはね飛ばされる。頭の骨を砕かれこちら側にはじけ飛んだからだが、今度は対面の車によって打ち砕かれる。

 赤信号。車が一斉に停まった。犬は額からいくつも赤いすじを地面にこぼしながら、おかしな方向に曲がった足を震わせ、必死に立ち上がろうとする。

 自分がどこにいるのかわからないようで→血をまき散らしながらその場をクルクル回りだしそれを→赤い車がいくつもいくつもひき殺し→血が飛沫き→血が飛沫き→血が飛沫き→血が飛沫き→飛沫き→飛沫き→飛沫き→飛沫いてもう何回ひかれたかもわからずについさっきまで犬だったものが形を失くしただの→肉のかたまりに成り果てた頃になってようやく僕は、

「助けなきゃ――」

――と思うのだ。

 そこでいつも目が覚める。

 不思議と汗は一滴も流れていない。僕はゆっくり深呼吸をして、布団に頭を埋めいくらでも寝直そうとするのだが、きまってその夜はもう眠ることができない。すっかり目や耳が活動をはじめてしまい、深夜の空気の深い藍色や囁き声に頭をかき乱される。

 三回寝返りを打ったところで諦めて、布団から出た。キッチンでコーヒーを淹れながら、朝まで何をしようか思案する。サーバーにコーヒーの滴る音が、夜の帳に染みを残す。僕はぼんやり考える。この夢を見るのはもう何度目だろうか。

 夢占いというものがある。夢に出てきた事物から、その人の心理状態や運勢を導き出すのだ。

 しかし僕のこの夢を占う必要はない。こんな夢を見る理由を、僕は理解している。

「……莉瑠(りる)」

 二○○一年六月九日。

 僕の妹が死んだのは、月が明るく雲間から顔を出していて、風の穏やかなこんな夜だった。


 一睡もできずに朝を迎えると、いつものように空のリュックを背負い、尻ポケットに携帯電話と財布を入れて街へ出た。

 最寄り駅から二駅上ったその街は、いつも若者と社会人で溢れかえっている。学校へ向かう高校生や朝帰りの大学生の脇をすり抜け、街のシンボルである大型ショッピングモールのサンシャインビルを目指す。厳密にはそこへ向かうための地下通路が目的地だ。

 商店街を抜けたところに大きな交差点があり、そこを越えるとビルにたどり着くのだが、脇にあるエスカレーターを下ったところに地下通路があり、交差点を渡らずともビルにたどり着けるようになっている。

 その地下通路が僕の「狩り場」だ。

 エスカレーターを下ると左手に喫茶店、右手にパン屋がある。路はそこから左に折れ曲がり、小さなS字を描きながらビルの入り口へ繋がっている。

 路の両脇にはオートウォークが設置されており、急いでいる者は路の真ん中を駆け足で進み、サンシャインビルで買い物をして疲れたカップルはオートウォークでのんびり進行できるという仕組みになっている。そこが狙い目だ。

「普段当たり前のように行っていることをする必要のない」状況というのは人の心に隙をつくる。

 盗みをするにおいて必要とされることは相手の隙を突くことで、それだけ聞くと難しいことのように思われるが、つまりは「相手が隙を作る状況」さえ知っていればいいのだ。盗みやすい場所、時間、人相がわかっていれば、小学生でも盗みを働ける。いやむしろ、警戒されない小学生の方が成功しやすいとも言えるだろう。

 難しいのは、それを続けることだ。だから僕は続けない。

 月に一度。そう決めている。

 通行人は平行移動するのに足を動かす必要のないオートウォークに乗ることで、無意識のうちに気が緩んでいる。通勤の時間帯は人通りが多く、人気の多さに気が滅入る。その中でより感覚の鈍っている――たとえば前日に上司に叱られていたり、家を出る前に妻と喧嘩をしていたりする――人を狙う。

 と言っている間にもう三人の財布を盗ることに成功していた。 

 物を盗むことに対する抵抗感は無い。はじめはあった気がするが回数を重ねるに連れて消え去っていった。慣れというのはなにものにでも訪れるのだと知る。

「自分は悪いことをしている(のだろうか)」

 それは事実として字面として、自分の頭の中に浮かび上がりはするのだが、実感は皆無だった。罪悪感も背徳感も沸き上がって来ることはない。

 枯れ果てた井戸のようだ。

 自分のこころの中からいくつかの感情が涸渇している。

 それでも僕は、大切にしたい唯一の感情のために、盗みをやめられない。

 サンシャインビル近くの公園へ入り、ベンチに腰を下ろした。園内に小さな子どもしかいないことを確認して、盗んだ財布をリュックから取り出す。中身を抜き取ると、合計でおよそ六万円になった。

 カード類には一切触れず財布を、ベンチ横のゴミ箱に捨てる。別に金目当てで盗みをしているわけではない……盗みをすること自体が目的だった。

「な、なんで捨てちゃうの?」

 背筋が伸び上がる。

 確かに、背後から声をかけられた。しまった。気をつけていたはずだったけれど油断していたようだ。人の気配にまったく気づかなかった。

 ゆっくりと振り返る。

 小柄な少女が立っていた。

 わずかに口角を上げながら、困り眉で僕を見ている。その表情を確かめ、こころの内に奇妙な自信がうまれる。

「僕の物じゃないから」

 よくわからないようで、彼女は首を傾げた。なんだか拍子抜けだ。僕は肩をすぼめる。

「盗んだんだよ」

 彼女がえ、と笑顔を凍らせる。

「いつも、こういうことしてるの?」

「こういうことって?」

「だから、その、物を盗んだりとか」

 少女がゴミ箱に目を落とす。僕はなんともないふうにただただ、淡泊に、

「そうだよ」

 とこたえた。彼女は眉をひそめ、それからすっかり口をつぐんでしまう。短い髪が風に煽られ、毛先が肩をくすぐっていた。

「だ、だめだよ」

 俯きながら彼女が言う。

「誰かの物を盗っちゃ……だめだよ」

「うん」

 それを視界に捉えつつ、僕はその向こう側を見据え、呟くようにこたえた。

「わかってる」

「わかってない」

 彼女が顔を上げる。焔の付いたような目が僕を捕らえた。

「……寂しいんだよね」

 どくん。

 心を掴まれたような感覚に襲われる、血流が速さを増すのを感じる、右手がいつの間にか拳をつくっている。

 何が?

 お前に何がわかる?

 そう言おうとした時、突然、少女の背後でクラクションが鳴り響いた。はっと我に返る。路上で小さな男の子が立ち竦んでいた。そのわずか数メートル手前にトラックが――

――莉瑠を殺したのもトラックだった。それまでずっと僕は、人が轢かれる光景というのはボーリングのようなものだと思っていた。大きな音をたて盛大に人を跳ね飛ばすものだと思っていた。実際は全然だ。全然違った。鈍い音を響かせ人を圧し潰す。圧し潰された後に、それでもまだ肉体が受け切れていない衝撃が広がって、からだが後方に飛んでいく。その鈍い音が頭の中によみがえる。今からこの音がふたたび世界を覆い尽くすのだ。男の子の姿が莉瑠と重なる。彼女がにこりと笑ったような気がした――

――一瞬の出来事だった。

 金属音が弾ける、トラックがくしゃくしゃに折り畳まれていく、衝撃で窓ガラスが割れる、ホイールの円が歪む、亀裂の入った荷台から赤いうさぎの風船が溢れ出す、ふわふわ宙を舞いながら高く高くへ上っていく。

 僕は目の前の光景に思わず目を見張った。

 少女がトラックにめり込んでうずくまっている。まるでアルミ板に型を抜くように、少女の形にトラックが凹んでいた。

「大丈夫?」

 彼女が、抱えている男の子に話しかける。その子が頷くのを見て、安心したように微笑んだ。その子の服のほこりを叩いて、ひとりで遊ぶときは、気をつけてね、と頭をなでる。

 男の子を見送る彼女の背中を見つめた。服こそ破けてはいるが、からだに傷はひとつも付いていない。

「わたしは兎鷺未夕(うさぎ みゆ)」

「え?」

 フリルの付いたスカートを揺らし、彼女が振り返る。桃色の素足が日に照らされてまぶしい。

「名前。まだ言ってなかったから」

 そして、目を半月の形にして、微笑んだ。

 その笑顔は、どこか莉瑠に似ていたかもしれない。

「……眞紘(まひろ)」

「まひろ。ヒロくんだね」

 よろしく。手を前に突き出し、握手を求められる。

 僕は手を差し出す前に、彼女の顔を一瞥した。

 傷ひとつ無い。人形のように綺麗だ。

「きみは一体……」

 不意に風を切るような音がした。彼女の頭のあたりで軽快な音が響く。彼女が「あたっ」と声をあげてうずくまる。

 見上げると凹んだコーヒー缶が空中でくるくると回転している。あれが彼女に当たったのだろう――

「探したよちょっとォ! 待ち合わせ時間とっくなんだけど!」

 彼女越しに、たなびくポニーテールが見えた。女の子だ。

 すっと目が合う。

「……ん? あんた誰?」

――ベンチ横のゴミ箱にかこぉん、とコーヒー缶が入った。


「あのねぇ。道草をはむ時間がないことくらいわかってるよね」

 事のかくかくしかじかを聞いた彼女は、腕組みをしながら呆れたように嘆息する。

「ひかれそうな男の子。結構。それを助けた。なおよし。それで」

 その間、待ち合わせ場所でボケッと突っ立ってた私に何か言うことはある?

「ご、ごめんなさい」

 兎鷺は申し訳なさそうに頭を下げた。それを見て、

「は。わかったらいいのよ」

 彼女は誇ったように胸を張る。それでもまだ眉間には皺が寄ったままだったが、どこか嬉しそうだった。兎鷺とどのような関係なのだろうか。見たところ、彼女よりいくらか年上のようだけれど。

「迷惑かけたみたいね。じゃ私たち急いでるから」

 そう言い残してポニーテールの少女と兎鷺はどこかへ去っていった。踵を返す前に兎鷺が僕の方を見て「またね」と手を振る。手を振り返そうか迷っているうちに、もう彼女は僕に背を向け歩き出していた。

 トラックから這い出て来た運転手が、あの娘はナニモノなんだと口をあんぐり開けている。そんなの僕が知るかと突っぱね、彼女たちが人混みに溶けていくのをぼうっと眺めた。

 兎鷺未夕。鉄のように硬い彼女の柔らかな笑みを、僕はもう忘れ始めていた。その代わりに、僕の記憶の中にある莉瑠の笑顔が、目の前に浮かんでは消えていくのをずっと繰り返している。

 しかし、なぜだろう。

 彼女とはまた会うことになる。そんな気がするのだ。

 墓参りは気が向いたときにすることにしている。とはいえ一週間に一度は気が向くので、墓まわりは常に整っていた。

 仏花と線香を携えて霊園に入る。柄杓置き場から自分の家の手桶を探して、井戸水を汲む。胃液が食道を遡るような低い音を鳴らしながら、桶に水が注がれる。

 今日はいろいろあったから、こうして気を落ち着かせたいのかもしれない。平日昼間の墓場には独特の空気が流れている。とどまっていると言った方がいいだろうか。まるで外界とは切り離された空間のようだ。

 墓石に水をかける。花を取り替え、線香を横にして添える。

 手を合わせる。目をつむる。

 線香の匂いが鼻を突いた。

 もしも……と考えたことがある。

 もしもあの時僕が、莉瑠の代わりに死んでいたら。

 何かが変わっていただろうか。彼女は今も幸せに生きていただろうか。それとも、僕と死に別れたことでつらい思いをしていただろうか。

 僕はあの日からずっと、自問自答を繰り返し、すり減った問題用紙を眺めながら、鉛筆も握らず、無気力に、ただ世界が時間切れになるのを待っている。

 莉瑠の気持ちなんかこれっぽっちも考えていない、自分勝手な考えだと思うけれど、しかし勝手だと承知の上で、それでも僕は、自分が望んでいることを誰かに許してほしいのだ。

 いつか莉瑠を死なせた償いをしたい、と望んでいることを、許してほしいのだ。

 それが僕を生かしている、ただひとつの理由なんだ。


 霊園を出る頃にはもう、太陽が地平線に触れていた。あたりが橙色に染まっている。僕は積み上げられた卒塔婆を尻目に、帰路に就こうとしていた。そこで異変に気づく。

 ご。

 ごごう。

 おごうごうごう。 

 低い呻りを上げながら地面が振動していた。地震ではなく一定の間隔を置いて揺れている。目の前で空気を震わせ地面が裂ける、粉塵が巻き上がる、墓石を破壊しながら何かが近づいてくる。

 ふと空高くを舞う粉塵の中に何かを見つけた。

 腕だ。

 千切れた腕が空中でくるくると回転している。大きく弧を描きながら、生々しい音とともにアスファルトの上へ叩きつけられる。

 次の瞬間に人ほどの大きさの物体が近くの墓石に突っ込んできた。直列に並んだ墓石がドミノ倒しのようにいくつも砕かれる。鈍い音を立てて細塵が飛び、思わず目を瞑った。顔に小石がいくつも当たる。

 その後に、聞き覚えのある声が耳へ飛び込んできた。

「な、なんであんたがここにいるの」

 目を開くと、そこには昼間のポニーテールの少女が立っていた。右腕が失(な)い。

 右腕が・失い。

「早く逃げて! 死ぬよ!」

 息を切らしながら彼女は言った。その背後で、赤く大きななにかが蠢(うごめ)ている。まるで筋肉が皮膚を突き破って外へ出たかのように、からだや両手、両足が太く張りつめていた。左胸は膨れ上がり、そこから赤い蛍光色の液体がぼたぼたと地面へ滴り落ちている。全身が震え上がる。

 僕にはそれが、見覚えのあるもののように感じられた。

 怪物がゆっくりとからだを動かす。赤黒い頭が回転し、そこにぽっかり開いた暗黒の両眼が、僕をとらえた。怪物が拳を振り上げる――

 隣で彼女が叫んだ。「走れ!」しかし僕は走らない。走れなかった。ああ、やっぱり。こいつは。

 夢に出てきた子犬にそっくりだ。

「なんだ、こんなところにいたのか……莉瑠」

――拳が振り下ろされた。



(つづく)

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『マリオネ・テスタと空欄[K]』 著・亮月冠太朗 / 絵・市川正晶

担当編集:木村 岡嶋

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT

※第二話は、9/28発刊10月号に掲載予定です

作品人気投票はこちら! → https://questant.jp/q/6XEE5JML

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