名称未設定-2

ほうら、ね?

「ねぇ、また今度遊ぼうよ。次は二人で」

「いいけど、彼女いるんじゃなかった?」

「ああ、まぁ。でも大丈夫。そういうのうるさくないし」

「そうなんだ。じゃあ、一つだけ守ってくれたら」

「いいよ。何を?」

 ○

 例えば、こんなにすっきりと晴れた穏やかな春の日は、恋人同士で動物園に出掛けるのがぴったりかもしれない。抜けるような青空にはいくつかの綿飴みたいな雲がぷかりと浮いて、思わず伸びをしたくなる。私はお気に入りの菜の花色のワンピースに身を包み、駅前で彼が来るのを待つ。一時間毎に鐘を打つ仕組みになっている駅前の大時計は、自分の役目を今か今かと待ち侘びる。

「ごめん、待たせた?」

「あ、おはよう。そんなことないよ」

「そっか、じゃあ良かった。行こうか」

「うん。でも、その前に」

「ん?」

 私は男の指をちらりと見て、その指にシルバーのリングがあることを確認する。一〇日前の飲みの席では見かけなかったものだ。男の人のわりにすらりと伸びる五本の指。第二関節が少し目立つけれど、綺麗な指だ。その右手の薬指に光る細身のリング。

「ああ、ちゃんと着けて来たよ」

 彼は笑いながら、見せびらかすように右手を私の前へ持ってくる。こんなに細身のデザインでも、裏側にはきちんとイニシャルが刻印してあるというのだから驚く。

「ありがとう」

 意味合いが曖昧なお礼を彼に言う。

「いや、なんか、むしろごめんね」

 改めて私に「行こうか」と声を掛けた彼の隣に並んで歩き出す。車道側を歩くスマートな優しさに気付きつつ、彼のいる側にクラッチバッグを持つ私は、彼に対して全然優しくない。私たちの背後で、ゴーンと音が鳴る。11時になったのだ。私は今から、何時まで彼といることになるのだろう。目線を斜め上に遣ると彼の首筋が見える。今日一日、これ以上彼に近付くことがなければいいなと思う。

「お昼ご飯、何食べたいとかある?」

「うーん、何にも考えてなかった。どこか行きたい所、ある?」

「そうしたらさ、前に彼女と行ったカフェが近くにあるんだけど、そことかどう? 結構可愛い感じだから気に入ると思うよ」

「じゃあそこにしよう。行ってみたい」

 きっとこの話を聞いていたら、彼女は怒るか悲しむか、何らかの形で自分が傷付いたということを伝えるのだろう。でもそんなこと、私の知ったことではないのだ。彼と彼女の問題は、その二人の間で解決するべきことだから。

「あ、ねえ、一つ聞きたかったことがあるんだけど、良い?」

「うん、良いよ、何?」

「もし嫌な気持ちにさせたらごめんね」

「ん?」

「えーっと、あの噂、本当なのかなって」

「あの噂?」

「あのさ、あれだよ。失礼な言い方かもしれないし、俺にも当てはまってるんだけど……」

 彼が言いづらそうに言葉を濁したので、そこでやっと理解する。

「本当というか、いつの間にか本当にそうなってたというか。私が恋人のいる男の子としか遊ばないってやつでしょ?」

「うん。じゃあ、俺に彼女がいるから今日の誘いも受けてくれたの?」

「さあ、どうだろうね」

 私はバッグを逆手に持ち替える。あと半歩、私と彼の距離が近付けばきっと手の甲が触れるだろう。彼は自分の右手のリングの存在を、最後まで忘れずにいられるだろうか。それとも体温を吸い込んだリングでは生温くて、彼の理性を繋ぎ止める楔にはなれないだろうか。

 ○

 あの子には何の権利があって、私とあの人の関係を切り裂くことが出来たのだろう。今でも時々、考えを巡らす。街を歩いているアベックの全てが恋人同士だなんて、私には到底思えない。兄弟、幼馴染、親友、クラスメイト。様々な関係性の人が隣に並んで歩いているはずなのに。隣にいる異性が必ず恋人でなければいけないだなんて、そんな話は馬鹿げている。そう考える人は、残念ながらあまりにも少ない。だから私への風当たりはどんどんと強くなっていく。

「彼女とのお揃い、着けて来てね」

 男の子と二人で遊ぶときには必ず言う。嫌な女だと思われてもいい。もし私をいけ好かないと思って距離を取るような人がいたら、その人にはもう近付かないだけだから。私はただ、男女の友情は成立するのだと、女の子から恋人を奪うつもりなどないのだと証明したいだけなのだ。恋人のいる男の子の隣で飛び切りの笑顔を見せる。それが浮気だなんて、そんなことで自分の恋人を信用出来なくなる女の子なんて、みんなは何故おかしいと思わないのだろう。

「ごめん」

 あの人が私に最後に残した言葉だ。でも私は謝られる覚えなどなかったし、仮にあの人に悪いところがあったとすれば、それは同時に私にも悪いところがあったはずなのだ。どうして喧嘩もしていないのに、「ごめんね」を言わせてしまったのだろう。友達でいること自体が良くないことだったのだろうか。

 ○

 彼が連れてきてくれたカフェはこぢんまりとしていて、とても居心地の良さそうな所だ。長時間座っていても疲れないようにと、木製の椅子には座布団が敷いてある。テーブルの高さもきちんと考えられているのだろうか。テーブルに肘をついても背中が丸まり過ぎないので、窮屈な感覚を抱かせない。二人掛けのテーブル席が五つにカウンター席が三席という狭さだけれど、オープンキッチンや天窓など空間を広く見せる仕掛けが随所にある。腰を据えて話をするには良い場所かもしれない。素敵な場所を紹介してくれたな、と思う。

「はい、メニュー」

「ありがとう」

 渡されたメニューに目を落とすと、小さなアルバムに料理の写真と説明が閉じ込められている。星やハートが散りばめられた可愛らしいページのデザインは、店主さんの趣味なのだろう。

「何食べる?」

「前に来た時はカレーを食べたけど、すごく美味しかったよ」

「そうなんだ。じゃあカレーにしようかな」

「うーん。俺はパスタにしてみようかな」

 「すみません」と店員さんを呼び止める彼の声は、丁寧な響きを持っていた。横柄な態度にならないようにと、相手を十分に気遣っていることが分かる。店員さんは人懐こい笑顔で対応してくれて、二人を見ている私はほこほこと温かな気持ちになる。店員さんのエプロンに付いている手作りのネームプレートには可愛らしいウサギの絵が描いてあって、そのウサギもにっこりと笑っていた。

「お飲み物は何になさいますか?」

「一つはアイスティーで。どうする?」

「あ、じゃあ私もそれで」

「かしこまりました。お待ちください」

 店員さんがメニューを持ってキッチンの方へと消えて行く。黒いローファーを履いた足を視線だけで追っていると、彼が私に声を掛ける。

「さっきの話に戻ってもいい? 嫌なら全然構わないんだけど」

「別に良いよ。気になるよね」

 思わず笑ってしまう。噂好きなのは何も女の子だけではないのだと実感した。彼は先程から細かな気遣いを見せてくれている。この分だと、彼女は本当に彼の交友関係を束縛しない人なのかもしれない。

「こういうこと、興味本位で聞いちゃいけないのは分かってるんだけどさ」

 好奇心とコミュニケーション上のマナーとの間で葛藤があるのだろう。けれど内面まで大人になりきるにはまだ少し経験や思慮が浅いと見えて、結局私に自分の疑問をぶつけてくる。

「えっと、彼氏はいないんだよね?」

「うん、暫くいないよ」

「彼女のいる男の子を狙って遊んでるの?」

 如何にもこの質問には慣れているといった私の態度に遠慮を削がれたのか、直球で聞いてくる。

「さっきも言ったんだけど、本当に、気付いたらそうなっていたの」

「そうなんだ。そういうものなのかぁ」

「私からも質問していい?」

「うん」

「何で彼女がいるのに、私と遊ぼうと思ったの?」

 彼が私を誘った時から気になっていた。噂に興味があったのは事実なのだろうけれど、それだけで恋人を傷付けるような行動を起こす人には思えない。

「だって俺、男女の友情肯定派だし」

 あまりにもさらりと、彼は言ってのけた。

「え?」

「え? 前に言ってなかったっけ? 男女の友情は成立するって。ほら、たぶん前々回の飲み会の時かな。結構酔っ払ってたみたいだし覚えてないかもしれないけど、力説してたよ。俺もそう思うし、今日のこともきちんと彼女に言ってある」

 呆気にとられて、彼の顔を暫しの間凝視してしまう。

「ん?」

「いや……」

「ていうか、俺が肯定派だからこそ、あの噂が気になったんだよね。友情が成立すると思ってるなら、フリーの奴とも遊ぶんじゃないのかなって」

 ○

 あの人は私に優しかった。それは特別な優しさなんかではなくて、みんなと平等の優しさだった。一つみんなと違ったのは、私と彼の付き合いが長いという点だった。気の合う友達。肩を組んで笑い合えるような、性別を感じさせない友達。

「大人になったらお前とは美味い酒が飲めそうだ」

 私の一八の誕生日に、あの人がくれた電話でそう言った。同級生より少し早くお酒の味を覚えたあの人は、私と飲めるのが楽しみだと朗らかに笑っていた。

「あと二年待ってろよー」

 あの人と話す時、私の言葉遣いは明らかにくだけていた。飲酒は二十歳になってからと親に言い含められていた私は、あの時こんな風に返した気がする。そんな悠長なことをしているとあの人とお酒を飲む機会なんてなくなるよ、と出来ることなら過去の自分に言ってあげたい。

私の二十歳の誕生日にはコンビニでお酒を買って二人で飲もうという約束は、ついぞ果たされなかった。

 ○

 彼が勧めてくれたカレーは確かに美味しい。素揚げされた赤と黄色のパプリカがご飯の上に乗っていて、見た目にも食欲をそそる。じゃがいもの代わりにかぼちゃが煮込まれており、舌の上で溶けるかぼちゃは自然な甘みを残していく。

「ね、美味しいでしょ?」

「うん。かぼちゃの入ってるカレーなんて、初めて食べる」

 美味しいと喜ぶ私を見て、あからさまに嬉しそうな顔をする彼。私はなんだか、足元にいたアリを誤って踏んでしまったような気持ちになる。きっと今日の誘いを断れば、彼女を不安にさせる要素が一つ減るはずだったのだ。女の子は、ただ女の子で在るというだけで女の子の敵になり得る。外見の良し悪しなんて全く関係ない。

「今日のこと、よく彼女さんがオーケーしたね」

「んね。俺も少しびっくりした」

 他人事のように笑いながら話す彼に、私は少し呆れる。しっかりしているのだか、ちゃっかりしているのだか判断が付かない。そんな私の心中など気にせず、彼が続ける。

「でもさ、他の女の子と出掛けるからってすぐ浮気だって言うのは、ちょっと違うと思ってるんだよね。そりゃ、色んな人がいるだろうけど。少なくとも、俺は一回他の女の子と遊びに行ったくらいで愛想尽かされるような付き合い方はしてないつもりだよ」

 それを自信満々に言うのは是非ともこの場だけにしておいた方がいい、というアドバイスをアイスティーと共に流し込む。このカップルの未来は私の助言によって決められてはならない。ただ、今の彼の発言で分かったことがある。私は今日、靴を脱ぐことなく家に帰れるということ。

「私もそう思う」

 はっきりとした共感を持って応える。

「男女の友情なんて、何にも難しいことじゃないのにね」

 言いながらパスタをフォークに巻きつける彼。自然にそう思えていた頃の自分が懐かしい。今ではこんなにも頑なに信じていないと、友情という言葉の存在ですら疑いそうになるのに。

「そうだよね。全然、難しくなんかないのにね」

 私は今日も、半分の可能性に賭けてきた。過去に遊んだ男の子たちは、多くがその半分を選んでくれた。けれどもほんの何人かだけはもう半分の、友情の延長線を私に求めた。その度にペアのアクセサリーを指さして私は言った。「彼女、いるでしょ?」。私が簡単だと思い込んでいた純粋な友情は、男の子によって守られていたのだと今の私ならもう知っている。

 パプリカの表面が艶めいていて、鮮やかな色が目に染みてくる。これから先、もしも彼と疎遠になってしまうことがあったとしても、この赤と黄色だけは忘れないかもしれない。

 ○

「俺らって友達じゃん?」

「どうしたの今更。友達以外になんて言うのさ」

「んー。親友とか?」

「それがあったか。いやでも、親友とかそういう括り方はなんか嫌だな」

「なんだそれ。あ、でもなんとなく分かるかも」

「でしょ?」

「俺らが友達じゃなくなる日とか来るのかな」

「はぁ?」

「ないか」

「ないっしょ。あったとしてもそんなの、地球が真っ二つに割れるくらいの確率でしょ」

「だよな。腐れ縁って怖いわぁ」

 地球は今日も真っ二つになんか割れていないけれど、私たちは友達ではなくなった。人との縁なんて案外簡単に切れるものだと知ったのは一九の夏のことだった。

 ○

 ご飯を食べ終えて話をしていると、彼の携帯が震えた。私は少し身構えるけれど、彼は通知を無視するように会話を続ける。

「携帯、良いの?」

「たぶん彼女だし良いよ」

「それ一番良くないでしょ」

 天然でこんなことを言っているのだろうか。少し心配になる。もう大人の年齢なのだから自分の考えに基づいて行動しているのだろうけれど、彼女が聞いていたら烈火の如く怒りをぶちまけられてもおかしくはない。

「せっかく人と遊んでるのに、自分にとって近い人との連絡を優先するのもどうかなって」

「言ってることは理解出来るけど」

 ふと、彼女はこういう所を好きになったのかもしれないと考える。今向き合っている相手に、自分の中で一番誠実な態度を示そうとする努力。もしそうなのだとしたら、カップル揃って人間が出来ている。ちょっとやそっとでは信頼にひびが入ることもないのだろう。率直に羨ましい。空になったアイスティーのグラスには氷が残っていて、天窓から入ってくる正午過ぎの日差しを受けて汗をかいている。今日は本当に良い天気だ。

「良い天気だねぇ。動物園行きたくなる」

「良いね。二駅先だし行ってみる?」

「え、良いよ。今度彼女さんと行きなよ」

 自分の失言に気付き、慌てて断る。今の言い方では、連れて行って欲しいとねだっているようなものだ。

「そんなに俺の彼女のこと気にしなくてもいいのに」

「そういうわけにはいかないでしょ。あんな噂があるけど、私だって本当は普通の神経の持ち主だから」

「だって今日誘ったのは俺だし」

 そういうことではないのだ。友情が友情のまま完結するためには、彼女に不快感を与えたとしても、弁解出来るだけの余地を残しておかなければならない。ご飯は良いけど動物園は駄目。車の移動は駄目だけど公共機関の移動なら良い。「私たちは友達である」という主張を受け入れてもらえる線引きをする。男の子と過ちを犯さずに遊ぶことが出来るのだと、私は示さなければならない。

「とりあえず今日は止そう」

「そう? じゃあこの後どうしようか」

 時刻はまだ一三時にもなっていなくて、このまま帰るには惜しい気もする。私から提案出来るような場所もなくて考え込んでしまう。

「じゃあさ、俺の買い物付き合ってよ」

「あ、いいよ。もちろん」

「ありがと。それじゃあ行こうか」

 立ち上がるよりも先にさりげなく伝票を手に取る。視線を流して自分の食べた分の値段を確認する。

「いいよ、俺が払うよ。大した値段じゃないし」

 彼が私の方へ手を伸ばすが、私はやんわりと断る。前に誰かが言っていた。男は何の興味もない女にはお金を出さないと。その真偽は定かではないが、それ以降私は気軽に男の子に奢ってもらわなくなった。

「割り勘にさせてよ。楽しい食事だったから私も払いたい」

 この言葉に嘘はなくて、今日のランチは本当に楽しかった。でも、「だから払いたい」というよりは、やっぱり私は怖いのだと思う。男の子に男の子的な振る舞いをさせてしまうことが。お金を払ってもらうというのは特別な行為で、それを受け取ってしまったら自分も何かを返さなくてはならない気がするのだ。

「じゃあ有り難く割り勘にさせてもらうね。確かにその方が、お互い何も気にしなくて済むもんね」

「うん。それでよろしく」

 ○

「えー、これくらい奢ってよ」

「お前ね、俺が沢山バイトしてるからってたかるのは良くないよ?」

「言い方の問題だよね。私は格好付けさせてあげてるの」

 やれやれ顔で財布を取り出したあの人は、私に向かってあからさまに溜息を吐いた。

「ごちそうさまでーす」

「心が込められてないんだけど」

 黒い長財布で私の頭を叩くと、先にお店から出て行ってしまった。その背中に抱き着きたいと思ったことは一度もなくて、それなのに私はその背中の温度を知っていた。自転車で二人乗りをして帰る時は、必ずあの人がペダルを漕いだ。私は背中にしがみつき、時にはその背中に額までくっつけて、自分の家が近付くのを待った。少し乱暴な漕ぎ方をするのにバランスを崩したことはなくて、腕の良いタクシードライバーだと良く褒めたものだった。

「あんまり調子の良いことばっかり言ってると振り落すぞ」

 そんな言葉は無視をして、私はあの人の後ろで眠いだの寒いだのと文句ばかり垂れていた。

「ったく、手の掛かる御嬢様だこと」

「褒め言葉? ありがとう」

「どうとでも受け取ってくれ」

 今となっては、自転車で二人乗りをして家まで送ってくれる人はいなくなってしまった。腕の良いタクシードライバーだったあの人は大学一年の夏から教習所に通い始めたから、今ならきっと車で送ってくれていたはずだ。助手席には、一人の女の子しか乗せていないのだろうか。

 ○

「どっちの方がいいかなぁ」

 鏡に向かって緑のシャツと青のシャツを交互に合わせる彼。その横顔の印象は初めて出会った日と何にも変わっていなくて、私は安心する。耳の付け根から顎にかけてのラインが綺麗だ。こんな傾斜の滑り台があれば、気持ちよく風を受けて滑ることが出来る気がする。

「ねぇ、どっちの方が似合う?」

 私は先程から青が似合うと思っていた。今日の空の色とそっくりな清々しい青色のシャツ。

「んー、どっちかな。どっちも似合うと思うけど」

「えー、更に迷うようなこと言わないでよ」

 男の人にしては少し優柔不断なようで、自分では決めきれないでいる様子。似合うと言われる方を買いたいのだろうけれど、ここで私は甘やかさない。彼がこのシャツを着て会う人間は私ではないのだ。そしてその人物は、他の女が選んだ洋服で会うことなど望んではいないはずだ。

「どっちの色も持ってないの?」

「いや、青は持ってた気がする。これとは少し色が違うけど」

「じゃあ、持ってない方買ってみたら?」

「うーん、そうだな。そうするか」

 ちょっと待っててと言い残しレジに向かう彼の背中は全然丸まっていない。触れたらきっと熱を持っていて、冷え性の私の指先はじんわりとほぐれていくのだろう。男の子の体はどこを触っても温かくて、昔は背中や、腕や、首筋を触って自分の指を温めたものだった。彼の指に光るシルバーのリングを思い出して、自分の記憶を制御する。傍にあったガラスの陳列棚に触れてみるとぶっきらぼうな温かさを感じた。冷たいのだろうと思って触れたから、物質の不意打ちの優しさに驚く。

「お待たせ」

「いえいえ」

 腕時計を見ると一六時を指している。数十秒前に思い描いた彼の右手のリングに目を遣ると、駅前で見せてくれた時よりも輝きが増しているように見える。今日はとても楽しい日だった。

「そろそろ帰ろっか」

「そうだね。買い物まで付き合わせちゃってごめんね。駅まで送るよ」

「ありがとう」

 私の右側を歩き始める彼は右手に荷物を持っている。左手でバッグを持っていた私も右手に持ち替えて駅までの道を歩き出す。太陽はようやく沈む準備を始めたばかりで、私たちの影はまだいくらも伸びていない。彼氏の浮気を心配する女の子たちにこの状況を見せびらかしたくなる私は、やっぱり「恋人のいる男の子としか遊ばない女の子」なのだろうか。

 ○

 あの人は指にも、首にも、耳にも、腕にも、自分が誰かのものであるという証を着けていなかった。だから最初は気が付かなかったのだ。いつもと同じ距離で笑い合って、ちょっかいを出して、文句を言う関係を終わらせなければいけないことに。

「ごめん」

「何で謝るの? たぶんね、私が悪いんだよ」

 そう、たぶんだけれど、私が悪いのだ。大人になるにつれて大切な人の人数は増えていくし、異性として大事にしたい人も出来るものだし、でも人間の腕の長さや胸の広さには限りがあって、欲張り過ぎると誰かが零れ落ちてしまうのだ。友情に亀裂が入ったわけではない。ただ、仕方がなかった。私もあの人も、互いのことを異性として大切になど出来ないのだから。それをするにはあまりにもお互いのことを知り過ぎて、見せ過ぎて、近付き過ぎた。

「彼女は結構前からいたんだけど、でも今更お前に言うのも照れ臭いし、遠慮させるのも嫌だなって思ったし、何より、俺が今まで通りでいたかったんだよ」

「うん」

「でも、やっぱり、彼女はそれを快く思えないみたいで。そりゃ、考えてみたらそうなんだけど」

「うん」

「お前といるとさ、すごく楽なんだよ。下心なんて抱かないからドキドキすることもないし、俺ら二人のノリもあるじゃん?」

「うん」

「だけどさ、やっぱり今は彼女が一番大切で、あいつが嫌だって言ってきたからには、お前ともそろそろ離れなきゃいけないんだろうなぁって」

「うん」

「ごめん」

「ううん。私がもっと早く、気付けたら良かったね。彼女さんも本当は、そんなこと言いたくはなかったと思うし。わざわざありがとね。フェードアウトされるよりずっと良い」

「……俺ら本当に何にもないのにな」

「男女の友情って、そんなに難しいことなのかな」

「俺らには簡単だったのにな」

 そうか、「私たちには」簡単だっただけなのか。あの人に言われてからようやく知ったことだった。私たちの世界は私たちだけで完結していた。しかしそこに他人が一人でも入ってきてしまうと、途端に歯車が合わなくなるのだ。合わなくなった歯車は、やがて取り外されて、新しく合う歯車と交換される。私は、取り外されたのだ。

 ○

「今日はありがとう。楽しかった」

「こちらこそ。来てくれてありがとうね」

 今日の私たちの一日を、デートと呼ぶ人はどのくらいいるのか。駅前の大時計は三〇分前に鐘を打っており、暫く鳴ることはない。次に鐘が打たれる時、私は自宅の最寄り駅に着いているだろう。

「じゃあ、またね」

「おう、またみんなで飲もうな」

 右手を振る彼は、薬指のリングなどなんともないという顔をしている。事実そうなのだろう。一〇日前の飲み会でリングを身に着けていなかったのは、彼女と一緒にクリーニングに出したからだと言っていた。理性云々の前に、彼は私のことを友達としか見ていない。一七時を前に解散する男女がいると、みんなは何故信じてくれないのだろう。

 ○

 私が男の子と二人で遊んだ日に、あの人と彼女が並んで歩いている姿を目撃したことがあった。幸せそうな後ろ姿を暫し見守っていたが、彼女に対して私が嫉妬心など抱くはずがなかった。あの人と過ごした日常には、何の汚れもなかったのだから。あの人は私を、妹のように守ってくれていただけなのだから。私はその日に遊んだ男の子とも、昼に食事をして夕方には解散していた。その日以来、私は自宅の最寄りに着くと小さく呟く。あの人の彼女の背中を思い出して。

「ほうら、ね?」

 友情に、異性も同性も関係ないんだよ?

                                終


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『ほうら、ね?』 著・きゆ / 絵・いちまつ

編集・日本大学芸術学部文芸学科 非公認サークルKMIT

月刊エトランゼ第12刊5月号 掲載

この作品は読切です。

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