プリンと星とロープワイド

プリンと星とロープ

著:高岡はる



 柚子吉の三回忌をしようと言ったのは姉の悠で、肌寒さが残る三月の上旬のことだった。

「夕方の四時からにしようと思っているから、それまでには帰ってきてね。」

 そもそも三回忌って、一回忌もしたことが無いと言うのに、どういう心境の変化だろうか。柚子吉は、父が拾ってきた犬だ。毛並みはこげ茶でツヤがあり、家の庭になっている柚子の木を、大変気に入っていた。その途端懐かしい気持ちとは反対に、ひどく黒くて暗い感情が胸を覆う。

「俺はやらない」

「だめよ。そんなの」

 あっさりと俺の意見は否定されてしまった。目を合わせると、悠の黒い瞳が、逃げるなと訴えかけてくる。こうなればどんな言い訳も通用しない。それに反発するかのように、自分の心はどんどん卑屈になってしまう。

「とにかく、俺はやらないから」

「じゃあ、父さんと、母さんに、渉が不登校児だって言っても良いのね?」

「勝手にすれば?」

 吐き捨てるように言って、俺は家をでた。それがばれた方がまだマシだと思う。しばらく歩くと外気のおかげか、心も幾分か落ち着いてきた。それと同時に姉の考えもだんだん読めてくる。きっと柚子吉の三回忌は唯の口実でしかない。事の真相はべつにあるのだ。

 家からまっすぐに歩き続けていくと、目の前にコンビニが見えてくる。夏も終わりかけているせいか、半袖に学校ジャージだと肌寒い。何か温まるものが欲しい。少し早足で、コンビニの中に入っていった。

 いらっしゃいませ。平日のお昼時のせいか、店員二人は中年のおばさんが働いていた。客と言ったら雑誌コーナーで、成人漫画を読んでいるサラリーマンが一人いるだけだった。なんだかこの空間だけが社会の枠から離脱でもしているかのように静かだった。入ってすぐ右横のホットドリンクだけを置いているウインドウケースから、エメマンのブラックを取り出す。あれ、そういや俺、小銭持ってたっけ? 慌ててジャージのポケットをまさぐると、ぐちゃぐちゃになったレシート数枚に五百円玉が一つ出てきた。

 よかった、ツイてる。そのままレジに持って行き、会計を済ませようと、割と恰幅が良い方のおばさんに渡す。すると横目に何かが見えた。それが何であるか、心のどこかでわかっているはずなのに、瞳は構わず「それ」に的を絞って、ゆっくりと物を確認しようとする。いけない。頭が警報を鳴らす。けれどもう遅い。俺はレジ横にあるデザートコーナーのプリンをしっかりと見つけてしまった。その瞬間、体の頭から電流を浴びたように、抑えていた記憶が体中に駆け巡る。

「お客様?」

「すいません。え、えと」

「全部で百二十五円になります」

 五百円玉を握っていてた手が汗ばんでいた。支払いを済ませ、俺はコンビニを後にした。都営が並ぶ通りに、さびれた公園がある。そこのベンチに腰掛けた。汗が急に出たり、引いたりしたから、体が冷えている。コンビニ袋からエメマンを取り出した。プルトップのかぎ爪に指を引っ掛け、フタを開ける。口にいれると苦く癖のある味が口を覆い、のどをつたわって腹の中におさまっていくのがわかった。少し温かい。けれどその苦さは、自分の収集できない感情を沸き起こさせる。佳苗が自室で首吊り自殺を図ったのは、柚子吉が死ぬ一週間後の出来事だった。

 俺の両親は昔から海外で働いていて、小さい頃は五つ先の家に住む加藤夫妻が面倒を見てくれていた。佳苗はその家の子供だった。俺と佳苗は二つ違いで、年は佳苗の方が下だ。成長していくにつれて、八歳年上の悠は学校の友達との約束やら部活なんかで、三人一緒に遊ぶ事はなくなってしまったが、佳苗と俺は週末や長期休みは殆ど一緒に過ごしていた。お互い通っている学校も別々で、中学、高校で特有の思春期はあったが、この関係が変わることはなかった。

 週末には必ず、佳苗が作った、甘すぎて少しいびつな形をしたプリンを彼女の家で食べる。口の中いっぱいに、牛乳とバニラの香りが広がっていくのが特徴的で、俺の大好物だった。夏休みになると自転車で近くの田園地帯まで走り、星なんかを見に行く。町内くじの景品で当てた安っぽいレジャーシートの上に寝転んで、ただ黙ってそこに広がる光景を眺める。お互い図鑑を見ながら、星の観察なんてする性格ではなかったけれど、目の前に広がる光景は、自分が住んでいる世界よりももっと巨大で、何か力強いものがあるようにと思えてきて、ただ圧倒されていた。佳苗はあの時何を思っていたんだろう。今となっては知るすべがない。「もう少し近くで見たい」という佳苗の一言で安い望遠鏡を夏休み最後に二人で買いに行った事もある。お互い進路や将来に漠然とした不安を持ち始めた三月に入っても、週末は佳苗と過ごしていた。自殺する一週間前でさえ、家でくだらない話をして一緒に笑っていたのだ。

 精神科医の診断で「受験に対するノイローゼ」と佳苗の死後、診断された。驚いた。死んだ人間は一言で表されて、処理されていく。きっと関係者以外は理由付けを作業の一環として探すのだ。いじめに対する問題も、遺書も見つからなかった。警察や学校関係者とのやりとりは、そう長くは続かなかったけれど、事情聴取は悠や俺の方までやってきた。

「君は加藤佳苗さんとは、どういう関係だったんだい?」

 事情聴取をする警察官の顔は、のっぺりした目と鼻が、楕円の中にくっついているように見えた。口だけがひどく赤くて、発する言葉は撫でるように優しかった。

「うまく、言えないです」

「どんな些細なことでも教えて欲しいんだけど、どうかな?」

 じりじりと、錆びたエアコンが音を立ててかかっている。そのせいか頭がしびれて、佳苗の顔すらまともに思い出せない。灰色がかった電灯が、いびつな白色の灯りを放っている。だんだんと俺は自分が感じていたものが信じられなくなっていった。本当は佳苗という人間を何一つ知らなかったんじゃないだろうか。

「ごめんなさい。分からないです」

「佳苗さんと渉くんは、友達だったんじゃないのかい?」

 鉛で頭を叩かれたのではないかと思った。俺は最低だ。何の責任感もなく、一人で家にいる寂しさを紛らわせたいから佳苗といたことにその時初めて気がついた。唇を噛みしめるとじわりと、血の味がした。加藤佳苗は首を吊って死にました。シニマシタ。俺と佳苗は友達でした。トモダチデシタ。

「いえ、違うと思います」

 家に返してもらったのは、夜も深まった頃だった。玄関には悠がいて、俺の帰りを待っていた。リビングには話を聞きつけた両親が待っていて、何か声をかけてくれていたが、よく思い出せない。葬式にも怖くて行けなかった。物思いからさめると、すでに時計は六時を回っている。公園の電灯はちかちかと何度か点滅すると、科学的に作られた光を放った。佳苗はきっとあの家にいて、休日に行けばあのプリンが食べれる。学校であった下らない話をして、馬鹿みたいに声を上げて一緒に笑う。おばさんが作ってくれた夕飯をたらふく食べて、星でもまた見に行きたい。年を重ねても、佳苗は十七歳のまま、瞳の奥で笑っている。それが何より悲しかった。

 

「遅いよ」

 帰った途端、第一声がそれだった。悠は居間の窓辺に寄りかかり、足だけを庭に突き出していた。

「ごめん」

 別にいいよ、と小さく笑う悠の手元にはコンビニにあったのと同じ銘柄のプリンがあった。

「本当は佳苗の三回忌なんだろう?」

「柚子吉と、よ」

 朝に買ったプリンを口に入れれば、

「佳ちゃんの方が甘いわね」

 と言うと食べるのを止めてしまった。外は陽が落ちて悠の表情もよく解らない。ふと庭を見ると、以前使っていた柚子吉用の犬小屋が脇に置いてあった。屋根の部分がすすけて、色も褪せている。三年間一度も開けていない物置小屋の望遠鏡にもレンズに埃が溜まり、きっと星なんか見えない。

「なあ、悠」

「何」

 何もかもが薄ぼんやりとしか見えないけれど、悠が俺を見つめているのはわかる。

「柚子吉も佳苗も死んじゃったんだな」

「佳ちゃんは、三年前の今日に、柚子吉はその一週間前にね」

「そっか」

 佳苗はいなくなってしまった。

「もう、随分と昔の様に思えるわね」

 そうだろうか、悠のなかでは、犬小屋や、望遠鏡の様に佳苗の記憶も明確には思い出せなくなっているのかもしれない。三年は長い、痛みや悲しみは年月を経て和らいでいく。それでも俺は思い出さずにはいられなかった

 プリンを食べた佳苗のはにかんだ顔や、好きな服や色、クリーム色に染めた髪、人が星になり世界を旅する絵本がすきだったこと、帰り際には、バイバイでもさよならでもなくて、またねっていうこと、別れが嫌いなくせに見送る度胸もないからきっと自殺なんかしてしまったのだ。知っていながら、止め様としなかった三年前の俺も佳苗のことも、全て覚えている。一日も思い出さない日なんかなかった。どこか遠くで小さい子の泣き声が聞こえてくる。

「そういえば、佳ちゃんに口止めされていたことがあったんだ」

「は、何それ。初耳」

「もう時効だと思うから言うけどさ、佳ちゃんて、実は甘い物嫌いだったんだよね」

「え、そうなの?」

「うん。他にもね・・・」

 知らなかった。新事実を聞かされるうちに腹の底から笑いが込み上げてきた。十五年間黙っていようとしていた佳苗やそれに気付かなかった俺に対しても、遠慮や恥などとうに無い物だと思っていたのに。

「ずっと一緒にいたのにな」

「なかなか、全部は解らないわよ」

「はは、そうだな。」

「あと、おばさんがまた夕飯食べに来ないかって」

「は、どこのおばさん?」

 尋ねると、悠は呆れたような目つきをこちらに向けながら、ため息をついた。

「おばさんって言ったら、加藤おばさんしかいないでしょう?」

「え、連絡取ってたの?」

「まあね。あんたと違って、私は社交的なのよ」

 知らなかったでしょう。にやりと笑う悠は、自信で溢れていてかっこよかった。俺は何一つ関わろうとしてこなかったことに今更ながら気がついた。一人だけ時間が止まったように思っていたけれど、それは違うのだ。

 佳苗の秘密も、自殺の原因もなぜそうする必要があったのか今はまだ解らない。でもいつか、少しはそれを理解する日が来るのだろうか。もしそうだとしたら、立ち止まっているわけにはいかないのかもしれない。あいつとまた会って、文句を言うにはこのままでは余りに格好が悪い。そろそろこれも潮時なのだろう。

「線香さ、柚子とバニラ両方買ったから、どっち先に火を着ける?」

 だから俺は進む事にするよ。明日は物置を整理して、墓参りにでも行こう。

「どっちも臭い、凄そうだな」

「じゃあ最初は柚子ね」

 線香の先がオレンジ色に光っている。それを星が小さく照らしていた。

 


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『プリンと星とロープ』 著:高岡はる

担当編集:水井くま

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT

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