秋の作品発表会

Kmit秋の作品発表会2016(前編)

12月初めに行った作品発表会の小説を公開します。

テーマは三大噺「トランプ」「毛糸」「みち(漢字変換自由)」、分量は2000字程度です。




①貴方は私の大富豪     カザリ

 手元に残ったトランプはスペードの3とジョーカー。こういう時、私はなんとなくジョーカーを手元に残す。いや、なんとなくだと語弊があるかもしれない。ただ自分に抗えないが故にジョーカーを手放すことができないのだ。しかし、これが私にとって少しでも幸せになるための方法。残念ながら今の私にはこうすることしかできない。そんな私を見て貴方は「君の負けだね」と満足そうに笑う。

 

 金曜日。それは私にとって週にたった一度のご褒美の日。

 気づいた時にば下校時間はとっくに過ぎ、学校は夜の色に染まりはじめていた。同時に至福の時の始まりを意味する。

 貴方は私の大富豪。窓の外で散らつき始めた白い雪をぼんやり眺めながら今日も貴方を待つ。

 私も人のことは言えないけれど、貴方は酷な人間だから来ないなんてことはないだろう。ほら、聞こえてきた。廊下に響き渡る軽薄な足音は

「やあ」

 間違いなく貴方だ。

 扉が開くと同時に私はそばに置いてあった紙袋をとっさに隠す。

「待ちくたびれた」

「凛子、今日も僕を待っていたの? 嬉しいな」

 そう言いながら教室の扉を閉めてこちらに近づいてくる。私の隣に座った貴方は何も言わずに頭を私の肩に乗せた。稀に見る甘えは不器用さをこじらしてできたものだ。これでも長い間一緒にいる。何があったのか追求すれば嫌がることもわかっていたし、貴方が口を開くまでは私も大人しくしていようと思った。伸びてきた温かい手によって自由を奪われ、突如として貴方の服の甘い匂いに包まれた。その瞬間、必死に押さえ込んでいた欲望の波が溢れ出す。

 貴方が好き、私を見て。

 気持ちが行動に出てしまいそうになる寸前で私は貴方を優しく押し返して言った。

「さあ、大富豪をしましょう」

 

 目の前でトランプを手に貴方は

「やっぱり君は強いね」

 と、悔しそうに呟いた。普段冷静に物事を判断し周りの人間を見下している人が、大貧民という立場で頭を抱え悩んでいるところを見ると実に心地がいい。私は優越感に浸りながら思わず笑みをこぼす。

 しかし、貴方は余裕のある私が気に食わなくて言いだすだ。

「次、君が勝ったら終わりにしよう」

 はたから見ればただの我儘だ。動じる必要もない。無論、言うことを聞く必要もない。しかし、この一言だけで私の足元はあっけなく崩れ始める。気づいた時にはジョーカーが一枚手元に残っている。絶大な強さを持っているはずのカードが突如として弱くなる瞬間だ。

「何が欲しい?」

 元々二人でやっているゲームとはいえ、貴方は大富豪。大貧民は大富豪のいいなりになるほかない。

「わかってるくせに」

 貴方においでと言われて抗えるはずもない。私は素直にその手をとった。

 

 毎日当たり前のように学校に来て、当たり前のように授業を受けて。そうすれば、自然と仲間ができて親友ができて、もしかしたらその延長線で恋人と呼べる存在に恵まれるかもしれない。この世間的な「当たり前」を否定した時、共感してくれる人は何人いるのだろう。多数の人が異端者を見るような目を向けるのではないだろうか。私たちはそのつまらない日常にかつて面白さを求めていた。まだまだ子供だった私はそんな一般常識に反抗してみたかった。同年代の人間より一歩先の世界に飛び込んでみたかった。最初は本当にそれだけの理由だったと思う。

 やがて私たちの間に沈黙が戻ってきた時、思い出したように貴方は言った。

「そういえば、今日、一年記念日なんだって」

 それは、私にとって忌々しい日。きっとその話を始めれば貴方は私から離れてしまう。知っていながら敢えて触れていなかった。

「記念とかそんなの気にしてどうするんだろうね。僕には重たいや」

 曖昧な関係を続けてきた私たち。好きな時にお互いを求め、飽きたら何事もなかったかのように離れていく。そんな貴方にある日突然想い人ができた、と淡々と告げられた。私は、ごく普通の会話の一部に埋め込まれたその事実に衝撃、動揺そして消失感を味わった。そして、気づいてたときには遅かった自分の想い。だから、後悔する前に私はそっと身を引こうと決心していた。しかし、その後も気まぐれな貴方は私を求めた。元々、曖昧だった私たちだったはずが、すでに切っても切れない繋がりを作り上げてしまっていたのだ。そう気がつくのにあまり時間は要さなかった。初めは遠ざけようと必死だったけれど、私はいつしか逃げられなくなっていた。

「その割には彼女のこと溺愛してるじゃない」

 皮肉にも動じず悪戯に笑う貴方を私は憎めない。

「そろそろ帰ろうか」

 貴方は私の手を取り歩き出す。刻一刻とお別れの時間が近づいているのが嫌でもわかる。私を置いて貴方は愛する人の所へ行ってしまう。

 やがて、たどり着いた分かれ道、目指す場所は反対の道。「じゃあね」と一言だけ残して離れていく手。同時に貴方の気持ちは私から離れていった。

 まっすぐ貴方が進んでいく道は私の望む道ではない。でも、呼び止められるはずもなく、ただただ彼に背を向けることしかできない。

「ああ、そうだ」

 いつもはない展開に持っていた紙袋が音を立てて地面に落ちる。もしかしたら、という小さな期待が生まれて心臓の高まりが収まらない。私が振り向く前に貴方は言った。

「僕、君のことも好きだよ? 凛子」

 背後からぶつけられたその言葉は私を惑わせる。今、貴方はどんな顔をしている? 貴方から離れられない私を嘲笑っている? それとも。

 足元に視線を移すと、落ちている紙袋の中身が顔を覗かしていた。貴方に似合うと思って編んだ真っ赤な毛糸のマフラー。切ろうと思っても簡単には切れない毛糸のマフラーで貴方を縛り付けてやりたい。でも、私にそんな勇気はなかった。

 私はマフラーを手に取り抱きしめ一人呟いた。

「私も」

 貴方にこの言葉は届かない。

 

 私の運命は都落ち。

 これからもきっと私は貴方の大貧民。

 


②ギフト     水菓子

 二十歳になって大人への一歩を踏み出したというのに、私は人生のどん底に陥っていた。それもこれもすべて大学内の人間関係のせいであって、今こうしてバーのカウンターに居座っているのも、何か心のよりどころを探している気がした。

 ぼさぼさの髪のまま頬杖をついて、カクテルグラスの底を見つめる。

「お客様、お飲み物の方どうされますか?」

 適当にチョイスして入ったこの店の居心地は、初めてにしてはかなり落ち着いた。目の前にいるマスターに思わず吐露したくなるのをこらえて、私は同じものを頼む。透き通るようなピンク色で満たされる二杯目のグラスに、ただただ目を奪われた。

 再び口に運んだとき、マスターが皿を拭きながら楽しそうに言い出した。

「今夜も始まりますよ」

 途端に店内が歓声に包まれると、仮面をつけた青年がどこからともなく現れ、テーブル席に座っていた若い男女へ一礼する。そして胸元から取り出したトランプを滑らかに宙で混ぜテーブルに広げると、女性が遠慮がちにそこから一枚取った。私はそこまで観て、これはテレビでよくある選んだトランプを当てるマジックだ、と思った。仮面の下でずっと笑みを浮かべる彼を背に、カクテルグラスを持ち直す。

「彼、お客様と同じくらいの若い方なんですよ。うちではもう二年になりますか……ずっとああやって楽しませてくれて、ここへ来たお客様は必ず笑顔でまた来たいと言ってくれるんです」

 私はマスターのその言葉に、今度は場所を移してマジックを披露している彼を見た。

 ――人を笑顔にさせる、か。

 ほんの少し、羨ましかった。

 テーブル席の方から一斉に拍手が起こると、客たちはより一層楽しそうに会話し始めた。

 おそらく彼のマジックの話題で盛り上がっているのだろう。私は残り少ないカクテルをぐっと飲み干した。

「お嬢さん、こんな夜更けにお一人?」

 背後からの安定感ある声に、咄嗟に振り向く。そこには仮面をつけた彼が立っていて、そのまま私の隣に座った。意外と近い距離に少しだけ身を引く。

「……やっぱり」

 彼は私の顔を覗き込むなり、口角を上げて笑った。不審な目を向ける私を置いて、余裕そうにちらと仮面の下の素顔を見せる。私はその顔を見た途端、思わず口に手を当ててしまった。

「こういうところ来るんだね、全然そんなふうに見えないのに意外」

 彼は大学の同輩だった。

 私が彼に抱いた第一印象は、真面目でしっかり者の頼れる人だった。どんなことも率先して取り組み、それでいて繊細な部分がある。こういう場所で人を楽しませる仕事をしているとはまったくもって想像つかなかったわけだ。目の前の彼を理解できないうちに、彼は見事な手つきでトランプを切り始め、流れるように一列に広げる。

「好きなカードを一枚選んでください。その選んだカードにこれで自分の名前を書いて」

 渡されたマジックペンで、カードの表に申し訳なく名前を書く。

「これ、書いたカードって処分しちゃうの?」

「ふふっ、せかすなって」

 言いながら彼もまた私と同じようにカードに自分の名前を書くと、それを四つに折り、口にくわえた。そして同様にするよう私に指示し、それに遠慮がちに従う様子を見てから、彼は自分の口を指差す。するとそこから白い煙が左右に漏れ出し、びっくりした私はカードをくわえたまま思わず目を丸くした。それも束の間、彼は口からカードを放してもう一度開く。だがそれは今私がくわえているはずの、私の名前が書かれたカードだった。とすると、今この瞬間まで一瞬たりとも放さなかったこのカードは――。

 開いてみて、そう目で言う彼に、恐る恐るカードを開いた。そこには案の定、彼の名前が書かれている。お互いのカードの入れ替わりに驚きを隠せない私に、彼は得意げにつけ加えた。

「このマジックの名前、『フレンチ・キス』って言うんだって」

 

 

 あの夜の帰り道、途中まで送ってくれた彼にずっと心臓が鳴り止まなかったのは、まだ慣れないお酒を飲みすぎたせいだ。処分するのはもったいないからと、彼の名前の入ったカードと一緒に貰った二枚のトランプをずっと手に持っていた。

 それから彼とは、大学内でも度々顔を合わせるようになった。授業の始まる前、並んで座った講義室で大きく溜め息をつく私を、今日も横で微笑んでいる。

「大丈夫? また面倒なこと?」

「そう……。ごめん、心配かけて」

「それだけ努力してるってことだよ。まぁ、背負い込みすぎないでね」

 言いながら彼は、鞄の中から三十センチほどの白い毛糸を取り出す。何をするのかと目を向けると、その手つきに思わず見とれていた。親指と人差し指で毛糸をねじるようにまとめ、完全に手の中に含めると、再び開いたそこに小さな白い手袋を現した。それは一瞬にして手袋を編み上げてしまったような魔法で、私はただただ驚き関心するばかりだった。

「え、毛糸はどこにいったの?」

「手袋になっちゃいました。はい、あげる」

 にこやかに手渡す彼に、私は咄嗟にありがとう、と受け取る。改めて触れてみても、それはどこからどう見ても実在する編んだ小さな手袋だ。ほのかな温もりと可愛らしさに不思議と顔がほころぶ。

 ――あ。

 今、私は心から笑っている。実感したとき、隣でいつものように笑う彼が特別な存在に見えた。

 

 

 彼は素顔を隠した仮面の下で、私だけの知る微笑みを世界中の人に振りまいている。その姿は、驚きと楽しさと幸せが詰まったプレゼントを配るサンタのようで、忘れかけた子供心をくすぐった。私はもう、彼からの誰よりも特別なプレゼントをたくさん開けてきたけれど、左手の薬指にはめているこの指輪はどんなプレゼントよりも嬉しかった。

 いつの日も私の進む道を照らしてくれた彼は、今、スポットライトを浴びてステージに立つ。



③アンチボディ     霧原礼華

 時代は奇病を育てる。

 衛生管理が徹底された現代では、細菌やウイルスに感染する率が圧倒的に低い。しかしそのことによって人の中の免疫機能が発達しなくなり、同時に外敵への耐性がない人の体内にあるものが入り込むようになった。アレルゲンである。

 アレルゲンの種類は様々で、代表的なダニや花粉といった物質から、木材や紫外線といった日常的に触れているものまで含まれる。それらが人々の体に入り込み、アレルギーを引き起こす。かつては一部の人々にしか関係しないだろうと言われてきたアレルギーだが、それが時代の進行とともに多くの人々を苦しめていくことになると、誰が予想出来ただろうか。

 

 

 大阪の某所にあるアレルギー治療専門の病院の一室で、二人の少女が会話を弾ませていた。片方はベッドにおり、もう片方はすぐ傍の椅子に腰かけている。

「目の前でたこ焼き食べてる奴見るとな、しばきたなんねん」

 椅子に座っている少女が、視線の先にあるテレビ画面を睨みつけながら呟いた。そこでは食べ歩きの番組が放映されている。

「ホンマ恐いなあ、夏木ちゃん。そないな事でしばかんでもええやん」

 ベッドでその様子を見ながら、夏木の友人である茜は苦笑いを浮かべた。

 十六歳の夏木は小麦アレルギーである。幼少期の頃にアレルギー反応が出てから、小麦粉の含まれた食品を口にすることが出来ていない。そのため、大阪のソウルフードともいえるたこ焼き、お好み焼きもまともに食べたことがなかった。

 対する茜は同い年で、自分のアレルギーこそ教えてくれなかったが、夏木に付き合って普段からたわいもない話を繰り広げている。彼女は基本的に優しい性格なのだが、たまに突拍子もないいたずらを働いたり、笑い話をしたりと周囲の人間を飽きさせない一面もある。

 二人は約半年間、同じ病棟で時間を過ごしてきた。

「別にたこ焼きに限った話やないねんけどな。とにかく小麦製品を美味しそうに食べてる奴を見たないねん」

 むかつくから、と夏木は続ける。

「テレビで芸人が食レポしてんのも嫌や。こっちは食べられへん言うてるのに」 

 その様子を見た茜は困ったように笑いながら、リモコンを手に取りテレビを消すと、棚の引き出しからトランプを取り出した。

「ブラックジャックやろ。最近覚えてん」

 茜はカードを箱から出してシャッフルすると、顔を近づけて夏木に耳打ちした。

「昨日看護師の伊藤さんとブラックジャックやったんけどな、めっちゃ弱いであの人」

「ホンマに? 伊藤さんってあの若い女の人やんな」

 茜は夏木の顔から距離を離すと、口角を上げてこう言った。

「うちが勝ち過ぎたせいで『ブラックジャックアレルギーなるわあ』言うてた」

「何やそれ、おもろいな」

 夏木が破顔している中、茜はテーブルの上にカードを置いてゲームの準備を終えた。ディーラーは茜、対するプレイヤーは夏木と決まった。それぞれが手札を二枚ずつ取り、数を数えていく。

「あんたは何のアレルギーなん? そろそろ教えてや」

 夏木はそう尋ねながら、一度ヒットしてカードの枚数を増やしていく。クローバーのエースと5、ハートの4がそろい、数は二〇になった。そのままスタンドする。

「それは夏木ちゃんが知らんでええことや」

 茜は物腰の柔らかい口調でそう返すと、自分の手札を表向きにした。ハートのエースとスペードのキング――ブラックジャックである。

「うわあ、あんた運強すぎるて」

 背もたれに身体を預け、「参ったわ」と今度は夏木が困ったように笑う。彼女はそのまましばらく天井を眺めていたが、何かを決意したように突然口を開いた。

「ずっと言われへんかったんやけどな、うち明日で退院やねん」

「ホンマに? やったやん、おめでとう」

 夏木の予想に反して、茜は明朗な声色で返した。

「何や。もっとなんかこう、『寂しい~』とか言われる思うたわ」

「もちろん寂しいけどな、ようやっと娑婆の空気吸えんねんで」

 その言葉に夏木は吹きだした。

「娑婆って、何やねん。今まで刑務所にいたみたいやん」

 夏木の言葉に茜は笑いながら「似たようなもんや」と返す。

「梅田帰ったら、たこ焼き食べてる写真送ってや」

 茜は、夏木がたこ焼きを食べる人に散々文句を言っていたのを思い出す。「いよいよ食べれるんやな、良かったな」と言うと、夏木は気まずい顔をした。

「退院言うてもな、向こう行っても薬飲まなアカンから、まだたこ焼きは無理やねん」

 すると、茜は夏木に一つの提案を持ちかけた。

「せやったら、うちが退院する頃に一緒に食べよう」

「退院の時期決まってるん?」

「まだ分からんけど……」

「何やねん」

 むちゃくちゃやな、と夏木は呆れを含んだ笑顔を浮かべると、もう一度勝負しようとカードに手を伸ばした。

 

 

 夜間に入り夏木が自分の病室に戻ると、ちょうどよく夕食が運ばれてきた。運んできたのは先ほど二人が話していたブラックジャックアレルギーの看護師、伊藤である。

「明日退院なんやってね。おめでとう」

 伊藤がテーブルの上に夕食を置くと同時に夏木は頷く。伊藤はいつもより彼女の口数が少ないことに疑問を抱いたが、そのまま退室しようと背を向けた。すると夏木は彼女の背中に向けて、ずっと引っかかっていたことを問いかけた。

「なあ、茜って何のアレルギーなん」

 彼女は夏木の方を振り向くと、眉を潜めた。

「何や、急に」

「いや……ずっと教えてもらえんかったなあ、思うて」

 夏木はたどたどしく説明すると、伊藤は小さく息を吐いた。

「私に聞かれてもなあ。守秘義務いうもんがあるから無理や、言われへん」

「明日でいなくなるんやし、教えてって。別に言いふらしたりせえへんから」

「……しゃあないなあ」

 伊藤は両腕を組みながらため息をつくと、こう告げた。

「あの子、水アレルギーやねん」

 水アレルギー、と夏木は伊藤の言葉を復唱する。彼女の話すところによると、茜は水だけでなく、涙や汗によってアレルギー反応が出てしまうことがあるようで、食事も徹底したドライフードのみしか口に出来ないらしかった。どうしても体内に水分を摂り入れたい時は牛乳や一〇〇パーセントの野菜ジュースなどを飲むらしいが、それでも少量しか摂取出来ないということだった。そして、彼女の症状が回復する可能性は未知数だということも告げられた。

「アホやん、何それ。たこ焼きどころの話ちゃうやろ」

 彼女のほうがずっと重い病気だったのに、自分は何も気づかなかった。だがそれでも茜は気丈に振る舞っていたのだ。

 

 

 次の日の朝、夏木は両親と共に残っていた退院の支度を整えると、病室から一階のロビーまで降りて看護師たちに最後の挨拶をした。

「ホンマ、お世話になりました」

 一人の患者が無事に退院出来たことに安心したのか、多くの看護師が安堵の表情を浮かべている。すると、近くで夏木を呼び止める声が聞こえた。夏木が視線を向けると、そこには上着を羽織った茜がいた。彼女は早足で夏木に歩み寄ると、口を開いた。

「今日梅田は寒なるて、お天気お姉さんが言うてたで。せやから温かくしてな」

 そう言いながら、茜は夏木の首元にマフラーを巻きつけた。どうやら自前のものらしい。よく見ると毛糸で編まれたもので、全てオレンジ色で統一されていた。

「どんな配色センスやねん、これ」

 突然のことに驚きつつも、夏木は小さく笑いながらつっこみを入れる。しかしすぐに笑顔は消え、瞳に熱が集中した。嗚咽が出てしまいそうなところをぐっと堪えると、夏木は茜を見た。

「……ほな、元気でな。夏木ちゃん」

 茜は目を細めて微笑むと、夏木の両手を握って揺すった。その表情はいつもと変わらないものだったが、同時に哀愁を感じられ、夏木は言葉に詰まってしまった。

「……また、来るさかい。それまでにくだばったら怒るで。約束やからな」

「やっぱり夏木ちゃん恐いて」

 病院を出て、駐車場に停めた車のドアに手を掛ける。不意に、最後に見た茜の顔が浮かぶ。夏木はもう一度病院の方を振り返ると、頬に冷風を受けながら、見送ってくれた彼女の姿を探した。


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Kmit秋の作品発表会2016(前編) 著:カザリ・水菓子・霧原礼華

担当編集:水井くま

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT

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