宵を待つ鳥note

宵を待つ鳥

学生時代は小説を書くことに没頭し、今は倦怠的な日々を過ごす「私」は、ある日学生時代からの友人・藤堂から鳥を飼ってみないかと言われる。

『宵を待つ鳥』

著・竹見名央  絵・えりな


 まもなく日も翳ろうとしていた頃、玄関の硝子戸が開く音がした。

 そうか、もうこんな時間かとひとりごちて、伸びをする。この家に立ち寄る者は少ない。確かめなくとも、客人の正体は既にわかっていた。強ばったままの唇から無理やり言葉を引っ張り出すと、それはいかにも間抜けな響きとなって薄汚れた床に落ちた。

「やあ、遅かったじゃないか」

 切れ長の目をよりいっそう細めて、彼は笑う。おそらく、私が声を出すまでにどんな経緯を辿ったかを読み取ったのであろう。そうして淀みなく、正しい答えを出す。

「遅いも何も、はなから約束などしていないよ。誰が好きこのんで、こんな狭苦しい家に来るもんか」

 憎まれ口を叩きながらも、声は弾んでいる。まさかと思い、骨ばった右手に視線を移すと、やはりそこには見慣れた深緑の包みがあった。

「今日は牡丹だそうだ。君の好きな水饅頭も買ってきたから、後で食べることにしよう」

「それはどうも。障子に穴をあける癖は治ったのかい、藤堂(とうどう)」

「そう馬鹿にするもんじゃない。僕だって、根っからの洋風かぶれってわけじゃないさ」

 今まで散々、人の家の障子を駄目にしてきた奴が何を言うのだろう。坊ちゃんの手は仔猫の手、というのは、昨年鬼籍に入ったばかりの母の口癖だった。
 わざわざ持ち上げるのも面倒になり、隅に追いやったままの卓袱台を引きずってくる。座布団も敷かぬまま腰を下ろして、ため息をついた。必要な道具も配置もわかっているのだから、客人とはいえこのくらいはやってほしいものだ。縒れて皺だらけのコール天と、おろしたてであろう、いかにも上質そうなズボンが目に入って、さらに気分を滅入らせた。
 紙の擦れる音に顔を上げる。人が出した卓袱台の上で、彼はいそいそと包みを開けている。

「牡丹に白菊、道明寺。それから、お待ちかねの水饅頭」

 おそらくは商品名であろう名詞を唱えつつ、だんだんと卓袱台を埋め尽くしていく。洋風の先駆者と言わんばかりの服装と家柄をしているくせに和菓子が好物とは、いったいどんな育ち方をしてきたのだろう。私はそのおよそ半分を、おぼろげには知っているものの、十年経った今でもまったくもって理解ができない。

「また端から買いあさってきたんだな。無駄遣いはやめろと、あれほど言ったじゃないか」

「僕の好きに遣うのだから、無駄なことなんてないさ。あそこは親父さんが親切だからね、買い物もしやすいってわけだ」

 飛び抜けた金持ちには親切にもしたくなるだろう。茶はいるかと訊けば、出涸らしなら結構だと断られる。胸のやけるほど濃い、出汁のような茶を飲み慣れている方がおかしいと返してやりたくなったが、仕方なく飲みこんだ。和菓子と骨董品以外のものを前にしている彼には、非難などまるで無意味だからだ。

「座ったらどうだ、水饅頭だぞ。僕は好かないが」

「わかったよ、五月蝿いな。何だ、今日のは奇天烈な色をしているね」

 原料となっている餡は、いつもであれば滅紫(めっし)に艶光りしているはずなのに、今日は若草色をしていた。作法も何もなく、鷲掴みにした牡丹の練り切りを頬張りながら、彼が答える。

「ああ、それなら、ずんだを入れてみたらしい。色が違うからと言って、身体に害はない。安心して食べたまえ」
 何かと思えば、枝豆のことか。眼前に勧められた水饅頭を、疑いを持ちつつも、一口で食べてみる。確かに、荒く粒だった舌触りは、記憶にあるなめらかさとは明らかに違っていた。従来ものよりも砂糖が控えてあるらしく、なかなかに好感が持てる。

「青柳の和菓子でさえ移ろいゆくというのに、君の間抜け顔はいつまで経っても変わり映えしないな。人前で笑うのは止した方がいい、阿呆みたいだぞ」

「余計なお世話だ」

 口元を袖で拭い、出来る限りの力で睨めつける。ようやく観念したのか、和菓子を食べる手を止めた。そして、何をするかと思えば、今度は自らの傍らをまさぐっている。

「何だ、もう食べ飽きたのか」

 これでもかと投げつけた言葉を断ち切るようにして、目の前に風呂敷包みが置かれた。紫の、片手で持てる程度のものだ。

「昨日届いた荷物の中に入っていたんだ。君に丁度いいと思って、持ってきた」

 労働を知らない骨ばった指先が、風呂敷の結び目を解く。花弁がおちるようにして露になったのは、日常ではついぞ見慣れない類のものだった。
 凛とした金属のかたち。穴だらけの知識の中で、ようやく像が名を結んだ。
 鳥籠だ。
 天辺に小鳥を模した装飾があること以外は、何の変哲もない籠だった。鳥が中で羽を広げるにはすこし小さく、実用には不向きな気もするが、なるほど、装飾品として藤堂家の居間に置かれると仮定するならば、まったくもって違和感がない。しかし、いったいどこが、私に丁度いいと言うのか。

「人をからかうのは勝手だが、そろそろ止めにしてもらいたいな。ちょっと待っててくれ、雨戸を閉めてくる」

 席を立とうとすると、手だけでそれを遮られる。視線の先には、不穏な笑み。

「ああ、閉めないでほしい。実を言うと、今日はそのために来たんだ」
 思わず眉をひそめると、彼は卓袱台に頬杖をつき、意地悪そうに目を伏せた。

「そう急がなくとも、もうじき夜になるだろう。話はそれからだ」


 文机に散らばったままの原稿用紙を、手荒くかき集める。隙あらば攫おうとしてくる手から逃れるためだ。やはり藤堂は背後にまで迫ってきていたようで、すぐ傍で小さな舌打ちが聞こえた。

「何だ、人がせっかく楽しみにしているのに」

 楽しみにしているも何も、半年ほど前から放置してあった代物だ。触れた原稿用紙の上には、埃がうすく積もっている。

「いくら待っても無駄だよ。もう書かないって決めたんだ。期待を裏切るようで悪いけれど」

 吐き捨てるように言う。小遣いを前借りしてまで金を集め、嬉々として購入したはずの万年筆も、遠い昔にどこかへいってしまった。案外、箪笥の裏にでも入りこんでいるのかもしれない。

「学生の頃はあんなに書いていたじゃないか。僕も寛吾(かんご)も、君の書いた小説を貪るように読んで、君もそれを、悪く思ってはいなかったはずなのに」

 名残惜しむような、労わるような嘆きを聞くだけで、脇の下から汗が出る。

「止せよ秋近。あんなもの、なかったのと同じだ」

 嫌な汗が身体から溢れ出して、止めたはずの呼び名を口にしてしまう。当の本人はどちらでも構わないと言ってはいるが、成人してからというもの、私はもっぱら苗字の方を呼び名としていた。下の名前で呼び合うなど、三十路を前にした男のすることではない。

「この古い屋敷で何もせず、独りきりか。さぞ退屈だろうね」

「ああ、退屈だよ。ただ起きて、食べて、寝ての繰り返し。暇すぎて、どうにかなりそうだ」

 少し言いすぎたか、と彼の方を見やるが、一向に顔色を変える様子はない。書くのを止めた小説の話題であれば勝てるかと思っていたが、存外に効力はないようだった。期待外れだ。寒さに身震いをし、思考が現実に返る。
 部屋の一辺が縁側につながる窓となっているため、この季節は非常に底冷えがする。開けたままにしていろと言われた雨戸はいいとして、硝子窓がきちんと閉まっているかどうかを確かめに卓袱台を離れた。

「いい月だな」

 冷え冷えとした光が、夜道をあかるく照らし出している。ひょっとすると、灯りなしでも過ごせそうな強さだった。

「酒も飲まないのに、いい月とはな。また寛吾に馬鹿にされるぞ」

「いいだろう、別に。たまの休みにしか帰ってこない人間のことを心配したって、仕方がないじゃないか」

 寛吾というのは、私たちに共通した、学生時代からの友人である。職業に当てはめるなら、商人とでも言うのだろうか。見栄えだけが立派な骨董品を安く買いあさり、それに大層な値をつけて売っている。世間様からは決していい顔をされる仕事ではないものの、私たちの中で、自力で金を得ているのは奴ひとりだけなので、偉そうなことを言う権利はない。

「仕事もしない、小説も書かない、酒も飲まない。内職でもしたらどうだい」

「どれもやる気が起きないよ。ただ、時間だけが過ぎていく」

 過ぎ去った時間を思うたびに、またやってしまったと嘆くのだ。何度繰り返しても治らない。もう、病気のようなものなのだろう。いくら鞭を打とうとしても、自ら繰り出す一撃は甘やかでしかない。やがて身体に不都合が生じ、時間を好きなように使えなくなるまで、延々と続いていくに違いないのだ。好きなことも、好きなものも見つかることはなく、たんに呼吸をしているだけの毎日だ。
 今度こそ叱責されるかと思いきや、かすかな金属音にとって変わられる。見れば、藤堂が例の鳥籠に手をかけていた。

「そこで提案なんだが」

 持ち手に指を引っかけ、籠を顔のあたりに掲げる。窓から射している月の光が、水面を照らし出すように、卓袱台の上に零れた。

「鳥を、飼ってみないか」


 またおかしなことを言い始めたと、頭を抱えそうになる。いつだってそうなのだ。寛吾の奇行にぼかされて目立ちはしないが、家柄あっての傍若無人さと、尽きることのない資財を使って、こいつは毎度面倒なことを引き起こす。滑り出しこそ穏やかなので、油断して安請け合いすると、後で取り返しのつかないことになるという寸法だ。派手でない分、質が悪い。

「おいおい、知り合いの金持ちから小鳥でも貰おうと言うんじゃないだろうな。それとも、縁日で売られているひよこでも買いしめるつもりか」
 またお得意の「湯水」かと呆れれば、毒のある含み笑いに相殺されてしまう。藤堂は、まるで狐が悪巧みをしている時のような、意地の悪い笑い方をするのだ。彼の目が細くなり、口角が釣り上がるのに応じて、背筋がすっと冷たくなる。間抜け面しかできないこちらとしては、黙るしかなくなるのである。

「君のいいところは、その気の弱さだよ。無理をせずに、これから伸ばしていくといい」

 余計なお世話だと捨て台詞を吐く前に、行先を言葉で埋め立てられる。

「残念ながら、新しい鳥を買ってくる必要はないんだ。もう、いるのだから」

 呟きにも似た言葉の意味がわからずに、呆然とする。白く細い手は、間違いなく鳥籠の中を示している。
 いる、とはどういうことだろう。
 何が、いるのだろう。
 流れるような仕草で、鳥籠が卓袱台の上に置かれる。音もなく伸びたのは、強く濃い、影。
 木の表面に注いだ月光の中に、真っ黒な小鳥が、羽を広げた。

「ああ」

 知らぬ間に、唇の間から声が漏れていた。
 姿はない。鳴き声もしない。だが、小鳥だとわかる。色彩も実体も持たない、影だけの小鳥だ。
 藤堂が籠の蓋を開けると、小鳥は幾度か跳ねながら、もう片方の手に着地した。

「おいで」

 声に甘えるようにして、皺ひとつない洋服の上を伝っていく。二の腕あたりを通り過ぎ、肩の中程にかかっているズボン吊りの上で、小鳥はようやく止まった。どうやら、居心地のいい場所を得たらしい。私はその様子を、心奪われたように見つめているしかなかった。

「どうだ、なかなか懐きやすいだろう。しばらく世話をしてみないか」

「冗談じゃない、花だって育てたことがないのに、小鳥を、しかもこんな得体の知れないやつを育てられるか」

 どうやら、こいつを私に押しつけようという魂胆らしい。骨董、それも曰くつきの珍品が好きな彼にしては珍しいことだが、そんな些細な疑問に構っている暇はなかった。
 飼えない理由を並べ立てようとしたことを悟られたらしく、口を開く前に撃墜される。

「大丈夫、すぐに慣れるさ。それに、何もすることがないんだろう。鳥でも飼えば、気が紛れるかもしれないと思ったんだが」

 的確な指摘と、哀れむような眼差し。肯定するように喉が鳴った。

「だ、だが」

「遠慮はいらないよ。飼い続けられなくなったら返してくれればいい。それに案外、君の肩の方が居心地がいいかもしれないからな。そら、お行き」

 藤堂が肩先を手で払うと、小鳥は真っ直ぐに、私の肩に降りた。
 何と言うべきか、ぼんやりとしている。確かにいるはずなのに、重さも温かみも感じられない。触れれば消えてしまいそうだ。否、相手は影なのだから、触れるも何もないのだろうか。所詮は影遊びのようなものなのか。
 壁に映った影に注意を払いつつ、おそるおそる手を伸ばすと、小鳥は危険を察知したのか、籠の中へと飛び去ってしまった。

「すっかり嫌われてしまったな」

 案外、などと嘯いた本人がそんなことを言っては、元も子もない。小鳥は相変わらず月光の中で、ちいさな羽を休ませている。

「だから言ったんだ。私にこいつは飼えない」

「まあ、そう言うなよ。この機会に、観察日記でも書いたらどうだ」

「小説もどきのための準備運動でもさせるつもりか。冗談じゃない」

 口ではそう言いながらも、悪くないと思ってしまう。小鳥がすることを、暇な時に延々と綴っていけばいいのだから、これほど簡単な暇潰しもないだろう。物語ではないのだし、嫌悪する必要はない。
 突き返そうとしないのをいいことに、藤堂は軽やかに笑い、こちらに背を向けた。

「あとは君の好きにするといい。もう遅いし、このあたりでお暇するよ。観察日記が書けたら、是非拝見したいね」

 止める間もなく、障子を開けてしまう。

「藤堂」

「頼んだぞ。残った練り切りも、食べておいてくれ」

 そうして、後には静寂だけが残された。


 一日目 快晴

 初めてこれを書く。藤堂が上がり框に置いていった帳面は、鉛筆の滑りが良く、書くのに苛立ちを感じない。観察日記と口にしたら帳面まで置いていくのが、いかにもあいつらしい。近くの店で買ったものは紙が安いのか、それとも単に鉛筆との相性が悪いのか、文字を書くたびに引っかかって不快になるのだ。万年筆であればもっと心地よいであろうが、あいにくインキの瓶が見つからない。これも筆の方と同じで、箪笥の裏にでも落ちているのだろう。せっかくの天気であったのに、夜になってからしか観察できないのが口惜しい。相変わらず鳥に色彩というものはなく、墨で塗りつぶしたように真っ黒である。その真っ黒というのも、鴉と同じような艶のある黒ではなくて、どちらかというと、物が影をおとしたのに近い。上澄みのうすい影ではなく、色濃いところを鍋にかけて煮詰めたようである。何を食すかもわからないので、寝る前にひとつまみほど、米粒を籠の中に置いておくことにした。


 二日目 晴れ
 
 月の光がさすと、鳥が元気に部屋の中を飛び回っているのが見える。米粒は減っていなかった。何か他のものが食べたいのだろうか。そもそも主食は何なのだろう。お世辞にも普通の、とは言えないが、かたちだけは通常の鳥と同じだ。変な声で鳴きもしないし、肉食というわけでもない(もしそうであれば、戯れている間に私は肉片と化している)。今日はおかしな夢を見そうだ。下手なことは、文字に起こすものではない。


 三日目 曇り


 今日は一日どんよりした空だったので、何をするにもあまり気が向かなかった。日の入らない、ほの暗い屋敷の中でこれを書いていると、こんなことをしていていいのかと疑問に思うことがある。藤堂のように、好き勝手をして暮らせるほど裕福ではないのだから、いつかは自力で稼げるようにならなくてはいけない。しかし、「貧弱で愚鈍」という形容の似合う私に、一体どんな仕事ができるというのだろう。工場勤めなどしてみるものなら、三日と言わず、一日で辞めることになるだろう。
 月が暈(かさ)をまとっている。籠の扉を開けておいたが、鳥はじっとその場を動かない。どうやら元気がないようだ。


 四日目 晴れ

 とくにこれと言ってすることもないので、屋敷の掃除をすることにした。我ながら行動的な思いつきである。手をつけるまでは気がつかなかったものの、箒や布切れで表面を撫でただけで、どこもかしこも黒ずんで埃まみれになっていたのがわかった。普段暮らしていると、わからないものである。汚れを模様として認識しているのかもしれない。板張りの廊下を一畳分ほど布切れで拭い、盥に張った水にさらすと、みるみるうちに澱んだ灰色になった。それを見てもしやと思い、御猪口(おちょこ)にきれいな水を張って飲み水をつくってやったが、一向に減る様子がない。昨晩から元気がなかったが、そのせいだろうか。

 五日目 曇り


 どうすればいいのかわからない。藤堂に、半月の夜の飼い方を聞いておくべきだった。これなら食べるやもしれぬと、近くの駄菓子屋にウエハアスを買いに出たのが悪かった。鳥籠の蓋を開けたまま、外出してしまったのだ。夜になってもあまり月光がささず、鳥を見つけることができない。譲り受けた際の話では、ときおり千代千代(ちよちよ)と鳴くそうだが、それも聞こえない。これでは、私の方から藤堂のところへ出向かなければならない日が来るかもしれない。そう思うと全身から冷や汗が出て、眠れなくなってしまう。


 六日目 曇り

 挨拶をするのがたまらなくこわい。わたしは(汗で滲んで読めない)


 七日目 曇り

 どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。これならば、藤堂の家を訪ねるよりもはるかに気が楽だ。急いで屋根裏部屋の荷物をひっくり返し、石油洋灯(ランプ)なるものを発掘した。まだ電気が通っていなかったころ、父が愛用していたものらしい。冬に使うストーブと同じ石油を注いで、燐寸(マッチ)で火をつけた。機能するかすこし不安だったものの、しばらくすると煌々と灯りを放ち始めた。父の死後も、母が手入れしていたのだろう。その生前にはあまり目にすることのなかった道具が、私の腑にもほのかに火を宿したようであった。これを片手に屋敷中をまわれば、日付の変わらないうちに鳥を見つけることができるにちがいない。


 八日目 曇り

 どうしたって見つからない。やはり月の光でなくては駄目なのか。もう家の外へ逃げてしまったのか。わたしは



「そろそろ起きろや、大将」

 半ば呆れた呼び声に瞼を持ち上げると、薄ぼんやりとした世界が徐々に鮮明になっていく。ようやく焦点を結んだ先にあったのは、起き抜けには決して会いたくない友人の姿であった。

「寛吾」

 口にしてしまった後に、こいつは本名で呼ばれるのを至極嫌っていたのだと思い出す。たったの三音に反応して、彼は面白いほど露骨に眉をひそめた。それだけでは足りなかったらしく、額を拳で小突かれる。

「洒落(しゃらく)だ。屋号くらい覚えろ」

 学生時代からそう教えこまれてきたはずなのに、つい、彼の本名を口にしてしまう。藤堂などは、普段は「洒落」、本人のいないところでは「寛吾」と器用に使い分けているが、私にはいつまで経っても、そんな芸当はできない。
 寛吾は私が身体を起こしたのを見届けると、床に視線をおとした。

「それで、洋灯抱えて廊下でお昼寝ってか。いいご身分だ」

 言われてあたりを見まわすと、言葉通り、すこし離れたところに石油洋灯が転がっていた。慌てて火の気を確かめる。何かに燃え移っていたりしないだろうかと肝を冷やしたが、転がる前に中の石油が尽きていたようで、小火はもちろん、焦げのひとつも見当たらなかった。そこで、わずかな違和感に気がつく。

「昼寝?」

「おう。昼どころか、もう夜だ。こりゃあ一日無駄にしたな」

 駆け出して、廊下の突き当りにある柱時計を見ると、七時をすこしばかり回ったところである。昨晩は石油洋灯を片手に鳥を探していたはずだ。しかし、朝はどうだっただろう。自分のことだというのに、定かではない。寛吾の言うとおり、そのまま疲れて寝てしまったのだろうか。柱時計は一時間に一度、鳴るようにしてある。いくら深い眠りについていても、鳴ったことくらいは覚えているはずだ。
 いつになく機敏な私の動きを、寛吾は物珍しそうに見つめている。今だとばかりに、文机の上から鳥籠をひったくると、顔の前にそれを掲げて見せた。

「鳥がいなくなったんだ。鳥と言っても、月夜にしか見えない鳥で、い、いなくなったのは、私が籠の扉を開けていたからで」

 既にしどろもどろになっている説明を、寛吾はすっと手のひらを挙げるだけで制した。口をつぐむと、今度はその手で鳥籠の取っ手を掴み、持ち上げる。

「……お前、これ、秋近から貰ったな」

 ああ、と相槌をうつ。やっと落ち着いてきた。何か知っているのだろうか。

「どうしてこれを? あいつは何と言って鳥をお前に渡したんだ」

「ただ、飼ってみないか、とだけ。退屈すぎてどうにかなりそうだと愚痴をこぼしたら、観察日記でもつけたらどうだと言われて押しつけられたんだよ」

 寛吾はしばらくの間、黙って宙を見つめていたが、やがて狂ったように笑い出した。生粋の笑い上戸なので、慣れていても面食らってしまう。危うく放り出されるところだった鳥籠を、被害が出ないうちに受け止めた。

「そりゃあいい。観察日記が完成したら俺にも見せてくれ。秋近によろしくな」

 寛吾は私の疑問をいっさい解決することなく、踵を返して玄関に向かう。

「おい、何か知らないか。いなくなって困ってるんだ」

「心配しなくとも、そのうち出てくるだろ。鳥探しもいいが、睡眠だけはきちんと摂れよ」

 何か教えてくれるのかと思っていたのに、ひどく拍子抜けした。ひらひらと振られた右手が、その無責任さを物語っている。気の抜けた下駄の音とともに硝子戸が開く。

「待て、寛吾」

「洒落だ」

 そうしてやはり、後には静寂だけが残された。


 九日目 晴れ

 寛吾はひとしきり笑っただけで帰ってしまった。いい歳をした男が、学生時代のあだ名で呼ばれたがるものだろうか。彼の性格上、それは恥ずかしいことのうちに入らないのかもしれない。
 鳥はまだ姿を見せない。


 十日目 晴れ

 月の光が弱いのだろうか。
 鳥はまだ姿を見せない。


 十一日目 曇りのち雨

 月が見えない。雨が降ったからだ。
 意を決して藤堂の家に向かったが、留守だと一蹴された。


 十二日目

 今日は三日月だ。


 十三日目

 ひどく■むい
(潰れて読めない)


 十四日目

 (解読不能)


「なあ、茶葉はどこにある」

 そう訊かれて初めて、自分が寝ていたことに気がついた。
 幾度か瞬きをしつつ、視界を塞ぎかかっている目脂(めやに)を指で拭う。腕が上がらない。どうやら、身体の関節も凝り固まっているらしい。
 見ると、藤堂が急須を持って何やら叫んでいる。注意をする前に、緩んでいた指先から急須が滑りおち、床の上で砕けた。

「さっきから聞いているじゃないか。茶葉はどこにあるんだ」

「その急須でどうやって淹れるつもりだ」

 顎で指し示してみせると、藤堂はようやく観念したのか、私の前に正座をして微笑んだ。

「まあいい。すこしの間くらい、茶がなくても会話はできる」

 礼儀というものを習得する、半分ほどの年齢期間をともに過ごしてきたつもりだが、いったいどういう教育を施されたらここまで厚かましくなれるのだろう。その立ち回りは、いっそ清々しい。今さら文句を言っても始まらないので、卓袱台にあった布巾を使い、しぶしぶ破片を集める。

「それにしても、君はよく寝ていた。清々しいほどだ」

「お前も相当だぞ。そんなに寝ていたとは思えないけどな。今、何時だ」

「夜だよ」

 そこで、破片に触れかけていた手が止まった。

「寛吾が来たのも、夜だ」

 力ない呟きに、藤堂が目を細める。

「おかしいな。君はそんなに宵っぱりだったかい」

 狐の面だ、と思った。藤堂は、ときおりこういう笑い方をする。

「君、朝御飯は何を食べた」

 答えられない。

「じゃあ、昼御飯は」

 これも、答えられない。

「駄目だ、藤堂。覚えていないんだ」

 私は、狐面の男に向かってかぶりを振る。

「それは違うね」

 今まで信じていたものを、壊された気がした。
 床に散らばっている急須の破片と同じように。

「覚えていないんじゃない。君は、朝御飯も昼御飯も食べていないはずだよ。それどころか、僕に起こされるまで」

「寝て、いた」

 声に重なるようにして、金属音がした。慌てて振り向くと、文机の上に置いてある鳥籠が倒れている。ふと、顔のあたりを何かがかすめた気がして、幾度もあたりを見まわす。
 どこからか、重たげな羽音がする。
 突然、鷹匠(たかじょう)のように慣れた動作で、藤堂が腕を掲げた。そこにひとすじ、強い月の光が当たる。

「こっちにとっては、ご馳走だったようだが」

 久々に目にした姿は、もう小鳥のものではなくなっていた。
 藤堂が差し出した片腕に、乗り切るかもわからない。すさまじく巨大な鳥が、そこにいた。

「これが、君の育てていたものの正体だ」


「月夜にだけ現れる、鳥か」

「正確には僕もわからないな。通常、新月が満月になるまでは、約十五日間かかる。その間、三日月から半月になるなど形状の変化があるが、残念なことに、こいつが見えるまでには影が濃く出なかったんだろうね。天候や気温のせいもあるんじゃないかな」

 藤堂はすらすらと言葉を並べていく。鳥はその間も、大人しく羽を休めていた。

「あれだけ駆けずり回ったのに、心配する必要はなかったというわけか」

「まあそう怒るなよ。すくなくとも、退屈ではなかっただろう」

 確かに、常日頃から感じている鬱屈はきれいに消えていた。

「さっきも言ったが、私は昼間にあったことを覚えていないんだよ。その鳥に関わっているとき以外の記憶がまるでないんだ」

 藤堂は、その主張さえも笑ってかわして見せた。

「寛吾が言っていたよ。『君は本当によく寝ていた』とね」

 床に転がった石油洋灯。
 一時間おきに鳴るはずの柱時計。
 それならば。

「私は、本当に寝ていたのか。君や寛吾が来るまでずっと、朝から晩まで」

「思うに」

 取り乱し始めた私を制御するように、藤堂はしっかりとそう、前置きした。

「この鳥の餌は、時間なんだ。飼い主の時間を食べて、鳥は成長する」

 それでは、私の時間は。

「鳥が現れる、現れないに関わらず、昼間の時間を徐々に奪われていくのではないかな。やがては、昼も夜も関係なく眠りにおちるようになってしまう。それこそ、人にたたき起こされるまでね」

 藤堂の視線が、割れた急須の上を通り過ぎる。

「この鳥を、おそろしいと思うかい?」

 何と答えればいいのだろう。名前も、生態すらわからないものに対して。人間は、知らないことをおそれる生きものではないのか。

「いいや」

 意外だ、という顔をされる。私が生粋の怖がりなのを、彼は知っているからだ。

「すくなくとも、退屈ではなかったよ」

 口の端に浮かぶ、小さな笑み。見覚えのある、悪戯を思いついたときの表情だ。藤堂はそのまま、鳥を止まらせていた腕を素早く振った。
 さぞかし驚いたであろう鳥は、咄嗟に顔を覆った私の片腕に飛び移った。どうすればいいのか、と目を白黒させていると、藤堂が軽く腕を振る仕草をしたので、素直にそれに従う。かたい鉤爪が、皮膚から離れる感触を覚える。

「もう、鳥籠は必要ないな」

 開け放ってあった窓から、黒い影が羽ばたいていった。

「しかし、どうしてわかったんだ、藤堂」

「何のことだい?」

 急須でなくとも茶は淹れられる。茶碗の中でふやけさせた葉を漉しながら、私は尋ねた。

「惚けることないだろう、あの鳥のことだよ。それに、寛吾と二人で何やら細工していたみたいじゃないか」

 いつものように青柳の和菓子を食べつつ、藤堂は断言する。

「君が鈍いだけだよ」

 美味であろう餡を没収されてはかなわないと勘ぐったのか、彼は咳払いをしてから不服そうに明かした。

「実を言うとね、僕も二日間ほど眠らされていたんだ。あの鳥のおかげで」

 私はつとめて冷静に、湯呑みを置いた。

「それで、身体に異変は」

「特に。いつもより深い眠りについただけさ。そして、ふらっとやってきた寛吾に起こしてもらったんだ」

 安堵とも、呆れともわからぬ溜め息をつく。あの男はいつだってそうなのだ。ふらっとやってきては、同じように帰っていく。

「都合のいい偶然もあるものだな」

「逆だよ。偶然、都合がよかったんだ。様子を見に来たんだろう。あの鳥を僕に売ったのは寛吾だからな」

 きまりの悪い沈黙が流れる。

「それで、あの鳥を私に飼わせたのが」

「僕だ」

 私はつとめて冷静に、目の前の友人を殴りたくなる衝動を抑えた。

「しかし、退屈はしなかったんだろう?」

 すこし迷ったが、正直に答えることにした。

「ああ」

 明日になったら掃除の続きをして、ついでに模様替えもしてしまおう。使いさしの万年筆とインキ瓶が、まだどこかに残っているかもしれない。

 月の光がおちる表通りから、かろやかな下駄の音が聞こえてきた。


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『宵を待つ鳥』 著・竹見名央 / 絵・えりな

担当編集:木村、島崎

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT

※この作品は読み切りです。

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