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「貴方がこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのでしょう」

 題として据えたこの一文、おそらく誰もが聞いたこと、見たことはあるだろう。現実世界を生きていて使うことはまあないが、小説やドラマに登場する遺書には決まってこの文章が使われる。個人的には死ぬまでに言ってみたい台詞No.1に君臨し続けていたのだが、今日になってどうしてもこの文言を使ってみたいという気持ちになり、こうしてnoteに登録してみた。

 この台詞の難しいところに使う場面が限定的すぎることが挙げられる。当たり前のことではあるが、この一文を言うには前提として書き手が死ぬ必要がある。例えば「月が綺麗ですね」と言ってみたいだけなら(自分の面子を失う可能性はあるが)手当たり次第に知人に言うことでもその欲はある程度満たせるだろう。しかし、遺書構文(煩わしいので以後こう呼ぶこととする)を言いたいという欲を満たすためには、①手紙やビデオメッセージで②自分が死んだ後に③ひた隠しにしてきた経歴や秘密などをカミングアウトする必要がある。

 ①の条件を満たすのは比較的簡単であるが、残りの二つが厄介だ。この一文を言うためだけに命を絶つのは流石に割に合わないし、③に関しては私が親しい友人には何もかもを開けっぴろげにしてしまう性格ゆえに前提が成り立たない可能性が高い。なにより、この一文は一生に一度しか使うことの許されない貴重な文字列である。これらのハードルの高さが存在するからこそ言いたい気持ちが募ってしまうのだろう。

 


この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう

夏目漱石『こころ』


 遺書構文の中でいちばん広く知られているのはおそらくこれであろう。『こころ』という作品は高校の現代文の教科書に掲載されていたこともあり、世代を問わず知っている人が多いはずだ。この引用部分は「先生」が「私」に宛てた遺書の結末の方に書かれたものである。作品の内容については割愛させていただくが、このインパクトのあるフレーズを結末に持ってくる辺りが非常に巧いと感じさせられる。手紙を流し見した「私」の目に偶然結末付近にあるこの一句が映り込み、「私」は慌てて汽車に乗り込み最初から手紙に目を通す。このような構成をとっているため必然的に読者の目には件の文章が二回登場し、より強く記憶されることとなる。


 ここまで遺書構文について語ってきたが、結論として何か最もらしい考察が存在しているわけではない。ただ私がこの構文を使ってみたかっただけだ。1,000字も費やしてそれだけかとなるかもしれないが、1,000字も使ってやりたいことができたので非常に満足だ。


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