見出し画像

#5 作品・創作との向き合い方。ロロの場合。かまどキッチンの場合。

5月12日(水)より上演を行なったかまどキッチン「海2」では、作品をより深めるため、それぞれ異なった専門性を持つゲストをお招きして「海2のミ」という関連企画を行います。プレビュートークと題した本企画では、かまどキッチンの主宰2人がゲストの方に、題材や、本作のテーマ「分断につながる加害と消費」についてインタビューを行います。

♯05のゲストはロロ 主宰の三浦直之さんです。

このトークで話す人は?
三浦直之:今回のゲスト。作家、演出家。ロロ主宰。
児玉健吾:かまどキッチン主宰。本作では脚本、演出家を担当。
佃直哉:かまどキッチン共同主宰。本作ではプロデュース、ドラマトゥルクを担当 。

画像1

1.かつて愛していたものとの付き合い方

児玉:かまどキッチン公演#02「海2」の関連企画「海2のミ」と題しまして、様々なゲストをお呼びしてお話を聞かせていただいております。第5回のゲストはロロの三浦直之さんです。

三浦さんはロロの主宰として、劇作と演出を手掛けられています。現代演劇の前線で活動しながらも、近年はTVドラマの脚本など幅広く活躍されています。今日は劇団の先輩として、色々なお話をお伺いできればと思っています。よろしくお願いします。

三浦:よろしくお願いします。

児玉:ロロは僕自身が昔から好きでずっと見せていただいていて。僕のお気に入りは『BGM』ですね。『BGM』には不思議なキャラクターがたくさん出てくるんですけど、ロードムービー的な物語の妙もあって、情報として全部スルッと入ってくるんです。観ているうちに気づくと彼らの虜になっているっていう。

佃:いまの現代演劇の中で、キャラクターが明確に登場する作品を作っている人たちってあまりいないと思います。ロロはかなり現実離れしたキャラクターたちが出てきて、そこで作品としての楽しさを担保しつつも、同時に現代演劇の特徴でもあるテーマ性や表現の新規性を意識した制作をしているイメージがあります。僕らが今度目指していくのもそうした方向性なのかなと、よく劇団内部で話しています。

児玉:フィクションをフィクションとして扱っている感じですよね…。僕たちがめっちゃ喋ってしまっている、質問しないと(笑)。

三浦さんはカルチャーとの接点を意識して自分の作品についてお話されることが多いと思います。僕たちのルーツはゲームなんですが、三浦さんの中で一番影響を受けたものについて初めにお伺いしてもいいですか。

三浦:元々はサブカルチャーがとても好きで、ロロを旗揚げした頃は主にアニメから影響を受けた作品を作ることが多かったですね。アニメがもつ身体性を実際の生身の俳優にやってもらうとどうなるんだろう?ということが気になって。

例えばアニメだったら目玉が飛び出るみたいな表現があった時に、それを生身の人間でやってみることでリアルと虚構のズレを作っていって、それを作品にしていくみたいなことを初期はすごく考えてましたね。最近はあまりそういったことは考えなくなったけど。自分は特にラブコメが好きだったけど、いまの自分とは距離があるかな。

児玉:僕たちも元々は美少女ゲームが大好きだというところから始まったんですが、最近はなかなかそれを言いづらいと感じるようになりました。かつて好きだったコンテンツをいま見ても、客観的な視点が自分の中でちらついて、気持ち悪さすら感じてしまう瞬間があります。

今回は自分と好きだったコンテンツの距離を測り直すことを演劇でやってしまおうと思ったのと、そこに最近自分が気になっているSNSの分断などのテーマを絡めて作れたらいいなと思いながら制作をしていました。

佃:僕らは誰かを傷つけようと思って美少女ゲームをやっていたわけではないけど、最近は美少女ゲームに対して何かを言及すること自体がすでに加害だと思うし、例えば美少女ゲームをプレイしていることを公言すること自体を究極的にいえば加害だなっていう…。

三浦:なるほど、それを加害だと思うんですね…俺はそう思わないかなあ。美少女ゲームをやること自体が加害の行為だというのは、俺はすごく危険だと思う。過激な内容が含まれるから対象年齢を制限しようとかそういった配慮は必要だけど、美少女ゲームのプレイ自体を加害とするのは思考を断罪するような動きになりかねない気がしていて、それはちょっとどうなのかなと。

佃:なるほど…近年のインターネットにおける断罪の傾向についてはどう思いますか。

三浦:うーん、俺はSNSを使って自分の考えていることを直接的に表明しなくてもいいと思っていて。ただ、それは自分が作家で、自分で物語を書けるからできることであって、生きている人間みんなが物語を描く必要はないし、長い文章を書く必要はないんですよ。

でも、それでも何かに対して声を上げたい、何かを主張したい人たちにとって、SNSはやっぱりすごく大事な場所だと思うんだよね。俺がSNS上で何かをやるとしたら物語を作ることの方が性に合うなってだけで。

ポルノ表現が含まれる広告が勝手に流れてくるのはダメだと思うし変えていくべきだとも思うけど、個人の趣味趣向の領域にまで「そんなのやったらダメだ」って踏み込んでいくのはすごく怖い流れだと思うかな。

児玉:おっしゃる通り、それに関しては僕たち自身も気をつけているところではあります。僕たちはかつていた美少女ゲーム界隈を愛してはいるし、今いる場所とそこには明確な国境が引かれているわけじゃないですから。

少し話は変わるんですが、かつて自分が好きだったコンテンツとの距離を感じてしまった場合、その感覚について三浦さんはどのように対処しているんでしょうか。

三浦:俺はそれは過去なんだと、「そういうものは自分はもう作らない」と割り切ってますね。

『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』っていう、10年前に自分が書いた作品をリクリエーションした際にそれに関しては少し思いました。その作品は、ある男女が出会ってその男女の関係がその世界の命運を握るっていう、ジャンルでいうとモロに世界系の物語なんだけど、いま読み返すと男の子が女性から圧倒的な肯定を与えられて終わるみたいな話に読めるなと思って。そこにすごく違和感があった。

例えば小津安二郎の映画を見て、ちょっとこれは家父長制の色が強いなって思ったとしてもそれは当時のものだから仕方ない部分もあると思う。でも演劇は過去に自分が書いた戯曲でも、いま上演をしたらそれは現在のことになる。だからそれは、過去に自分が書いた言葉に対して、今の自分はどうやって応答するんだろうっていう問題だったんだよね。そういう意味では、作家としてはこの問題を乗り越えないと先に進めないなと思いました。

児玉:なるほど。僕はかつて愛していたコンテンツでも、まだ好きだったものが自分の中に残り続けています。三浦さんはいかがですか。

三浦:好きなものもあるし、好きじゃないものもあるよ。

児玉:それはいまの基準で全部ジャッジしているってことですよね。

三浦:そうだね。でも、かつてそのコンテンツに救われた自分を否定する必要はないと思っていて。その時に救われたから今の自分があるわけだし、そのこと自体は誰からも否定されることではないはず。ただ、「俺はこれに救われたんだから、これは良い作品なんだ!」ってことを声高に主張する必要は別にないのかなと思います。

2.気づいたら人生相談をしてしまっていた件について

児玉:なるほど…。そういう話でいえば僕はかつて好きだったものを今も純真に楽しめているように思います。でも自分が社会的に振る舞おうとする、あるいは他者に向けて自分のものとして表現するときに自分の中で制限がかかってしまったり、ゾーニングの必要性を感じてしまうんです。とはいえ自分自身の主観的な感覚っていうものは変わっていなくて。

『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』の時の三浦さんのお話を聞いたときに、もしかしたら僕が考えてることは三浦さんと近いんじゃないかなって思ってたんですけど、実際は結構違うんだなと感じました。三浦さんとは年代も違うので一概には言えないんですけど、三浦さんと比較すると自分は全然変わってないなって。

三浦:『シン・エヴァンゲリオン』を見たときに、「さよなら全てのエヴァンゲリオン」って本当に感じて、それで俺は次に行けるなと思ったんだよね(笑)。あと、劇団をやっているとメンバーそれぞれの価値観が存在するから、その影響で色々と変わったっていうのはあるかなとは思う。もし自分が個人でずっと脚本と演出をやっていたら、いまの考え方になってはいなかっただろうな。

児玉:三浦さんにとって劇団は大きな存在なんですね。

佃:僕たちの劇団は似た価値観で集まってしまったから...。

児玉:劇団員で集まっているときはいいんですけど、公演を行う際に劇団外の人も含めて集まったときがなかなか難しくて…。最初の戯曲やアイデアは自分のテンポで作っているけど、実際に集団創作をするときにはそのアイデアの種をみんなで揉むことになるじゃないですか。そのコミュニケーションの難しさを痛感しています。三浦さんも自分の世界を守るための繭や城壁を持っていると思うんですけど、劇団の他のメンバーとすれ違ったりしたときに、苦しくなかったですか?

三浦:俺は本当にめちゃくちゃネガティブな人間なんで、つらいみたいな話をするとずっとつらいですよ。今もずっとつらい(笑)。

児玉:なるほど…最近言われるんですよ、「児玉は演劇なのか?」って。演劇より向いているものがあるんじゃないか、みたいな。

三浦:うーん、演劇以外のこともやってみるといいんじゃないかな。俺も映像の仕事とか、演劇でもロロとは違うプロデュース方法の公演とか、規模が違うものに参加したときに、やっぱり自分は演劇やりたいんだなって思いましたよ。もちろん映像の仕事も楽しいけど、それだけじゃたぶん続けられないなとか、やっぱりロロで作品つくるのが一番楽しいなとか。他の場所をいくつか作ることで、「ああやっぱ自分は演劇が向いてる」って思うことはありそうですけどね。

児玉:視点がミクロになりすぎて、自暴自棄になってしまっている…人生相談をしてしまいました。

3.三浦さんの中に起こった変化

佃:この前たまたま、『20年安泰。』の頃の三浦さんのコメントを読んでいたんですけど、その時と比較して今の三浦さんの考え方がパブリックになってきたと感じるんですよね。それは表現を行う上で変わってきたのか、単純に社会的な要請や、団体を取りまとめていく上で変わってきたのか、それが気になりました。

三浦:歳を取ったってことだとは思うけどね。『20年安泰。』の頃は自分より上の世代の人しかいなかったので。でも30歳を超えて、自分より下の世代の人と話す機会がたくさん出てきたときに、キャリアも年齢も重ねると、自分の持つ権力みたいなものが知らない間にどんどん強くなってしまうから、それに対してどうやって付き合っていくかを考えていくうちに変わっていったかな。

佃:演出の方針や劇作の中で、具体的にここは変わったなと思うことはありますか。

三浦:俳優に対して「こういう動きをして」とかは言わなくなったかな。間の演出もあまりしなくなったし、俳優に対しての指示を自分で演じて伝えることもすごく減りましたね。昔は勢いやスピード感、情報量をなるたけ凝縮していきたいと思ってたんだけど、最近は「なんで俳優はこの間で言ったんだろう」っていうことを、まず自分が読み解く作業をするようにしてるかな。だって俳優がその間で言ったってことは、俳優にはその間で言いたい何か、あるいはその間で言わせる何かがあるんだから、まずそこで生まれた間を尊重しようと。

ただ、もちろんそれを尊重しすぎてしまうと今度は演出家なんて必要なくなってしまう。でも演出家は全体のトータルコーディネートをやる仕事だから、作品を俯瞰したときに、「こうした方が絶対に作品としては良くなる」と思うことがあるので、それを俳優にどういうコミュニケーションをとって伝えれば良いかなとか、そこに時間をかけたいって思うようになったかな。

児玉:現在の三浦さんが手放した方法を、むしろ現在の僕たちは使ってしまっているな…それはいまの自分たちにめちゃくちゃ足りないことなんです。

三浦:うーん、俺は昔の自分がやってたことの良さもすごくあると思っていて。特に『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』に関しては、あの戯曲の良さを引っ張ってくるときには、勢いとかスピード感をもっと利用した方が良かったんじゃないかなと思うから。俺が昔のやり方をしなくなったっていうだけで、演出はそれぞれ正解があると思うから、落ち込む必要はないと思いますよ。

佃:セリフの間や身体の動きを演出家が明確に指示してしまうと、俳優の自発的なクリエイティブ性を奪ってしまうと思われることもあるだろうから、そこはバランスなんですかね。

三浦:でも、演出家から「このセリフはこの間でお願いします」って言われたことに対して、そこでどうやって自分の意識を作るかを考えることがクリエイティブだって思う俳優もいるし、人それぞれだとは思いますけどね。

4.作家として怖いと思うこと

佃:作品の題材に関して、逆に児玉から聞きたいことはありますか。

児玉:僕はよく作品の中で非人間なモチーフを取り扱うんですけど、それにはポジティブな理由とネガティブな理由があって。

ポジティブな理由の話からすると、大学の授業で講師の長谷基弘さんが「演劇というものは眼前に身体が存在する以上、人間とは何かという命題を避けられない」という言葉を言っていたんですが、それを聞いた時に「じゃあ人間やると損じゃん」って僕は思ったんですね。人間が目の前にいるのにわざわざ人間をやる必要は絶対ないって思って。

そっちの方が幅が生まれるし、空想が広がる。だから僕は風景を描くことによって、自分の作品をみた観客が劇場を出た後に、観客の世界や風景が拡張されるようなもの、かえって人間が際立つ、風景が際立つようなことをやりたいって思って、『人人人人人←波打って流れる川っぽい』という作品で川を演じてもらったのが最初です。それがめちゃくちゃポジティブな理由ですね。

逆にネガティブな理由はその裏返しで、怖いからですね。他者が怖いと思ってしまうからです。

三浦:人間を描くのが怖いっていう?

児玉:うまくできないんです。例えば大学生を作品に登場させるときは絶対にキャラクター化しています。ナチュラルな人のあり方を描くのがちょっと難しいのかもしれないです。

三浦:児玉くんの話に繋がるかはわからないんだけど、怖さの話でいうと、俺は自分が非当事者であることが気になってしまうんだよね、例えば震災の話を書くときに、被災地に住んでいる人を描くことが俺はすごく怖い。「腐女子、うっかりゲイに告る。」の脚本を担当したとき、ゲイの男性を描くのもすごく怖かった。それは、自分はやっぱり当事者じゃないから。ただ、それを突きつめてしまうと、自分の作品には俺しか出てこなくなっちゃうなっていう。俺ばっかりが会話している話になっていくなと思って。

でも自分以外のものを書くっていうことにフィクションの可能性があると思うから、フィクションを書くならそれをどうやって越えていくかってことが大事だと最近すごく思う。

児玉:そういう意味では僕の芝居は自分しか出てこない芝居だなとも感じます。三浦さん自身はその感覚をどのように獲得していったんですか。

三浦:明確には、「腐女子、うっかりゲイに告る。」のときから本当に書けなくなったなと思う。いまもそれがずっと続いていて、それ以降はどうすれば書けるようになるだろうかっていう戦いをずっと何年もしています。

児玉:今の時代で劇団創作を行っていくための大きな指針を得られた気がします。貴重な話をありがとうございました。

○三浦直之次回情報
いつ高ファイナル2本立て公演
vol.9「ほつれる水面で縫われたぐるみ」
vol.10「とぶ」
2021年6月26日~7月4日
吉祥寺シアター
http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/

プレビュートークは以上になります。最後までお読みいただきありがとうございました。演劇公演「海2」の詳細はこちらから。
今後ともかまどキッチンを何卒よろしくお願いいたします。

○三浦直之次回情報
いつ高ファイナル2本立て公演
vol.9「ほつれる水面で縫われたぐるみ」
vol.10「とぶ」

2021年6月26日~7月4日@吉祥寺シアター


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?