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[劇評]救いではなく、祈り(著:岩倉文也)

 ぼくはずっと他人に期待したことがなかった気がする。他人とは分かり合えないし、本心を打ち明け合うことなんて決してなくて、と言うかそもそも本心などは存在せず、ただひたすらに、意味のない言葉をお互いが傷つかないように、そうっと投げ合うことだけがコミュニケーションの全てで、だから、ぼくは人と眼を合わせて喋らなくなった。

 インターネットやSNSにおける断絶であるとか分断であるとか、それはもうぼくにとって前提条件で、断絶や分断のない世界など想像できたことが一度もない。かまどキッチン公演の「海2」は、だからぼくの今まで感じてきた、見てきた風景の、その先を見せてくれるような、あるいはなにか、希望とか絶望といったものとは違う、新しい世界の在りようを感じさせてくれるような演劇だった。

 本作は第一幕「私たち天使じゃないよ」、第二幕「海2」、第三幕「デカい水族館」の三幕から構成されている。

 さて、第一幕で演じられるのは遠い未来におけるとある家族の物語。その未来では当たり前のように神様が配信を行っていて、ついでに天使なんかもいたりする。そんな世界。潜水艇ジュール=ヴェルヌ号に暮らしながら航行をつづける姉(浦田すみれ)、弟(緒方壮哉)、父(松﨑義邦)、母(佐藤真喜子)の前に、加藤(山田遥野)と名乗る異星人が突然現れるところから本作ははじまる。

 と、内容に入っていく前に、ちょっと断っておかなければならないことがある。実の所、ぼくが演劇というものを観たのは今回がはじめてであり、この作品の演劇的な位置づけであるとか、他の公演と比較しての個性であるとか、そういった側面に触れることはできない。

 なので、美少女ゲームの話をしたいと思う。

 こんなことを言い出したからといって、ぼくの正気を疑うには及ばない。本作では表層的な意味でも、また本質的な意味でも美少女ゲームが重要なモチーフのひとつとして扱われており、それについて理解することは、すなわち本作を理解することにも繋がるからである。

 ざっくりと説明すると、かつて美少女ゲームにおいて特定のヒロインと結ばれるためには様々な障害をクリアする必要があった。いくつもの選択肢、複雑なゲームシステム、それら全てを乗り越えることによって、ようやくお目当てのヒロインに辿り着くことができた。しかし時代が下るにつれ、そんな状況に変化が訪れる。美少女ゲームユーザーは、いつしかプレイの快適さを求め、ゲーム性のほとんどを忌避するに至ったのだ。結果、「どのヒロインと恋愛するか」という、身も蓋もない選択肢しか存在しない美少女ゲームが、現在では多く見られるようになった。

 とは言え、そうした快適化はあくまで「物語を余計なストレスなく楽しむ」ためのものであり、依然としてプレイヤーが物語を希求していたことに変わりはない。が、一部のソーシャルゲームでは素材集めなどのゲーム部分の自動化やスキップはもちろん、ストーリーすら一切読まずにゲームの進行が可能という、ラジカルな快適化がユーザーの意向に沿って行われていた。

 ずいぶん長くなってしまったが、以上のような美少女ゲームやソーシャルゲームを取り巻く現状が「海2」には反映されている。第一幕の後半ではそうした快適化への欲望が至り着く究極の地点が、引きこもりの弟に扮する緒方壮哉の鬼気迫る怪演によってドラマティックに語られていく。以下の台詞で矢継ぎ早に繰り出される独特な用語は、みな美少女ゲームを快適に読み進めるためのシステムの名称である。

 全部あったよ。オート、バックログ、既読スキップ。その辺は当然だけど。あとシーンジャンプ機能。イベントも自由に解放できた。フラグは必要ない。景観も美しく最適化された。ライトに全部知れるし、ディープにも遊べた。キャラが解放されるとテンションが上がったし、そこまでの道のりにストレスもない。こうでしょう。本来は
 ゲームの話?
 いやだなあ。世界の話じゃん

 そう、これは世界の話なのだ。そして快適化の行きつく果てに、全ての物事は解体されていく。ストーリーも、家族も、自分が何者であるかさえ、最終的には不必要なものとなる。姉も、弟も、父も、母も、加藤も、登場人物全員が解体され、溶け合い、やがては凪。静寂が舞台を支配する。

 第二幕では、第一幕で描かれたカタストロフ後の、全てが溶け合って海と化してしまった世界が描かれる。溶け合った、とは言っても、登場人物は「海」として舞台上に次々と現れ、好き勝手なことを言っては場をかき乱す。快適化の果て、感情も他者との関係性も喪失し穏やかな楽園に到達したはずなのに、なかなか上手くはいかない。やがて業を煮やした「海」の一人が別の「海」を刺し殺すに至り、場は混迷を極める。と、舞台が突如暗転し、また第二幕の冒頭へと時間が巻き戻ってしまう。

 第二幕には、往年の美少女ゲームを思わせるループ構造が取り入れられているのだ。しかし第二幕には美少女ゲームとは違い、辿るべき物語や、至るべき大団円が最初から用意されていない。それらはみな第一幕の最後に解体されてしまっている。だから「海」たちは、むきだしの意思で自らを主張し、お互いを傷つけあうことしかできない。ここで描かれているのは遥か未来の、しかし何故だか身近に感じられる光景だ。

 そう、どこか見慣れていて、懐かしいとすら思えるこの光景は、ぼくらが日夜見つめているSNSそのもので、だから永遠に「海」たちは和解することなく、いつまでも諍いつづける

 けれど、そうした「海」たちの中に、ひとりだけ状況を俯瞰して眺めることのできる人物がいた。それが加藤である。加藤はあの手この手を尽くして場を収めようとする。そして幾度とも知れぬループを経て、ようやく一旦は「海」たちを鎮めることに成功する。何によってか? 一本の古いテレビドラマによって。

 加藤はみなを集め、ドラマを再生する。すると舞台に、先ほどまでとは打って変わって穏やかな時間が流れはじめる。かれらは別に和解したわけでも、なんらかの合意に至ったわけでもない。ただささやかな何かを共有することによって、一時の安寧を得たのだ。これは現に進行しつつある舞台を見守っている、ぼくら観客の写しでもある。

 同じ作品を共に分かち合うことの、気の抜けた崇高さ。思えばあらゆる作品は、余白を作り出すためにこそ、存在しているのかもしれない。人生に余白を作り出し、自らの境遇から、価値観から、肉体から、ほんのわずかな時間だけでも、浮遊すること。そうして出来上がった凪の時間が、楽園とは程遠く、またひどく儚いものであることは明らかだけど、それでもそんな時間が、一秒でも長くつづくのを、ぼくは願わずにはいられないのだ。

 しかし無情にも舞台は暗転する。

 そして第三幕。カップルと思しき二人組が、「海」たちの横たわる水族館の水槽を眺めている。交わされるちぐはぐな会話。ふたりは食い違う意見を抱えたまま、舞台を去っていく。激しい展開の多かった第一幕、第二幕に比べると、まるで夢から覚めたようなあっけなさだが、そのあっけなさが不思議な余韻を残す。

 どんな奇跡からも、神様からも見放されたぼくらは、決してTRUEエンドに辿り着くことはできなくて、分かり合うと分かり合えないの狭間を延々と行き来しながら、「でも私たちは元気です。」と、微苦笑しながら生きていくしかないのかもしれない。そう考えていくと、やはり「海2」は救いの物語ではなく、徹底して祈りの物語だったんだと納得する。祈ることができるのは絶望を知る者だけで、絶望を知る者はわずかな希望をも逃さずに捉えることができる。本作が人と人との断絶を語っていながら、なお生きることの無邪気な喜びを観る者に感じさせてくれるのは、そのためだろう。

 もっと語るべきこと、語りたいことはたくさんあるのだが、際限がないのでここら辺で筆を擱こうと思う。何やら小難しいことをくどくどと書き過ぎたきらいもあるが、ぼくとしてはただ、この公演に巡り合えたことの喜びを、少しでもだれかと分かち合いたかっただけなのだ。

関連リンク:
岩倉文也|Twitter
かまどキッチン|Twitter
かまどキッチン公演#02「海2」|かまどキッチンofficial web
公演#02関連企画「海2のミ」|かまどキッチンofficial web

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