ディーヴァ
エルメス銀座店プラベートシネマにて上映中の「私は、マリア・カラス」の席が取れたので、鑑賞してきた。
言わずと知れたオペラ歌手マリア・カラスのドキュメンタリーであったが、過去の公演、インタビュー、そして、プライベートフィルムをもとに編集されており、あっという間に上映時間が過ぎ去ってしまった。
ドキュメンタリーは好んでよく見るが、稀に見る傑作であった。
特別、凝った演出や効果が使われているわけではなかったのだがが、シンプルにテンポよく、マリア・カラスの魅力をフィルムに焼き付けていた。
もちろん、マリア・カラスの魅力があってのことだが、この魅力を十分に観る者に伝えることは本当にむつかしい事だと思う。
CDを何枚か聴いた程度で、マリア・カラスの魅力をそれ程、理解している訳ではない自分でこれなのだから、マリア・カラスのファンにはどう映ったのだろうか。
また、カラスを全く知らぬ人に、どう響いたのかも興味の尽きない所である。
ただ、マリア・カラスの人生と彼女の歌うアリアが要所要所でクロスオーバーし、銀幕に映し出されていく様は、ドキュメンタリーにも関わらず、なんとドラマチックであるのかと感嘆した。
彼女自身の賞賛と悲しみに彩られた人生は彼女の歌うアリアの歌詞とそのまま重なるようで、カラスの歌こそがこの映画の最大の演出といってよかった。
美しく、儚く、そして、気高い。
スターとは、本当にこのような人物をいうのだろう。
また、粗いフィルム画像に映し出されるマリア・カラスの生きた時代の空気もよかった。
古きアメリカ、ヨーロッパの空気が稀代のスターを作ったことがよくわかる。
現代のあらゆる物事をフラットに変換してゆく情報化社会では、この様なスターはもはや生まれないだろう。
しかし、それにしても、マリア・カラスの歌の素晴らしさよ。
「蝶々婦人」の “なんて広い空!“より始まり、「ノルマ」 “清らかな女神よ“、「カルメン」“恋は野の鳥“、「トスカ」“歌に生き、恋に生き“、「椿姫」 “さようなら、過ぎ去った日々よ“、エンドロールは「ジャンニ・スキッキ」“私のお父さん“で終了した。
特別ファンでもなかった自分が、今回のフィルムを通し、一気に魅了されてしまった。
同時代に生きた人であれば、なおさらそうであろう。
彼女の歌声だけでなく、当時まだ存命であった、彼女の存在そのものに魅了されたのではなかろうか。
時代を熱狂させる存在とは、この様な人物であることを雄弁に物語る美しい名画であった。
言葉なき 詩(うた)を奏でて 音楽と 人は言ひけり だが歌は 言葉に命 吹き込みて 涙と光 齎(もたら)さん 而(しこう)して 悲しき運命(さだめ) 降り掛かる 天(あめ)の調べを 授かりし 唱(うた)ひ彷徨(さまよ)ふ 歌姫は 終に静寂(しじま)を唱ひては 珠と砕けて 星となるらん
人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。