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弁論家について

「弁論家について」キケロ

共和制ローマ末期を生きた政治家マルクス・トゥッリウス・キケロが記したのが本書「弁論家について」です。

キケロは政治家としてだけでなく、法律家、哲学者としても数々の著作を残す当代随一の弁論家でもありましたが、本書はキケロ自身が直接、自論を展開していくのではなく、キケロより一世代前の弁論家として名をはせたルキウス・リキニウス・クラッススとその仲間たちとの対話を通じて、理想とする弁論、弁論家とは何かが記されてゆくという形式をとっております。

弁論自体については特に興味はもっていなかったのですが、キケロや本書はヨーロッパ精神の代表格である「ヒューマニズム」の形成に多大な影響を与えてきたと聞き、手に取った次第です。

本書の冒頭では「弁論の能力に最も影響力をもつものは、何よりももって生まれた才能である」と述べられており、現代の書物ではまず、ここまでストレートに書かれることはないだろうなあと嘆息しました。そして、その具体的な能力やスキルとは果たして、どの様なものか、3巻に渡って記されていくのです。

浅学のためか、本書のどの部分が後世の「ヒューマニズム」の形成に強い影響を及ぼしたのかは結局、分かりませんでしたが、読み終わり、自分なりに「弁論」について思う所がいくつか出てきました。

辞書を紐解くと弁論とは「大勢の前で、意見を述べること」とあります。

キケロの生きた時代は政治の場や法廷が弁論の技術を活かす場であったにちがいありませんが、現代において、弁論が活きる場とは果たしてどこであろうかと一考してみた所、「大勢の前で、意見を述べること」という点ではインターネットの普及もあり、ブログやSNSも弁論の活きる場ではなかろうかとも考えてみたのです。

普段、自分が目にするブログやSNS上で述べられている沢山の意見はまさに玉石混合で、心を動かされるものもあれば、そうでないものも夥しく、キケロの言うとおり、「弁論の能力に最も影響力をもつものは、何よりももって生まれた才能である」は否めないのかと思うこともしばしばです。

自分自身もインターネット上に自論を投稿することもあり、ある意味、大勢の前で意見を述べる弁論家とも言えます。

本書を通じ、大勢の前で、意見を述べることの意味を今一度、吟味する良い機会となりました。

また、本書の中でキケロは「万般の豊かな知識は言葉の豊かさを生む」「語る事柄に高尚さがあれば、言葉にはおのずからある種の輝きが生まれるからである」とも述べていました。

豊かな言葉を生むためにもこれからも、良質な知識、そして、古典に触れ続けていこうと改めて心に決めました。

大衆の多くは無知で愚かである。大衆は理性で判断するよりも、感情や情緒で反応する (アドルフ・ヒトラー)








人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。