一人歩く時間

 ベッドに入っても、全く寝付けないことがある。仕事が行き詰まっている時、嫌なことが会った時、時にはなぜ生きるのかなど、人には気恥ずかしくてとても話せないようなことを真剣に考え込んでしまうこともあるかもしれない。

 そんな時は、散歩に出る。たまには、自分の中にとことん潜り、正面から向き合わないといけないような気がする。じっくり考え事をする時間が人には必要なのだ。気分によってイヤホンをつけたり、カメラを持って写真を撮ったりしながら、自分のことをじっくり考えるのだ。

 

 夜に散歩をすると、周囲の静けさに改めて驚くことがある。そして、住み慣れた街中を散歩しているだけにも関わらず、自分が全く知らない場所を歩いているような気がしてくるのだ。

 昼の散歩では、世界の中での自分の存在の小ささを思い知らされてしまう。走る車の音、道行く人の話し声。様々な物音が自分の中を通り過ぎていき、人混みに揉まれる。たとえば、その瞬間に自分が消滅してしまっても、誰も気づかないのではないか。そんな恐怖を味わう。とても考え事や悩みにじっくりと向き合うような状態ではいられない。

 

 夜の散歩は「自分が確かにそこに存在しているのだ」という感覚を与えてくれる。夜の静けさの中で、昼と同じ建物が確かに存在しているにも関わらず、歩く人間は自分しかいない。物音もせず、あたりに響くのは自分の足音のみである。普段は人や車で溢れている道路も、いつも人がいっぱいで気になっていたお店にも、自分以外は誰もいない。

 まるで、世界が自分のものになったかのようなある種の全能感。孤独な神様の擬似体験。そんな充足感の中、自分の悩みに目を向け直すと、深く深く自分の中に潜っていける。

 この感覚は、電車のある時間や終電の直後では味わうことができない。1時間散歩して人とすれ違うことが一度あるかないかという時間帯、2時から4時頃の散歩にのみ存在する感覚だ。普段なら車が激しく往来する道路も、真ん中を堂々と歩くことができる。見渡す限り、歩いている人は自分しかいない。暗闇の中、光は主張しすぎない街頭とマンションからわずかに漏れる室内灯のみである。 

 そもそも、心身ともに健康な人ならば、こんな時間には起きていないのかもしれない。ましてや散歩など。しかし、人間誰しもふとした瞬間に寂しさを感じるものだろう。たまにはその寂しさを適当にごまかさず、むしろ寂しさにどっぷり浸かり、受け入れてあげることも必要ではないだろうか。

 くれぐれも、寂しさに魅入られないように。

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