ひろプリ ここまでの感想 ~主にキュアウィング+時々ぼくプリ~

はじめに

こんにちは。プリキュアを長年見ているKLP(ケーエルピー)です。

私はプリキュアについて、自分から意見や感想を言うより、他人様のレビューをひたすら眺めています。そのスタンスは今も変わっていません。

ただ、あるきっかけで始めたnoteが、それもせっかくプリキュアの話題で投稿した記事が、特定の人たちに対する反論だけというのも、いよいよ寂しいというか、虚しくなってきました。

反論そのものはしていけないものとは思いませんし、後悔もしていませんが、今回は「ひろがるスカイ!プリキュア」について、遂に登場がアナウンスされたキュアバタフライを楽しみにしつつ、自分から記事を書こうと思います。

違う意見を想定して書く部分はありますが、特定の誰かに対してと言うよりは、何度かそういう意見を見たから取り上げてみるという感じです。なので、関連がありそうでも、前回までの記事はリンクせず、前回までと同じことの繰り返しになる部分もそのまま書きます。


キュアウィングの魅力

やはりひろプリの話題で大きかったのはキュアウィング/夕凪ツバサでしょう。

私は過去、プリアラのピカリオや、はぐプリのキュアアンフィニなどがいたことを踏まえ、いずれ正式メンバーとしての男の子プリキュアは出てくるだろうと思っていましたが、ここまですんなり溶け込む描写を用意した公式サイドを心から尊敬します。
とにかく「男の子」ということを不必要に強調せず、あくまで「夕凪ツバサ」というキャラクターがいかにして「キュアウィング」に変身したか、というストーリーが良かったです。ここで「男の子」だと強調すれば、かえって特殊な存在として際立たせるようなものですから。

振り返れば、プリキュアシリーズでどんな新しい要素が出てくる時も、そうやって自然に描かれてきたと思います。初めて「光堕ち」したフレプリのキュアパッション/東せつなも、初めての高校生プリキュアのハトプリのキュアムーンライト/月影ゆりも、「ほら!初めてだよ!」という描かれ方はしませんでした。その要素ならではの場面が全くのゼロではないものの、あくまで”そういうストーリーだったからそうなっただけ”です。ただただそのキャラを成り立たせる要素の一つでしかないということでしょう。
ツバサにしても、女の子であるキュアプリズム/虹ヶ丘ましろと同居していたことを両親に驚かれる場面はありましたが、あらゆる場面で「男の子」と強調する必要もなければ、それがプリキュアということと結びついている必要もないのです。
もし「男の子」に特殊な意味を持たせてしまったら、「女の子」がプリキュアになる意味も自動的に「男の子がプリキュアになる意味以外」と決まってしまうので、むしろプリキュアというものの幅が狭くなってしまうでしょう。

以下の記事は自分の意見に近いことが書かれていてとても共感したので貼っておきます。こと性別という要素に関しては、女児向けアニメとして作られている以上は女の子主体であった方がいいでしょうが、時々含まれる要素としての「男の子」は、問題ないと思います。

それと、キュアウィングの変身シーンが本当に素晴らしい。舞い散る羽根のエフェクトとか、くるくる飛び回る鳥らしい動きとか、とにかく目が離せないんです。初めて男の子で正式メンバーになったのがウィング/ツバサであることに、何の不満もないという気持ちにさせられますね。

ストーリーについて

ひろプリは、長年見続けてきたファンが予想するパターンを外してきていると言われます。初期メンバーとして発表されているキュアバタフライが、これまでなら追加戦士が現れるタイミングまで覚醒していないこともその一つです。
それぞれの試みの良し悪しは、終わってみるまで何とも言えないでしょう。ただ、私のような大人ファンの中にできてしまったセオリーをたまに崩してくれるのは、むしろ歓迎します。

私が気になっているのは、敵組織の目的や大まかな全体像がまだ見えないことです。何だかよく分からない者に襲われ続けているキュアスカイたちのことを思うと、胸が痛みますね。
一応この辺りにも公式サイドの意図があるのでしょうが、私の記憶が間違っていなければ(あまり過去作を見返す機会がないので)、プリアラも敵の目指すところが見えるまで時間がかかった覚えがあります。最初はあまり複雑な背景のない敵キャラばかりで、キラキラルを奪われては取り返す、の繰り返しだったと思います。そう言えばプリアラは初めて肉弾戦を封印したプリキュアでしたし、やはり様々なセオリー外しをしていたのでしょうか。

何はともあれ、今後のひろプリの展開も見逃せません。

シリーズの今後

キュアウィングの受容は?

私の見た範囲でしかありませんが、キュアウィングが男の子だと発表があったとき、批判も擁護もどっちつかずも、それぞれ一定数反応があったように思います。
そして実際にウィングが登場したとき、批判的だった人たちが意見を変えるのをたくさん見ました。描き方の絶妙なバランスによって、「男の子」というよりも「キュアウィング」の魅力が伝わったのでしょう。

登場前はウィングのグッズだけ売れ残っているという噂もありましたが、登場後はむしろ売り切れていて買えないという報告も見ました。
一方で、そもそもグッズ展開が少ないという声も聞きます。少ないところにファンが集中してしまうのか、それともまだ潜在的なファンがいるのか、それは私には分かりません。
個人的には、Pretty Holicの展開にワクワクさせられました。

ところで、ウィング批判派の一部による発言で、私は一つ、絶対に看過できないものがあるんですね。
それは、「人気がないならウィングは必要はなかった」というものです。グッズが売れていないように見えるところに遭遇して「ほら見ろ人気がないじゃないか」と、どこか嬉しそうな人もいました。

それ、他のシリーズにも言えますか?

何人もメンバーがいれば、キャラによって売れ行きの差はどうしても出てしまうものです。売れない=人気がない=必要ないという図式で語るとしたら、それはひろプリだけの問題ではなくなるはずでしょう。ウィングを批判したい気持ちが先走って、全シリーズを侮辱していることに気付いていないんですね。

大切なのはチーム内の人気の順位ではなくて、それぞれ役割を持ったキャラがそこにいることです。キュアウィングはひろプリのメンバーの一人。それが事実です。

時に批判するのも愛とはいいますが、人気が出ないからと必要ないと言ったり、嘲笑ったりするような人が、プリキュアを本当に愛していると言えるでしょうか。愛せないのは構いませんので、わざわざ意地の悪い楽しみ方をするくらいなら、「嫌なら見るな」でお願いしたいものです。

近年のプリキュアは、シリーズの中でもおもちゃの売り上げが落ち込んでいるようで、前作のデパプリは過去最低になってしまったようですが、一方でデパプリの映画は前作比でかなり伸びています。今後の対策は公式サイドが考えることなので、ファンとしてはひろプリの人気を祈りこそすれ、貶めて笑っている暇はありません。

プリキュアを成り立たせる要素

さて、男の子チームという設定が物議を醸す舞台版プリキュア、「『Dancing☆Starプリキュア』The Stage」(以下「ぼくプリ」)の、キャストさんなどが発表されました。

私は今のところ、ぼくプリをいいとも悪いとも思っていません。
男の子だけのチームというのは、女の子の中に男の子がいるのとは違うと思います。とはいえ、テレビの女児向けアニメとは別枠として作られていると見ることもできます。舞台ならテレビ以上に「嫌なら見るな」もしやすいですし、ターゲットはかなり絞られそうです。なのでここで拒否感の出た人が、ウィングのときのように手のひら返しする機会はなさそうですが、それも仕方のないことでしょう。

発表されたときは混乱の方が大きくイメージもしにくかったのですが、こうしてキャストさんの発表やコメントを見ると、本当にこういうプリキュアを作りたいんだという本気度が伝わってきます。
特に、プリキュア生みの親である鷲尾天さんのコメントからは熱を感じました。なるほど、公式サイドはプリキュアとは何かを常に考え続けているのですね。

キュアウィングやぼくプリの議論を見ていると、批判派の中に「男の子をプリキュアにするなんて、(「ふたりはプリキュア」のコンセプトである)『女の子だって暴れたい!』はどこに行ったんだ」という論調をよく目にするのですが、そもそも、「女の子だって暴れたい!」とは何を指すのでしょうか?そしてそれだけがプリキュアでしょうか?

確かに、プリキュアシリーズは初代から、女の子のジェンダーバイアスに抗うメッセージを示してきました。私自身、それがプリキュアシリーズを支持している大きな理由の一つでもあります。

しかし、作品ごとに描いてきたものを、全て初代の打ち出した「女の子だって暴れたい!」に集約するのも、雑な話ではないかと思います。
例えば初代は、女児向けアニメには珍しいほどの激しい肉弾戦や、黒と白というイメージカラーなどが世間にインパクトを与え、それが「暴れたい」のコンセプトと合致したものとして語られてきたわけです。仮にそれを強固な基準にすると、肉弾戦を封印したプリアラや、いかにも女児向けの傾向にのっとって以降のシリーズの主人公がピンクばかりだったことは、「暴れたい」から遠ざかったと言えてしまいます。
でも今さら、「本当に暴れていたのは初代くらいじゃないか」と言われて、納得するファンが何人いるでしょうか?それぞれの作品がそれぞれの形で「暴れたい」を追求してきたのだ、と反論したくなりませんか?
言い換えれば「暴れたい」自体、抽象的なスローガンなのです

また、女の子が暴れている”だけ”がプリキュアではありません。例えば正義感や、夢を大切にする気持ち、困難を超えていく勇気。プリキュアを成り立たせる要素はたくさんありますし、シリーズごとに大切なものも違います。

初代の頃には20年も続くことは想定されていなかったでしょうし、20年後にどんな展開を考えるのかなんて誰も分からなかったはずです。各作品が様々な要素のバランスを変えながら個性を発揮して、プリキュアは続いてきました。
20年前の初代が示したメッセージの、それも一つだけを、あらゆるシリーズで最優先に大切にするべき、というのは、私にはやや狭い捉え方に感じられます。

ちなみに私は、男の子がいても女の子は暴れられると思っています。現に、ひろプリにおいてキュアスカイやキュアプリズムが暴れていないなんてことはありませんし、女の子のいないぼくプリはそもそもアニメシリーズとは別枠です。
もし批判派が、男の子がいる時点で女の子が暴れたとは見なせない、というのであれば、それは私とは解釈が違います。

多様性?

《※2023年6月2日 推敲しました。》

それと、これは擁護派にも言えるのですが……「多様性」をキーワードに議論するの、ちょっとやめませんか?

公式サイドは当然、男の子のプリキュアファンを気にしているでしょうし、男の子プリキュアなどの存在が、誰かにとってプラスの効果を生み出すこともあるでしょう。

ただ、一番はまず作品ごとに何を描きたいか、何を重視してどんな挑戦をしたいか、ということがあるんじゃないでしょうか。
柔軟な発想でやりたいことをやったその先で「多様性」につながっている、というのが私の考えです。

はぐプリのキュアアンフィニの件は、当の公式サイドはそこまで特別なことをしたとは考えておらず、世間の語るジェンダー論に戸惑いもあったようです。ジェンダーバイアスに抗うメッセージが強めに出ていたはぐプリですが、まずは頑張る人に「フレフレみんな」と言いたいのでしょう。
先ほど挙げたぼくプリについての鷲尾さんのコメントも、公式サイドの凝り固まったイメージを壊したいということは言っているものの、「多様性」のために男の子をプリキュアにしたいとか、男の子に配慮が必要だとか、そういう気負いがあるようには見受けられません。

前述の通りキュアウィングは「男の子」を強調しない形で描写されていますが、もし「男の子がプリキュアになってもいいんだよ」「男の子でも堂々とプリキュアを好きになってね」とことさら言いたければ、もっと「男の子」を前面に出してくると思うんですよ。でもそれはきっと、ひろプリが一番伝えたいことではない。だから「夕凪ツバサがキュアウィングになった」としか描かれないのでしょう。あとは視聴者が勝手にそこから何かを受け取っているだけなのです。

なので私は、批判派の
・プリキュアシリーズの個性を潰し女の子だけの場所を奪う男の子プリキュアは、むしろ「多様性」の否定
・女の子だけのプリキュアを男の子が好きになるのが真の「多様性」
・女児向けアニメで男の子の「多様性」を表現する必要はない

擁護派の
・「多様性」の時代なので男の子プリキュアは認められる
・男の子が堂々とプリキュアを好きになれるので「多様性」が広がる

というような、どちらの立場でも多様性をキーワードにしたものにはモヤモヤします。

最近、ディズニーの実写版「リトルマーメイド」でアリエルに黒人がキャスティングされたからと、「ポリコレの押し付けでアリエル像を崩された」という批判が沸き起こっていましたが、それを思い出して悲しくなりますね。黒人を採用したことがポリコレかどうかということより、その俳優がどんな演技でアリエルを表現するのかの方がよほど大事だと思います。どうせ公式がポリコレじゃないと言ったところで、批判派は信じないでしょうし。
プリキュアにしても、多様性を打ち出したいのか、それともかなぐり捨てたのか、という議論に、どれほどの意味があるでしょうか。確かなのは、制作者は試行錯誤しながら各作品を作っているということだけです。極論、あとはそれをこちらが気に入るかどうかでしかなく、それは個人の自由です。

おわりに

それにしても、20年も続いているのは、単純にすごいことだと思います。続いているからこそ、様々な展開が出てくるし、長年見ているファンにも思い入れがあって、議論が沸き起こるのでしょう。

キュアバタフライを迎えたひろプリの活躍と、次々打ち出される20周年企画を楽しみにしながら、ファンを続けたいと思います。

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