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僕の考えた最強の日常写真

今Twitter上で、#yousawscenesのハッシュタグを付けてツイートをすると選者に見てもらえてピックアップしてもらえるという活動が行われている。

それでTwitterを見ると、素敵な写真が沢山投稿されているのが見られる。どれも素晴らしい写真なのだけど、でも思うのは「それ、日常なの?」という事だ。

何故か。それは、日常生活とは、例えば毎日窓を開ける歯を磨く等等、習慣化され毎日繰り返される、特に意識にも上らない事柄の総体のことだから。

特に何の感情も沸かないものを日常と定義すると、投稿されるそれら日常写真の異質さが見えてくる。
美しく珍しくハッとさせられるそれらの瞬間は確かに日常生活と地続きな時間の中で切り取られたものに違いない。しかし、シャッターが切られたその瞬間、その人の心は動かされなかっただろうか? そして、心が動かされたとするなら、それは日常と呼べるだろうか?

という事で、自分でも日常写真を撮影してみることにした。なるべく心が動かず驚かず感動もせず、見る人にいかなる感情も生じさせない、しかし何某かの場所なり場面が写っている写真をである。しかしどうやって撮れば良いのだろう?
やってみたのは以下の2点だ。

  • 撮影の間中独り言を禁止する。そして撮影に際しては頭の中に自分の想像の世界を作らないようにする。

  • 撮影しようと思うものを探してはいけないし気がついてはいけない。自分の視点を主張するようなことはしてはいけない。脚色無しに、あくまで現象を客観的に撮影する。

これは難しい。と言うのは、多くの人がそうだと思うけど私もカメラを持つとつい、何か良い写真は撮れないかと意識的にキョロキョロしてしまうからだ。そしてそういうものを見つけるとつい、「わー綺麗」等と心のなかでつぶやいてしまう。
心を無感動モードを切り替えるために、最初の45分ほどは上記の点に注意し、無心に歩いた。合計5回、そのようにして街のスナップ写真を撮影した。このようにして撮られたのは以下の写真である。

1回目 猫が何かを吐き出している所。やっぱり気になるモノを撮ってしまう。

2回目 電車が踏切を通過する所。ありふれた光景の代表のような場面だけど、やはりタイミングを気にしているようだ。目の前に展開している事象の、特に写真映えしそうな瞬間を狙う癖は抜けていない。

3回目 建物とその前に停められた車。目の端に映る風景の面白みは撮影者の気を引くようで、どうしてそちらの方へ行ってしまう。しかし撮られた写真は無意味になってきた。

4回目 空き家。この日から急に、どんなに歩いても写真が撮れなくなる。何を見てもシャッターが切れず、切ったとしてもどうでも良い写真ばかりになる。

5回目 もはや何の写真なのか・・・。35mmレンズがなにか悪さをしてるのかと思い、70-200mmの70mm付近で撮影してみた。(70mmは人が何かを「見る」時の画角だ) しかし、相変わらず写真は撮れない。
そして、自分でも少し驚いているが、見ても心が動かないという意味での日常写真は日を追って撮れるようになっている。特に、撮影5回目の写真は本当に見事なまでに心を動かすものが何もない。


このプロジェクトを通して分かったことは次の点。

  • 頭の中の独り言を消すのは大変
    気がつくと常に何か、頭の中でつぶやいている。独り言をしないように注意しても、町中には文字情報も溢れており、ポスターなぞ見るとつい「はぎうだ光一」等と意味もなく黙読してしまう。
    また、声を出さないようにしていても、ただ歩いているだけで頭の中に自動的に音楽が、となりのトトロの挿入歌さんぽとかが流れてきてしまう。

  • 日常写真は人の心を動かさない
    何より、日常を日常として撮影したその写真は、当然ながらエモーショナルなものは何も無く、それは意図したものでは有るが、やはりそれには資料以上の意味を感じられない。

多くの人が撮る日常写真が素敵なのは、逆説的では有るがそれを日常に埋もれさせないようにという意味で撮影しているからなのではないだろうか?
日々行われる事、日々自分の目の前で繰り広げられる事象。その全ては実のところ、いつ見ても毎回違うものだ。昨日と今日は実際は違う。でも、人はそれを区別せず日々の繰り返しと括ってしまう。この、類型を日常と括り認識する事こそ「日常」の正体だ。
しかし、そこに昨日と今日を区別する何かを感じる人のそれは、日常はもっと日常ではない何かに感じられていると言う事だと思う。
そして素敵な写真を日常の中で撮るという事は、その何かを、感じそしてその何かを大切に思い扱っているという事なのだろう。

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