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“MARKETING MYOPIA(近視眼)”

(*本稿は、2015年5月1日のブログに多少加筆した再投稿です)

“Marketing Myopia(近視眼)”はハーバード大学経営大学院の故 Theodore Levitt教授が1960年に発表した論文であり、今なお、経営に携わるものに多大な影響を与え続けている経営学史上の名著.HBRのサイトで公開されている(PDF版は有料だがhtml版は無料で閲覧できる).

https://hbr.org/2004/07/marketing-myopia

隆盛を誇った企業や産業界がなぜ衰退するのか、その原因を経営陣の近視眼的な視野という観点で論述.鉄道、ハリウッド、石油、自動車、化学産業から、ドライクリーニング、馬車の鞭屋まで、様々な例を取り上げて説明している.

多くの企業は「我々の事業は、○○製品を作り、販売することだ」といった企業指向の狭い視野で自らの事業を定義している.そのため、新しい技術の登場や社会構造の変化を嫌い、目をそらし、気が付けば、顧客は自分達から離れてしまっている.レビット教授は「企業の目的は、顧客を獲得し維持すること」と捉え、企業は自らの事業を「顧客の○○を満足させること」と顧客指向で考えるべきと説いた.例えば、鉄道産業は彼らの事業を「鉄道」と定義せず、「輸送」と定義していれば今日の衰退はなかった.ハリウッドは自らを「映画ビジネス」と定義していたが、「エンターテイメント・ビジネス」ともっと広い視野で定義していれば、新興のテレビ産業に解体、再編、乗っ取られることはなかった.テレビは馬鹿にし、蔑む対象ではなく、歓迎すべき新しいメディアとして積極的に投資していれば、当時のハリウッド産業界に巨大な富をもたらしたはずだ…等々.

65年も昔の論文には、論旨以外の楽しみもある.「こんな昔に既に、…」という驚きはもちろんだが、「あぁ、これに関してはレビット教授の予測は外れたな」とか、「予測が30年早すぎたね」といった部分もある.当時も電気自動車や燃料電池、ソーラー・パワーを動力源とする自動車の話題がホットだったことも感じられる.氏の洞察が様々なビジネス理論の基礎になっていることにも気が付く.「イノベーターのジレンマ」は同じハーバード大学のクレイトン・クリステンセン教授の1997年の著作だが、その原型も既に本論文中に見られる.そして、最も強く考えさせられるのは、いまだ多くの企業が氏が指摘した当時と変わらず、近視眼的なままである、という現実である.

セオドア・レビット教授といえば、フィリップ・コトラー教授と並びマーケティング界の大御所と目されるが、氏がハーバード大学で講師のポジションを得て「マーケティング」の講義をはじめて受け持った1959年まで、マーケティングの経験もなければ、マーケティング関連の書籍すら読んだことがなかったという逸話がある.本書はまさにその年の後半に執筆された.ちなみに氏はオハイオ州立大学では経営学ではなく、経済学で博士号を取得している.ピーター・ドラッカー教授もマネージメントの権威だが、経営学は学んだこともなく(ナチスに追われケンブリッジに逃げていた時期に経済学は学んだが)、博士号は国際法に関する研究であり、しかも、マネージメントの実践では生涯で持った部下は僅か1名、それも20代の時に半年ほどの期間でしかなかった.この2人の著作に共通(*)して感じられるのは、マーケティングやマネージメントの業務内容ではなく、人及び人が置かれた環境に視点が置かれているという事である.ドラッカー教授は自身を「社会生態学者」と定義したが、レビット教授も同様、人間によってつくられた人間の環境に深い洞察がある.この2人が新しい領域を切り開けたのは異分野から来たからこそであり、当該分野の常識に囚われることなく本質を拠り所とできたからであろう.

横道に逸れてしまったが、本稿の目的は“Marketing Myopia”一読の勧めである.執筆当時、氏は30代半ば、“Marketing Myopia”は文学的な言い回しもなく、とても平易な英文で記載されている.普通の英文読解力があれば半日で読める文量だ.週末にグラス片手に経営学の古典に触れるのは如何であろうか?

(*) ドラッカー教授、レビット教授、共にユダヤ系ドイツ人の家計に生まれ、ナチスの台頭で米国へ移民した。ドラッカー教授は、ナチスを公然と批判する著作を出版して追われる身となり、一方のレビット教授は米国に移民後、まだ、高校在籍中に米軍兵士として欧州戦線に従軍している。

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その昔、AIの応用研究に従事していた。あれから幾年も歳月が流れ、随分、世の中が変わったと思う。ここ数年、AIに囲まれた社会での『人々の価値観』は、どう変化するのだろうと折を見て空想しているが、紹介する短編小説は、そんな空想を下地に綴った物語です。