「夜の海を綴じる」

「ミヤ先生のノートって、夜の海みたいだよね」
 五十分間の授業の成果が刻まれた黒板に、名残惜しくも黒板消しをかける。そうして綺麗になった黒板に不思議と達成感が満たされ、さて職員室に戻らねばと教卓に目を向けたときだった。
 広げられたままの私のノートを、今さっき授業を受けていた一人である池内さんが興味深そうに覗き込んでいる。恐らく染めているのだろう、明るめの茶髪を揺らしながら。
「夜の、海……?」
 もしかしなくても、このやけに詩的な言葉を零したのは池内さんなのか。こう言ってはなんだけど、意外だ。
「この、えーと、インディゴブルーみたいな色のペン。凄く夜って感じ」
「……そのペン、ミッドナイトブルーっていう名前だよ」
 私が愛用しているペンのブランドは、その色のひとつひとつに独特な名前をつけている。太陽のようなオレンジにはサンシャインオレンジ。恋する乙女を連想させるような可愛いピンクにはラブリーピンク。というような具合で。私が一番好きなのがミッドナイトブルーで、教材研究用のノートには必ずこの色を使っていた。
「ミヤ先生にぴったりだね」
「え?」
「だって、美しい夜って書くんでしょ? 名前」
「ああ、そういう……」
「あ、教材運ぶの手伝いますよ」
 そう言うと、ノートをぱたりと閉じ、教材をまとめ始めた。
 
「……池内さんって、文学とか好きなの?」
「えー、なんで?」
 池内さんと二人、教材の束を抱えて廊下を歩く。お昼休みだからか、あちこちで若さの溢れる歓声が聞こえてきた。
「夜の海みたい、なんて、小説みたいだなあって。びっくりしちゃった」
「へっへ、こう見えて国語は得意なんだよねえ」
 そう言ってふにゃりと笑う。
「数学ももう少し頑張ってほしいなあ」
 私が皮肉混じりにそう言うと、池内さんは苦々しい顔をして首を振った。
「数学は将来必要ないもん、私には」
 大体の高校生はそう愚痴るのだ。何度聞いたかわからないぼやきに、私は思わず苦笑いした。
 
 職員室に着くと、池内さんは持っていた教材を私が抱えているものの上に乗せた。代わりに、両手が塞がっている私のために扉を開けてくれる。
 扉を開けてすぐの場所にある自分の机に教材一式を置いて、池内さんに礼を言おうと振り返った。しかし、先に口を開いたのは池内さんだった。
「数学は嫌いだけど、ミヤ先生の授業は好きだよ」
「え……」
 
「夜の海が溶けだしたみたいな色だから」
 
 見たことがないくらい真剣な顔でそう言った。しかしすぐに、いつもの無邪気な笑みを浮かべ、栗色の髪をさらりと耳にかける。
「明日もよろしくお願いします」
 そう言って軽く会釈をすると、くるりと身を翻して廊下の奥に消えてしまった。
 
 ふらり、と倒れ込むように椅子に座り込む。その勢いで椅子の足元に付いたキャスターがくるくると回り、そのままガタン、と音を立てて机の足にぶつかった。椅子と共にダメージを受けた私の体の奥で、じんじんと地鳴りが響く。しかし、地鳴りが静まる頃になっても、胸の奥で共鳴する高鳴りはいつまでも続いていた。
「バレてたかな……」
 ぽつりと心の声が零れ落ちる。
 授業中に関係の無い質問を不意に投げてきたり、躊躇いもなくタメ口を使ってくる、ちょっと度を超えて人懐っこい少女。それでも、その天真爛漫さをどうしても憎めない。そういう印象だったのに。
 池内さんはお見通しだったのかもしれない。私が少々、教師という仕事に疲れを感じていたことに。まだ一年目で、何もかもが上手くいかないのだ。授業もすべて独りよがりになっているのではないかと、毎日のように悩んでいた。
 
 ノートを開いた。ミッドナイトブルーで綴られた海は、一面に詰められた数字の波が遠慮がちに揺れている。点々と浮かぶ記号はその波をかき分けるように泳ぎ、隙間に散らばる白い余白が星のように瞬く。
 これは夜の海だ。
 私のノートには、夜の海が綴じられている。
 ノートを開くことで、私の授業に夜の海が溶けだしていく。授業を受ける生徒達は、さながら海を渡る航海士だ。航海士が針路を見失わないようにするためには、何が必要か。中学生の頃、理科の先生が教えてくれた。
 北極星だ。
 空の一点に留まり、航海士たちを導く北極星に、私はなれるだろうか。
 
「なれるよ、美夜先生なら」
 そんな声が聞こえてきたような気がした。

 ぱたん、と音を立て、夜の海を閉じた。
 



◇◇◇
私が今一番気に入っているペンの色は、夜が溶けだしたようなブルーブラックだ。このペンでノートに書き込むたびに、夜空を描いているような気持ちになる。私のノートは夜空なのだ。そう思うとほんの少し、つらい勉強を楽しく思えるような気がする。
この話を書きながら、高一で履修した倫理の授業を思い出した。それはおよそ倫理の授業とは思えないほどにアクティブでユニークな授業だった。新入生向けに作られた冊子のなかの企画のひとつ、「○○な先生ランキング」のうちの、「授業が面白い先生」という項目で堂々の一位に輝いていたのも頷ける。
あるとき、私は先生のノートを見た。教卓の上で教科書や資料集と共に開かれたそれには、青いペンで書かれた手書きの文字がびっしりと詰まっていた。
毒舌で、変わり者揃いのこの学校でもかなり上位の変わり者で、いつも飄々としている先生の、これまで積み上げてきた努力の一端を垣間見たような気がした。
先生は私が二年に上がる年に離任してしまった。二年になって倫理を履修する人が多い中、一年での履修を選んだお陰で他でもない先生の倫理を受けられたことは、今でもちょっとした自慢である。
それでも、願わくばもう一度、先生の授業を受けたかった。きっとどこかの高校で相変わらずあの授業を展開しているのであろう姿を思い起こしながら、私は今日も夜を描く。

#小説 #エッセイ

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