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新年のご挨拶と2020年振返り

年が明け早くも一週間。(白目)

昨年も各方面でお世話になり、ありがとうございました。本年も引き続きどうぞ、よろしくお願い致します。

これまで積極的にはお話ししてこなかった2020年のことを、記念すべき第一回目のnoteとして投稿しようと思います。上半期はハイライトのみ、特に変化の大きかった下半期の出来事を中心に書いていきます。

初めて書くので読みづらい部分が多くなってしまうと思いますが、頑張って、書きます、よろしくお願いします。

キャリアチャレンジの1〜2月

実は、兵庫県明石市の任期付職員採用試験(LGBT/SOGI施策担当)に応募していました。

(書類選考の通過者発表を待たずして一週間の有給をとり、前乗りして視察に突撃したのは、なかなか思い切ったフットワークでした。笑)

結果は書類通過、次の最終二次面接脱落。
応募書類の作成に際しお世話になった皆さまには残念な結果をお伝えする形となりましたが、お陰様で悔いなく走り切ることが出来ました。
採用となった施策担当のお二方を含め、明石市の今後のご活躍を心から応援しています。貴重なご機会をありがとうございました。

withコロナの3〜4月

NPO在籍時とは違い、LGBTムーブメントのあれやこれやもすっかり私の生活からは遠のいていき、加えて東京レインボープライドもおうち仕様。
セクシュアリティ以外の「私」の部分に目を向ける必要が出てきていたのがこの時期でした。

働き方や日常生活にも変化が出始め、

・自分の生活には何が欠かせないのか
・逆に無くても困らないものは何か

が浮き彫りになっていったような気がします。

すっぽんぽんの5月

そしてリモート飲みが流行っていた5月はオンラインコミュニケーションが激増、中でもパートナーが開催した「ライフヒストリーを聴く会」では、今までLGBT研修等ではお話ししたことのなかった部分も含め、自分の人生を改めて紐解くことができました。

この数年、何百回とライフヒストリーを喋ってきた自分が言葉に詰まっては大泣きし、上手に話すことも出来ず、なのに

「いいよいいよ、いくら時間かかったとしても聴くからさ、話しなよ!」

と最近知り合った人もいるなか2時間近く自分の人生に寄り添ってもらい、トランスジェンダーの1アイコンとしてではなく「キョウヘイ」という人間そのものを丸裸にしてもらえたような、本当に有り難い機会でした。

コロナ離職した6月

どう生き何を成し、どう死にたいですか?
ヒトもモノも信念も、必要だと思っているそれは本当に自分の人生にとって必要なものですか?

2020年は漢字一字で表すなら 『生』と『整』。
(漢字一字じゃない、笑)
自分の生を熟考し身も心も整える、そんな一年。

その大きなキッカケとなったのが、約1年務めたPR会社を6月15日に退職したこと。(非正規だけど)
有り難いことに退職の2ヶ月ほど前には契約更新が出来そうにないことをお伝えくださいましたし、

「転職活動とかでお休みが必要なときは、遠慮なく言ってくださいね。」

とも言ってくださっていたので、対策を練る時間は沢山ありました。

変わらずそばにいて支えてくれる心強い友人らやパートナーの存在もあり、あまり先々の不安というか、絶望感もありませんでした。

(むしろこの際だし、ゆっくり休むってのもありだよね(゚∀゚)メッチャホリデー!)

くらいのノリ。笑

雇用保険の基本手当受給に待機期間がなかったことも幸いし、暫くの間は自分自身やこれからの人生と、じっくり向き合うことにしました。

無価値感と闘った7〜9月

が、ボディーブローのようにじわじわ効いてきたのが、存在価値
お仕事でもプライベートでも、なんか常に動いてないと気が済まない私は、

(お休みっていっても…人の役にも立たず何も成果を生み出していない今の自分には人間としての価値が無いのでは……あれ、っていうか今までも言うほど大した成果なんて生み出してこなかったのかもしれない………)

なんて考えてしまって全く気が休まらない。

仕事って単にお金を稼ぐ手段であるだけでなく、『所属感』『貢献感』『自己価値』『目標』『成長マインド』・・・色々なモチベーション要素が詰まったもの。ともすれば1日の半分、人生の30%を占める時間で得ていたエネルギーは、自分が思っていたよりもずっと大きかったのだと痛感。

「めっちゃホリデー!」だったはずの下半期は、次第に『焦燥感』に支配され、私の心はどんどん不安定になっていきました。

気晴らしに外へ出るも、行き交う他人と自分とを比べては、自分の中の何かを保てたような気になったり。はたまた勝手に尊厳を傷つけられたような気になって荒れ模様になったり。

みんなさ、言わないだけで色々あるのにね。

ちょっと肩がぶつかっただけで、その日は一日落ち込みっぱなし。キラキラした充実みのある投稿を目にしては、逆に自分の幸せが半減していくかのような錯覚に陥ったり。
もはや他人の幸せを無条件に祝福することなんてできず、何を見ても自分が惨めたらしく感じてしまうように。






そうして少しずつ溜まっていったモヤモヤは、

(こんなものは私じゃない)

と自己否定という形で自分の心を傷つけ、

(最初からできっこなかった、無能なんだ)

と過度に自分を卑下し、期待値を下げることで自分を守ろうとする、そんな悪い癖が。

iPhoneが盗まれた10月

(なんでや、最新モデルぞ)

10月25日のこと。

すがる思いで駆け込んだ警察署では、受付警官の態度があまりにも酷く。

(苦情とかも併せて対応しているような窓口だと高圧的な人を配置するケースが全国的に多いらしいですね。いや、知るか!!!!!!)

ふと、(iPhoneが無くなったことで誰とも連絡がとれず余計)この地球上に自分の味方は誰一人としていないような気がして、帰り道は人目もはばからず大泣きしてしまいました。

雪玉って、坂を転がすとどんどん大きくなっていきますよね。私のネガティヴも初めはうんと小さかったはずなのに、気づけば歯止めが効かなくなるほど巨大化。
味方がいないどころか、むしろ全人類が自分に危害を加えようとしている敵にすら見えてくる。そんな精神状態でした。

そして、追い討ちをかけるように愛猫『てち』が天国へ旅立った10月30日。
盗難から5日後のことでした。

こうも度重なると、

(なんか、このまま生きながらえても幸せになれないんじゃないかな…)

とさえ感じるように。
「でも乗り越えるべき課題だよね、きっと」とも感じていた当時の私は、抗おうとする気持ちを『怒り』のエネルギーに転換してしまい、これが自分の心を更に蝕むことに。

怪人めくじらババアと化した11月

(人生ろくなことがねぇ)

と唾を吐きながら生きていれば、不思議とその通りの人生になっていく。
人生が不満と妬みだらけのつまらないものに映るか、それとも『今この瞬間』の感謝と幸福に満ちたあたたかいものに映るか、全て自分次第。

世界何十億と人がいれば、「やなやつ!」と感じる人も数え切れないほど沢山いるわけで。
制裁をくだせば、その瞬間はスッキリするかもしれないけれど、また別の「やなやつ!」が必ず目の前に現れる。

いますよね、電車の座席に乗ると何故か開いた股が閉じなくなってしまう特殊魔法をかけられてしまった人とか、降りる人より先に突撃してくる椅子取りゲームのプロとか。

(けしからん)

そう思っては通せんぼして意地悪したり、相手が肩を当てにくればあえて避けることをしなかったり。路上喫煙してる人がいればバッチバチのガンを飛ばしたり。通行人に売られた喧嘩まで買いそうになったり。(買わなくて本当に偉かった。)

目の前の自由奔放そうな人を見ていると、まるで自分の不幸がその人のせいでもたらされているかのように感じてしまって、「私は屈しないぞ」と勝手に勝負を挑んでいました。

もはやネガティブにしかフォーカスがいかなくなってしまった11月。私の人生は、『やなやつ!を懲らしめ制裁をくだす為だけに費やされる人生』と化してしまいそうでした。

たぶん、仕事で得ていた『貢献感』や『自己価値』を、今度は『正しさ』をぶつけることで高めようとしていたんでしょうね。

(どうすればこの悪鬼を屈服させられるか)

そんなことにばかり脳が働くように。(自称地域警察もいいところ。)
自分の考えや行為を『正義』と信じ、せめて自分だけは綺麗なままであろうと必死でした。

(自分は悪くない、誰かが成敗しないと)

その割には日々のパフォーマンスは高くなく、ただ疲弊するだけの、幸福とは程遠い日々。命をすり減らしてまで制裁を下すのが自分である必要なんてどこにもないのに。

ただ一つ、「この世界には自分が必要だ」と実感できる理由が欲しかった。誰かに、私という存在を認めて欲しかった。

光が差した12月

「あなたの同意なしには、誰もあなたに劣等感を抱かせることはできない」

“No one can make you feel inferior without your consent.”

そんなある日、このエレノア・ルーズベルト元米大統領夫人の言葉を西村宏堂さんがある記事でご紹介されていたことを、ふと思い出します。
(素晴らしい記事なのでぜひ御覧ください。)

・人は壁にぶち当たったとき、どのようにして立ち直ればよいのか
・『人生が幸福である』とはどういうことなのか

それまであった『怒り』の感情が学びのモチベーションへと変化し、心理学のインプットが激増。

新しく取り入れたものもあれば、

1. フィットネス習慣
2. マインドフルネス瞑想
3. ミニマリズム
4. 沢山お水飲むこと
5. サプリメント(特にアミノ酸)
6. 無添加食品
7. 自己決定
8. 冷水シャワー
9. 人にも環境に良いもの
10. 積極的に太陽の光を浴びること

手放したもの(手放そうとしてるもの)も。

1. 見栄
2. 他人との比較
3. 復讐心
4. 過度な自責
5. 自己犠牲
6. 添加物
7. 牛乳
8. 沢山のモノ
9. 自分に嘘をつくこと
10. 自分には価値が無いと思い込むこと

どれも、先々の人生を大きく変える学びでした。

マインドフルネスが気に食わなかった話

中でも、最近流行りの『マインドフルネス』。
出会うべくして出会ったこの手法は、救世主であったと同時に、初めは自分にとって全く相容れないものでもありました。

(どうせ運良く幸せにやってこれた陽の者たちがやってるやつでしょ?)
(ただでさえマイノリティ。権力もないし理不尽ばかり。努力だって必ず報われるとは限らないのに、おめめつぶって呼吸するだけで幸せになれたら誰も苦労しないわ!)

(ひどい。)

まぁ、自分が今までやってきたこと信じてきたことが180度覆されるような思想に出会ったら、自分の半生を否定されたようなもの。
自分が経験してきた苦悩を微塵も感じてこなかった人たちの戯言のように聞こえてしまったのも、自分を守る一つの手段だったのかもしれません。

けれど学べば学ぶほど、過去、自分と同じように壁にぶち当たった人たちの中から生まれたものであることに気付いていき、食わず嫌いしていた自分の卑しさが心底恥ずかしくなりました。
(ダイバーシティのことやってました、なんて言えない…)

悪鬼を見過ごす勇気の話

「これだけは変えられない」と思う自分の信念って、ありますよね。私の場合それは『悪鬼を見過ごしてはならない』でした。

12月に入る頃までなかなか『怪人めくじらババア』をやめられなかった私は、相変わらずなまはげもビックリの形相で街を闊歩。

もちろん、かぞくや上司、今後もよりよい関係を続けたい友人など『対話に値する相手』であれば話は別でしょう。
しかし、対話するに値しない関係性の人にまで、事あるごとにめくじらを立てていては時間とエネルギーの無駄。

(戦闘能力よりも、スルースキルを身につけてさっさと自分のしたいことに時間とエネルギーをかけた方がよっぽどいいかもしれない…)

薄々わかっていても、なかなかやめることが出来ずに悩んでいたとき、以前知人にしてもらったコーチングを思い出しました。

(そも、『悪鬼を見過ごしてはならない』と思うのは何故か?)

ウンウン唸りながら考え浮かび上がってきたのが、

(他に誇れる価値が自分にはないかもしれない)

という根本的自己価値の低さからくる強迫観念。
過去色々な経験も影響してか『自分は無条件に価値ある存在である』という認識を持てないでいた私は、目の前の不届き者を成敗することで自分の価値を見出そうとしていました。

つまり、『変われない』のではなく『変わらないことである種のメリットが自分にあるから変わらないでいる』だけ。

「痩せたい」と思いつつも深夜のお楽しみがやめられないのは、痩せることで得る幸福よりも、いま、この、目の前にある、禁断のカップ麺が放つ香りと絶妙な背徳感からくる幸福のほうが勝っているように感じてしまうから。

小さい頃よくオトナが言ってました。

「人間、そう簡単には変われない生き物だよ」

…でもそれって、変わらないでいるだけの自分の選択を「変えられないものだから」と一般化して、誤魔化してるだけじゃないですか?

言動の裏にある感情、感情の更に裏にある自分の本当の願いが何なのかに目を向けてみると、自分を少しだけ俯瞰できた気がしました。
すると、今まで『怪人めくじらババア』の標的にされそうになった人たちの許しがたい言動も、

(この人の何がそうさせているんだろう)

とアマゾン奥地の新生物を眺めるかのような心持ちになっていき、怒りの感情はスーッと消えていくのがわかりました。
自分の中にインストールされた「これだけは変えられない」と思っている信念も、心の中でスワイプすれば案外簡単にアンインストールすることができるのかもしれません。

それ相応の勇気さえあれば。

いじめっ子と二世帯住宅してた話

私には出会って28年目を迎えるいじめっ子の幼馴染がいますが、何か少しでも失敗をすれば、

「それ失敗しちゃうの人としてやばいよw」

後悔したり落ち込んだりしていれば、

「いや甘えんなしw努力不足だろw」

お休みでゆっくりしていれば、

「だらしないと思わないの?そんなことしてるのお前だけだよ?」

他人と私とを比べては、

「それに引き換え、お前まじ雑魚だな〜w」

と、口を挟んでくるようなやつでした。

振り返ればこの27年間、ほぼ毎日そんな言葉を浴びせられては「その通りかも…」と落ち込み、やる気も失せ、だんだん周囲が妬ましく見えるようになっていき、同じように妬みを言う人達と連んだ時期もありました。

誰かがなんとなく幸せそうにしてると「そいつの足引っ張ってやろうぜ」と意地悪な提案を持ちかけてきたり、逆に私に良いことがあると足を引っ張られたりしました。

12月に入ってから『怪人妖怪ババア』はいつの間にか姿を消しましたが、そんな幼馴染『悪いほうのキョウヘイ』とはなかなか決別できずにいたのが当時の私。

愛する人を思いやるように、自分自身を思いやるということ。これを心理学の分野では、

『セルフコンパッション』

というそうです。必要以上に自分を責めることはせず、シンプルに課題を受け止め解決策を興じる。これが本当に勇気のいることで。

人間、自分の本当の願いとは真逆のことを感じたり行動したりしてしまうのは何故なんでしょう?過度の自責はパフォーマンスを下げるだけで何も良いことがないし、自分自身を抱きしめてあげることは「甘え」でも何でもないはずなのに。

問題から目を逸らさなければいいのであって、自分を思いやることでより早く立ち直り、行動の最適化が出来るのなら、そのほうがよっぽど良いはずなのに、何故か自分の心をボッコボコにたこ殴りしてしまう。

悪循環を引き起こすもう一人の自分に、

「いいからもう黙ってて!!!!!」

と言って決別し、代わりに大親友を心に住まわせること。2021年に達成したいことの一つです。

まとめ

コロナ離職も、今となっては良い悪いの話ではありません。
思えばこれまで働いてきたどの職場も、与えられた業務や職場そのものを通して自分の価値を見出そうともがいていたような気がします。

ブランド物を手にとれば自分の価値も一緒に底上げされた気になってしまうように、自己価値の低かった私は、会社の素晴らしさやチームの皆さんの優秀さに触れる度に、

("ここで働いている"自分が欲しい)

と感じてしまっていたかもしれない。
(お仕事の仕方や価値観は人それぞれなので、それが良いとか悪いとかの話ではありません。)

そんな自分と、改めて向き合う機会をくれたのだと考えれば、単に良い悪いでジャッジできるようなものではない気がするのです。
(あくまで私個人の離職に対する所感であり、昨今のコロナ離職者をとりまく現状と課題については、この限りではありません。)

そしてそれは、サポーティブな環境と優秀な社員の皆さんに囲まれてこそ生まれた感情であることも、忘れてはならないこと。
基本的な人権が当たり前のように守られ、多様な人が活躍し、セクシュアリティも含めた様々な違いが想定できる場所に身を置いて初めて、人はこんなにもパフォーマンス高く能力が発揮できるのだな、と痛感していました。

働く以前の、セクシュアリティからくる人間関係の悩みなどではない、ごく普遍的な部分で悩むことができたのは、私にとってはすごいこと。
仕事で得た知識と経験をライフワークに還元されている方も沢山いらして、私もそんな人でありたいと改めて感じさせてくれた。

(ご縁をいただけてよかった)

そう心から思える職場でした。

何事もどう意味付けしどう明日の糧にするかは自分次第。月並みだけど、

『昨日より今日、今日より明日』

他人ではなく過去の自分と比較することで、確実に前へ進んでいる成長を実感しながら、当たり前ではない "今この瞬間" に感謝できる2021年にしたいと思っています。



取り留めなく書いてしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。5年後10年後に読んだら、また新たな発見があるかなと思って書き記させていただきました。

まだまだ未熟な私ですが、皆さま末永くよろしくお願いいたします。

おしまい

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